4-5

 集会場の扉が開いて、フカミは掃除の手を止めた。飛び込んできたショウゴは、息を切らして全身で汗をかいていた。扉に寄りかかり足を止め言葉を紡ごうとして何度も何度も咳き込んだ。

「どうしたの」

 とりあえずと汲んだ水を一息に呷りさらに噎せる。何度か噎せて、目に涙を浮かべたままで、ようやくショウゴは言葉を発した。

「かま、れた」

「え?」

 ショウゴは大きく息をする。二度、三度。

「ジン……と、カ……キが」

「ジンタとカツキ?」

 ショウゴは頷く。もう一杯。水を渡せば再び飲み干す。

「ウミヘビに、噛まれた」

「ウミヘビ!?」

 ウミヘビは島の岩場付近の海中に当たり前に存在してた。猛毒を持っていはいたが、滅多に噛むような事は無い。島の者なら無駄に近寄ってはならないと幼少期にたたき込まれる。漁のものなら、空気を吸うように身についているはずの事だった。

 ショウゴはガクガク大きく頷いて見せる。やや落ち着いて四度、五度と深呼吸を繰り返す。

「先生を呼んで来いって言われて、島長も、て思って」

 先生とは島医者、シガラキ。

 浜から医療院に寄った後、ここまで走って来たのだろう。

「待ってて」

 島長は二階で書き物をしているはずだった。シノは食堂へ出かけている。

 フカミは集会場の奥へと急ぎ、階段を一段飛ばしで駆け上がった。


 開け放されたままの入り口から荒い息を繰り返しつつ覗き込む。漁舎の一階は未だざわつきを残していた。

「先生!」

 飛び込んだショウゴの声に一斉に視線が返る。返さなかったのはさほど大きくはない丸い背中と、その背中が覗き込んでいる女性くらいのものだった。

 背中はデニスだ。覗き込まれているのは、仰向けに寝かされたカツキだった。

 白い。フカミは思い、息を呑む。

 カツキはタオルを敷いただけの床に直接寝かされていた。床には点々と滴が残り、髪はべたりと頬にタオルに張り付いていた。その黒い髪を貼り付けたままの頬には、薄暗い舎の中でも解るほど、白く血の気が感じられない。

「シガラキ、状況を」

 島長は少しばかり息を切らせて、フカミの横を構わず過ぎた。カツキを見下ろす位置に立ち、舎の中をぐるりと見回す。カツキを眺め、デニスを見やり、奥のシガラキとジンタへと目をやった。

 呼ばれたシガラキは、島長、と呟き瞬き、立ち上がった。

「ウミヘビに噛まれたという事ですが。ジンタは落ち着けば大丈夫でしょう」

 ジンタはシガラキの足下でタオルを被って震えていた。心細そうに今もシガラキを見上げている。

 カツキは、と、シガラキは寝かされた女性へ眉を顰めて目をやった。

 ばちん。音がして、フカミは思わず肩を震わす。デニスが鞄を無造作に閉じた、その音だった。

 のっそりとデニスは座ったままで振り返る。島長を表情を感じさせない目で見上げる。

「せらむ入レた。マツ。イノる」

「カツキは毒が回っている可能性があります。祈るしか」

 デニスは早口でそれだけ言う。シガラキはわかる言葉で補足した。――セラムが何かは言わなかった。

 ウミヘビの毒は強力だった。噛まれればだるさを覚え痺れを感じ、やがて呼吸も止まってしまうと言われていた。海の中で噛まれたなら、心臓が止まるより先に溺れ死ぬこともあるという。

「なんで」

 思わず漏れた。デニスは傍らの女性に頷いてみせる。カツキはあっという間に女性達に囲われて、意識がないまま拭かれ始めた。

 気をつけて。肋骨。折れて。医療院あっちへ運んで。

 言葉を聞き流しながら、フカミはジンタへと目をやった。目が合うとジンタは、目を泳がせて足の間へ顔を伏せた。フカミや島長や、人々の視線を拒絶するかのようだった。

「カツキ、噛ませタ。ジンタ、言ッた」

 背後から聞こえてきた声はエリックのものだった。振り返れば髪は濡れ服は乾いている。階上で着替え階段を降りて来たのだろう。その巨体で入り口を半ば塞ぎながら、島長を見やり、部屋の奥を睨みつける。ジンタを。

