4-6

 チャイムが鳴って教室前方のドアが開き、閉まり。担任の声が響く。

「ほら席に着けー!」

 ガタガタと机や椅子が音を立て、ざわめきが水が引くように消えていく。

 美空は僅かに顔を顰めながら、難しい言葉と漢字と頭の中で格闘していた本を閉じる。その後に続く日直の号令を周囲に合わせて静かにこなし、眉間のシワが戻らないまま顔も上げずに着席する。

 担任の、聞かせることに慣れた声が二、三の連絡事項を読み上げて、SHRショートホームルームは終わりになるはずだった。

「柳瀬」

 はい、と窓側の美空にとって最も遠い辺りから、細く高い最近聞き慣れてきた声がした。静まり返った教室にその声は良く響き。声の主、柳瀬がぴょんと立ち上がり。手招きされてちょろちょろと教壇へと上がっていく。

「一昨日、中学生弁論大会の地区予選があって、上級生を抑えて柳瀬が優勝した。柳瀬、おめでとう」

 担任は柳瀬の背中を勢いよく押す。すこし驚いた風の柳瀬は教壇の縁でたたらを踏んだ。

 わっと声が満ちて溢れる。おめでとう、すごいね、見たよ、やるじゃん、称賛の声が柳瀬に集まる。

 優勝、すごい!

 美空も思わず顔を上げる。

 おめでとう。声を掛けたい、口を開きかけ、結局、声は音にはならなかった。

「全国大会は来月だそうだ。期末試験が終わった頃だな。今年はうちの県での開催だ。用事がないやつは行ってやれ。以上」

 担任が扉を出ていく。席へと戻る柳瀬に幾人もが声をかけ。柳瀬の属するグループの少女達が群がって行く。すごい。やったね。いつの間に。どんなだったの。え、一昨日? なんで言ってくれなかったの。喧騒は一気に高まり教室からあふれて零れんばかりになった。そろそろ周囲のクラスから苦情が来てもおかしくはない。

 来月か。美空は一人静かなまま読んでいた本をしまう。一時限目の教科書へと手を伸ばしながら予定を頭の中で思い浮かべ。考志の代わりに出席するため、すっぽかした予定が何であったかを思い出した。


 改札を小走りで通り抜ける。募金の呼びかけやら政治家の演説やらで人の溜まる駅前通りをすり抜ける。通りの角を信号待ちの間を縫ってようやく曲がり、左右に木々の生い茂る全開の門にたどり着く。軽く息を弾ませたまま、自動で開くドアももどかしく。

 この時間なら。美空は利用者の多い図書館内をぐるりと見回す。手前の総合カウンター、その隣の貸出の。検索コーナーを挟んで向こうの返却カウンターにも求める小柄な姿は見当たらなかった。

 今日は寄らなかったのだろうか。それとも館内のどこぞで目当ての本を探しているのか。まだ習い事に向かうには早い時間のはずだった。

「内山さん?」

 声は背後からかけられた。

 びくりと肩を震わせた美空は、心臓を跳ねさせたまま振り返る。

「どうかしたの?」

 美空を僅かに見上げたまま、きょとんと柳瀬は瞬いた。

「どうもしない、あの」

 慌てた声は上ずっていた。美空は柳瀬の手を取った。おしゃべり可能な休憩所へと入っていく。空きテーブルに荷物をおいて、ようやく美空は振り返った。

「弁論大会、おめでとう! 行かれなくてごめんなさい。島の集まりにお父さんの代わりに急に出ることになったの。場所が遠くてお兄ちゃんに連れて行ってもらって県立会館とは別の場所で、時間も長引いちゃって、終わる頃には終わってて」

 半分が本当、半分が嘘だ。考志が頼んできたわけはなく、美空が勝手に参加したのだ。時間的に厳しかったのは本当だ。すっかり暗くなってから会議はようやくお開きになった。ただ、会議の間も省吾に家まで送られている間も、すっぽかした予定のことなど全く思い出さなかったのも事実だった。島を追い出される。その衝撃ばかりが美空の頭を占めていた。

「大事なお話だったの。途中で抜けるわけにも行かないし、ほら、一応お父さんの代わりだから最後までいなくちゃいけないし。県立会館って中央駅でしょ。集まりは場所も違うし路線も違うし」

