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 携帯電話が鳴って孝志が困ったなと顔をしかめた一瞬を、ベーコンエッグに齧り付きながら美空は確かに目撃した。じとりと見つめる娘に気がついて、孝志は慌てたように取り繕う。

「今日は遅くなるだろうから、夕飯は済ませちゃっていいからね」

 コーヒーを飲み干し片付けは任せると椅子を立ち、思い出したように携帯電話に立ち止まったまま何事かを打ち込んでいく。

 最後に電話をかけながら、洗面所へと入っていった。

「内山です。曽田さんの携帯でよろしいでしょうか。あぁ、おはようございます。今日の――」

 そこで、洗面所の扉は閉められた。

 美空は冷蔵庫脇のカレンダーへと目をやった。今日は土曜日。美空も孝志も出かける予定になっている。美空のマークはピンクの星で、孝志は仕事を示す黒四角だ。

 予定とは別の急な仕事でも入ったのだろうか。美空は思いつつパンを片付けミルクを飲み干す。食器を重ねて流しに運び。ふと、気付いた。

「髭のおじいちゃん」

 いつものように半自動的に美空は後片付けを済ませていく。洗面所から出てきた孝志はヒゲをあたり、先程までのポロシャツではなくクリーニングされたYシャツへと袖を通している。ボタンをかけつつ、取り込んで放置されたままの洗濯物から靴下を引き出しハンカチを掘り出す。

『お仕事』なんだな。美空は思う。ちゃんとしたシャツでピシッとしたスーツに着替える必要がある。そんな種類の。

 再び引っ込んだ孝志は縒れたスラックスを折り目のついたスーツに替えて、ビジネスバッグを持っていた。

「美空も出かけるんだったよね。気を付けて行っておいで。じゃぁ、お父さんはちょっと早いけどもう行くから」

「行ってらっしゃい」

 玄関が鳴る。鍵がかかる。足音が響き遠ざかる。

 自分も仕度をしなければ。部屋に戻ってふと自分のスマートフォンを手に取った。

『今日って、島のことで会議とかあったりする?』

 メッセージのあて先はもちろん省吾だ。

 着替えて髪を梳かして邪魔にならないように結って。そうしているうちにスマートフォンはメッセージの受信を告げた。

『あるよ。よく知ってるね』

 美空はメッセージを打ち込みながら思わずニヤリと笑んでいた。今日の予定を思い出しつつ、変更可能と心で呟く。

 弁論大会よりずっときっと面白い。

『お父さん、お仕事で行かれなくなったから、私が出るね』


 難しいと思うよ。言いつつも省吾は待ち合わせ場所を指定した。

 まぁ、いいだろ。曽田は苦笑を浮かべながら、省吾へ面倒を見ろと指示を出す。

 幾人かが怪訝な顔を向けてはきたが、美空が座りしばらくすると、じゃあと曽田は口を開いた。

「第二一八回、定例会を始めます」

 スクリーンに文字が映る。『定例会』の文字に続き、今回報告、今回収支、次回予算、移住先選定について、と文字が並ぶ。

 美空は省吾へと問おうと見上げ、真剣な顔に口を閉じた。

 報告、収支はなんとなくわかる。予算という言葉もテレビやニュースで聞く言葉だ。スクリーンの下方の文字をじっと見つめる。『移住先選定』 ――引っ越し? 誰が、どこへ?

 スクリーンの表示が変わる。見ていた文字は細かな表に入れ替わり。曽田がおもむろに口を開いた。

「まずは今回の収支から」

 九七年秋季、とあった。支出欄には食糧費、修繕費、医薬費、燃料費、人件費などの言葉が。収入欄には補助費と並んでもう一つ記載があった。見たことのない単位が書かれている。『体』とは。

 美空は一人首を傾げる。美空以外の出席者は特別な反応を示さない。

「燃油と穀物の高騰が痛いところだが、どうにもならんですな。支出は抑えたいところですがこれ以上は」

 曽田はちらりと参加者の一人へ視線を送る。『お役人』と渾名される谷村は肩をすくめてみせた。

「補助金の増額も期待はできません、と。じゃぁ次にいきましょか」

 スクリーンの表示が変わる。各種報告、とタイトルがある。

「現在の人口は六一。不法入国三。計、六四。内訳は省略します。気になる人は資料を見といてください」

 スクリーンの表示が変わる。いくつもの画面が映っては補足されて次へと変わる。

 島のことを話す会議。美空はそんな風に考えていた。どんなことを話すのだろう。単純な興味だった。孝志が行かないのなら、代わりに話を聞いてこよう。思ったことは思っただけで終わりそうだ。

 数字ばかりが流れていく。美空の上を滑っていく。

 知らない単位の、わからない用途の、見たこともない事柄の表記が映り進んでいく。『その他』というタイトルで表示が止まると、サーバとかタイヨウネンスウだとか。松木が流暢とは言えない喋りで何事かを話し出す。曽田はいちいちうんうん頷き、谷村はムッツリ顔で聞き流す。