「カツキが噛ませた?」

 吐息のような悲鳴が上がった。ジンタは自分の腕を幾度も摩る。包帯で巻かれた箇所を包帯の上から、震える手で。

「ジンタ、ふらふら。噛まレた、言っタ。カツキに、言っタ」

 ジンタの手が止まる。包帯の巻かれた腕を強く掴む。

「ジンタ、腕。カツキ、ゆび。カツキ、腰ニ袋。いつも、ナイ」

 ジンタの包帯は腕にあった。あれが噛まれた箇所だろう。カツキが噛まれたのは指先ということか。例えば、捕まえたウミヘビを袋に入れ、出すときに噛まれたような。そして、噛まれてもなお、取り出しジンタの腕を噛ませた。

 ウミヘビは温厚で、刺激しなければ自ら噛むことはほとんどなかった。噛むにしても牙は短く、毒が入らないことも少なくない。聞かされてはいたが実際に噛まれてしまった人を、フカミは見たことがなかった。

「あいつは、オレを、殺そうとしたんだ。オレが――」

「カツキ、海ノ中、イタ」

 ジンタの言葉など聞きたくないとでも言うように、エリックは言葉を被せて言った。ジンタを見る目は冷たい。

「息、ナイ。ハートマッサージした。息、戻ッタ。毒、無理」

 息がなくて、戻った? フカミには途中の言葉が解らない。

「祈ル」

 フカミの問いかけるような視線など気にもせず、エリックはふらりと入り口を離れた。少し離れた砂浜に膝をつく。砂浜に影を落とし、集会場の方を向く。手を投げ出して頭を砂浜にこすり付けるような、奇妙な仕草を繰り返す。

「ベッド、作る。まツ」

「あ、はい。後から運んでもらいます」

 デニスはカバンを掴むと振り返りもせず砂浜へと出ていった。エリックへちらりと視線をやり、何も言わずに坂へと向かった。

 説明を引き受けたのはシガラキだった。

「心臓がショックで止まってしまっていたみたいです。エリックが応急処置したようで」

 肋骨はその時折れたようだ。言葉を続ける。

 シガラキはちらりと後ろを振り返る。カツキは水気を拭き取られ、濡れた衣服は剥がされて。それでもなお、頬は、白い。

「セラム、というのをエリックが打ってくれました。あとはカツキの体力次第と」

 先生、声をかけられ、シガラキは頷く。担架を。声に幾人かが動き出した。

「カツキは医療院に運びます」

「生き返らせた、というのか」

 島長だった。砂浜で『祈り』続けるエリックをじっとじっと見つめている。

「少し違います。まだ死んではいなかった。けれど、そのままでは死んでしまう。そんな状態だったようです」

「セラム、というのは」

「毒に耐えるための薬、と聞いています。間に合えば、助かると」

 フカミはカツキを振り返った。タオルが掛けられ、上掛けが掛けられ、用意された担架に移されようとしている。

 心臓が止まって、動き出した? ウミヘビの毒に耐える?

 そっとね、そっと。肋骨が折れているんだ。気をつけて。

 シガラキの声が響く。白い、白い頬が力なく為されるままに揺れている。

「助かるかな」

 ショウゴはフカミの裾を引く。神様。小声で、祈る。

 わかんないよ。フカミは言おうとして。

「心臓が一度止まり、毒に冒されたものが生き返る、と?」

 硬い声に口を閉じた。

 フカミの隣でフカミの祖母は、感情を殺したような声で続ける。

「死ぬ定めを曲げたというのか」

 凜と、響く。

 フカミははっと祖母を見る。フカミと同じくらいの高さの目線はシガラキを静かに見やり、外へと動く。シガラキは視線を向けられ苦しそうに顔を逸らし。ささやかなざわめきが生まれ始める。

「それでも。今は望みがある、から」

 運んでください。シガラキは言い、先に立つ。遠慮するかのようにそっと静かに、カツキの担架は運ばれていく。

 残されたジンタは腕を掴んだまま震えている。

 フカミは思う。エリックの告発の通り、ジンタがアカツを殺したとして。それは罰されることではない。罰したりなど誰もしない。ただ。気持ちを止めることは誰にもできない。

 エリックの告発でカツキは気づいた。ジンタがアカツにしたように、カツキはやろうと思ったのだ。

 きっと、たぶん、もしかしたら。それは、フカミの想像でしかないのだけれど。

「ショウゴ!」

「え、はいっ!」

 呼ばれて示され、洗うものをかき集め、ショウゴは外へと駆け出して行く。

 バタバタと残った者たちは動き始める。ジンタを置いて、島長を横目で見つつ。日常を再開していく。


 そして、五日ばかり後。

 頬に赤みを戻し目を開けたカツキは、島長以外の皆に喜ばれた後に。

 神の泉で息絶えているところを発見された。

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