 美空の視線は落ち着かない。空虚な言い訳ばかりがするすると口を吐く。

「そうなんだ。内山さん、お父さんのお手伝いしてて偉いね」

 美空は続けようとした口を閉じる。柳瀬を窺う。

「私もね、大会、すごく頑張ったんだよー」

 目が合った。

 柳瀬はにこにこと美空を見返してくる。いつも柳瀬が教室で浮かべている笑顔だ。

「どんなこと、話したの」

 弁論大会というからには、論文がありそれを読み、論文の内容と話し方とで審査される……美空の認識といえばその程度だ。柳瀬がずっと図書館で調べたりして論文部分を考えていたことは知っている。

「今年のテーマは環境問題だったんだけど、温暖化を中心にしたの。本当は今すぐにでも温室効果ガスを減らさなきゃいけないんだけど、そうしたら車も使えないし、いろいろいきなり不便になっちゃうでしょう? だから、できることから始めないとって」

 柳瀬は返却する本を取り出す。ナイロン製のこの袋も石油なんだよ、呟くように続ける。

 美空はあぁそう、曖昧な相槌を打ちながら、取り出された本のその表紙を凝視していた。

 深い紺を地の色にした、落ち着いた雰囲気、といえば聞こえはいいが、堅そうな雰囲気の本だった。表紙はシンプルで、中央に意匠が一つ。その上にタイトルと著者とが書かれている。目を引いたのはその、意匠だ。

 頂点の角を一つ欠いた三角形を三つ、円に沿わせて向かい合わせたような。

「それ」

 幼い頃、島で見たマークだった。小さなショウゴと一緒に閉じ込められたシャッターの向こう側で。

「なぁに?」

 美空の視線に柳瀬は表紙を覗き込む。あぁこれ。

「放射線マーク」

「放射線?」

 聞いたことがあるような、ないような。美空が首を傾げると、柳瀬は同じく傾げてみせた。

「えっとね。原発の材料になるような放射性物質とか、放射能があるよってマーク。この本、放射能が人とか環境にどんな影響を与えるかを書いた本なの」

 美空が手を伸ばすと柳瀬は渡してくる。読んでみる? そう、顔には書いてある。

「内山さん、こういうの、興味ある?」

 柳瀬と目を合わせたまま美空は瞬く。興味。口の中で言葉を転がす。

 興味がある、というより、あの場所にあったのだ。つまりあの場所には、放射線マークが必要なものがある。

 興味。もう一度美空は呟いた。マークを見て、柳瀬を見る。

「……少し」

 多分、きっと。心の中で美空は付け足す。パラパラと本を捲る。

 ――難しい。

「そう」

 柳瀬に手のひらを見せられて美空は重い本を渡した。柳瀬は荷物を直し、本を抱える。行こうかとカウンターの方を示す。

 美空が借りるにしろ、やめるにしろ、本は一旦返さなくてはならない。

 柳瀬に並んで美空も閲覧室へと戻る。借りてみようか。けれど読んでわかるような気もしない。どうしようか。考えながら。

 柳瀬は手早く返却手続きを済ませると、くるりと向きを変え小走りに美空の元へと寄ってきた。大して走ったわけでもないのにわずかに頬を上気させ、目を輝かせて美空を見上げる。

「こういうの詳しい人、紹介できるよ!」

「え?」

 きょとんと瞬く美空へ少しばかり苦い笑いを、けれどどこか嬉しそうに浮かべてみせる。

「本よりわかりやすいと思うよ。私もね、いろいろ教えてもらったの。それでも難しくて」

 入れるのやめたんだけどね。呟くように続ける。

「新聞の記者さんなんだよ。『移住被害者の会』の人でね。昔から仲良くしてもらってる人なの」

 私、一人っ子で、よく遊んでもらったの。柳瀬は続ける。少しだけ嬉しそうに美空には聞こえて。――省吾お兄ちゃんみたいな人かな。ぼんやりと美空は想像する。

 二人で一緒に自動ドアを潜る。柳瀬は今日は特に借りる予定はなかったらしい。美空自身も、目的は達した。

「放射線のこととか、原発事故のこととか、いろいろな事にすごく詳しいんだよ」

 眩しいものを見るような顔で柳瀬は笑い。

 じゃぁね。美空が頷くのを待って、笑顔のまま習い事へと走って行った。

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