 そして。

『移住先選定』タイトルが大きく映る。

「じゃ、定例の話はこの辺にして」

 曽田はスクリーン脇のパソコンを弄る。説明用の画面が消えてOSの基本画面が現れる。マウスが一つのアイコンを選びだした。起動し画面を大きくする。

『沖ノ鳥島返還計画』

 中央にはそんな文字があった。

「え」

「本題に入りましょかね。谷村さん」

 呼ばれた谷村が立ち上がる。曽田と場所を交代する。谷村がパソコンに手を伸ばす。スクリーンの表示が変わる。谷村が話し始める。

 返還、て。美空はスクリーンをただ見つめる。ただでさえ難しい言葉を使う谷村の声など、欠片も頭に入ってこない。

 返還、日時、集団移住、候補地、復権、教育、生活、保護、住民登録、担当者。そんな文字がスクリーンに現れては消えていく。

「あの島は期限付きで国から借りているんだ」

 傍らを見上げる。硬い顔をした省吾が谷村のマイクの声に紛れそうな声で囁く。

「期限が来たら返さないといけない」

「そんな!」

 思わず声が出てしまった。

 マイクの声が止まる。

「内山美空さん、質問は後でお願いします」

 見返せば呆れたような視線があった。曽田はいたずら顔で口元に人差し指を立てて見せている。――このおじさん煩いから、黙っとこ。

 頭に大きな手が降ってきた。ぽんぽんと叩かれるままに伸ばした背を椅子に沈める。省吾の硬い横顔が目に映る。

「では、続けます」

 谷村は説明を再開する。

「スケジュールをまず私の方でざっくりと考えました。検討しなければならないことは多岐にわたります。動き始めるのが遅すぎるくらいと言ってもいいでしょう。各テーマに沿ってワーキンググループを作ります。人手が足りませんから国交省から応援も考えています」

 ――閉じ込めておく期間は一〇〇年。

 島の集会場、嵐の日に曽田は言った。それは、自由に行き来できるようになることだと美空は思った。

 ――つまり、あと二年半っつーことになります。

 再来年の春。美空の中学卒業と同じ頃だ。

 谷村の声は淡々と続く。不安を煽るばかりの静かなBGMのようだと、美空は思う。

 そうして三〇分にも及んだ後で、ようやく谷村は言葉を切った。

 ため息のような音が会議室のそこかしこから上がってくる。祖母に大掃除を言いつけられた孝志が吐くため息のようだと美空は思う。いや、もっと率直に。運動会後の集団清掃の担当分担時の男子生徒のような。――やらねばならず、けれども何処までも面倒くさい。

 ふと、谷村の視線が飛んできた。美空に、いや、隣の省吾だ。

「どうぞ」

 省吾は小さく挙げていた手を下ろした。まっすぐに谷村とスクリーンを見つめたまま。

 机の上で手を組んだ。指先に、少し力が入っているように見えた。

「移住は絶対でしょうか」

「どういう意味かい?」

 答えたのは曽田だった。谷村はひとまず様子を見よう、そんなふうに二人を見ている。

「借地権の延長という案は考えられませんか。彼らは現代社会を知らない。あの島で少しづつ慣らしていく、という選択肢もあるのでは」

「例えば、期間は?」

 省吾の目はわずかに泳ぐ。そしてきゅっと唇を引き締めた。

「一〇年」

 曽田は谷村を振り返る。谷村は緩く首を振った。

 お話にならない。そんな言葉が聞こえる気がする。

「島は借地権が切れ次第、海上自衛隊の基地になる予定です。施設の整備、フロート式滑走路の整備、港の建設、港湾施設の建造。基地として機能できるようになるまでにやることは山ほどあります。東南アジアでのテロの多発、近隣国の領海侵犯。連日ニュースになっていることはご存じでしょう。現に島にも不法入国者と思われる人物が存在します。猶予はない、というのはご理解いただけますでしょうか?」

「工事をしつつ、少しずつと言う案は」

「湾や近海での漁業は難しくなるでしょう。農地も大幅に削る必要があります。集会場は整備基地の中心になるでしょう。そもそも、あの狭い島で工事関係者と彼らが共存できると思いますか」

 谷村の視線は静かなままだ。省吾は視線だけをさまよわせつつ、言葉を続けられない。

 曽田も、松木も、船の中で見知った大人達は誰も彼も、諭すような顔をしている。――だだを捏ねる子供の美空を前にした孝志のように。

「良い移住先を見つけて生活を保障する」

 曽田はゆっくりと言葉を紡ぐ。省吾を見、傍らの美空と目を合せる。

「それが、彼らのためにも最善だと思っとるよ」

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