4-2

 騒々しい駅前の繁華街を抜ける。そこだけ緑に埋もれそうになっている門を過ぎて前庭に入っていく。道路からほんの一〇メートル足らずの場所にどっしりと構えた建物を見上げ、美空は思わず大きくため息を吐いた。

 ――やっと来れた。

 夏休み明けの渡航から戻り新学期の雑事に追われた。受け損ねた試験の追試だったり、興味など欠片も湧かない文化祭の支度だったり、サボることを考える方が面倒くさいという理由で参加せざるを得なかった体育祭の練習だったり。

 それらが終わり、日常を取り戻すかと思った途端に中間試験の時期になった。中学校は何かと面倒くさいと美空は思う。

 部活動も禁止され同級生たちはブツブツ言いながら試験勉強中だろう。どこが出るんだろうだとか、得意不得意範囲がどうの順位がどうの。学校は何かと姦しくとも、美空はそこに加わってはいなかった。美空を誘うような友人などいなかったし、誘われたとして断るだろう。勉強してるんだかしてないんだかわからない勉強会も、そもそも試験前ばかり慌ててやろうという彼ら、彼女らの態度も好きではなかった。一学期の中間テストと期末テスト。誘われて参加してみたものの、最悪だったと美空は思い出してげんなりする。一人例題を難なくこなす美空へ飛んでくる質問はレベルも低く美空にとって邪魔なもの以外の何ものでもなかった。

 建物中央、自動扉の前に立つ。少しばかり緊張しながら、入って右手、検索コーナーの釣り看板を確認する。

 ――あそこで探す。フロアに行く。

 春に来たときは省吾と一緒だった。検索すると便利なんだよ。言いながら省吾は何度かコンピュータの画面に打ち込み、さほどかからず目的のものを見つけ出した。あのときの目的は、新聞の縮小版や、事故を扱った書籍だった。今日の美空の目的は、もう一歩踏み込んだものだ。例えば、神様だとか。

 空いている端末の前に立つ。混んではおらず、順番待ちの影もない。

 キーボードは松木のおかげで慣れていた。ローマ字変換もマウスの扱いも抵抗はない。

『沖ノ鳥島』『住人』

 打ち込み、クリック。本のリストが表示される。どれだろう? これは地理の本。次は小説。その次は領土問題。

 美空は思わず首をかしげる。なんだか、探したい感じの本がない。

 語句を変えて、もう一度。

「内山さん?」

 びくりと肩が動いてしまった。潜めた声に美空は反射的に振り返る。少女が右手を中途半端に上げたままで固まっていた。

 少し気の弱そうな大きな目が見開かれて瞬きした。前髪は薄めに眉毛まで。肩にかかるくらいの真っ直ぐな髪を横だけ後ろでまとめている。美空より小柄な体躯に重そうなカバンを下げていた。

 見覚えがある。美空は思う。小動物を思わせるのは小柄だからというわけでもなく。ちょこちょこ誰かの後ろを動くような。

「よかった、合ってた」

 少女はにこりと目を細めた。そこでようやく、名前が浮かんだ。

「柳瀬さん」

 柳瀬結芽。クラスメイトだ。クラスメイトだが、五十音では名前も遠く、グループも違う。(そもそも美空はどこのグループにも所属などしていなかったが)多分、話したことは数えるほどしかないはずだった。

 何の用。聞く前に柳瀬は、更に目をぱちくりと瞬いた。

「本、見つかりそう? 検索ってコツがいるよ。困ってるように見えたけど」

「え、あ」

 柳瀬はひょこりと顔を寄せてきた。小さな声で画面を覗き、傍らのマウスへ手を伸ばす。

「どんな本を探してるの? もしかして、一〇〇年くらい前の本?」

 美空は思わず息を呑む。探そうとしたのは島の本だ。島にいる彼らのことがわかる本。ただ、それがどんな本かは分からなかった。一〇〇年前と言われれば、そのくらいな気もするが。

「何で、そう思うの」

 柳瀬は手を止め振り返る。腕時計をちらりと見やり、にこりと美空へ笑いかけた。

「内山さん、時間ある? おしゃべりできるところにいかない?」

 美空ははっと周囲を見回す。特に視線は感じなかったが、行き交う人々の足音と静かでうるさい空調の音が、二人を咎めるように響いていた。


 習い事に行くついでに本を返しに来たという。柳瀬は重そうなカバンをベンチに置いて缶ジュース片手ににこにこと喋り始める。

「この間お休みしたのって、沖ノ鳥島に行ってたんでしょ?」

 美空は音を立てて落ちてきた紅茶の缶を取り出した。

 なんで知ってるの。疑問は口に出さずとも背中に滲んでいたらしい。

「先生が言ってたんだ。内山さんはお父さんのお仕事の手伝いで沖ノ鳥島に行ってるって」

 プルタブを引く。口を寄せるが、ホットは持つのも辛いほど、熱い。

 あぁ、それか。美空はなんとなくと思い当たった。渡航から帰りしばらくして、美空を揶揄すると思しきあだ名に気づいた――『沖ノ鳥島』 生徒思いの理性的熱血教師。そんな仮面をかぶったまだ若い担任教諭の顔が浮かぶ。余計なことを。浮かんだ言葉はかろうじて声に出さずに紅茶と一緒に飲み込んだ。

 図書館の片隅に設えられた休憩スペースに他の人影はなかった。柳瀬の少し高く可愛らしい声ばかりが響く。

「ね、沖ノ鳥島ってどんな所? 聞いてみたいなって思ってたんだけど、学校じゃ、その、なかなか聞けなくて」

 柳瀬の声は少しばかり弱くなった。美空はちらりと伺ってみる。すまなそうな目と合った。

 すまなそうな理由は、美空にだってさすがに分かる。だからというわけでもなかったが。知らず声は低くなった。

 紅茶を啜る。まだ、熱い。

「なんで」

 柳瀬の目がぱっと開かれた。好奇心ともう少し確かなものが半分半分、そんな風に美空には見えた。

「なんでって言われると、いろいろあるんだけど」

 いろいろ?

 疑問が顔に出ていただろうか。柳瀬はちらりちらりと美空を見ながら言葉を紡ぐ。

「沖ノ鳥島って、死の島、なんだよね?」

 美空は慎重に静かに頷いた。春、省吾と見た新聞記事には確かにそう書いてあった。

「原発の事故の後、汚染されてしまった町や山を綺麗にしたあとのゴミで作ったって」

 こちらにも美空はこくりと頷いた。

 沖ノ鳥島はもともと島と呼べるかどうかも疑わしい岩のようなものだったという。領土のために島と言い続ける岩が海流で削られてしまうことを防ぐために、コンクリートの護岸で島の周囲を覆っていた。そこに処分に困った除染廃棄土を盛ったのだ。

 新聞には反対意見と賛成意見が並んでいた。反対の理由は様々で、わかりやすいのは環境破壊につながるからというものだった。賛成の理由もまた様々で、生活に影響の少ない場所なら処分するのに好都合、そんなものが多かったように思う。

 もともとが一握りの土もない岩。生き物の気配の希薄な場所だ。除染廃棄土は除染した場所が『安全』になるのと引き換えに放射線量が高く、生き物が生きられないだろうとさえ言われていた。

『死の島』

 省吾と見た新聞の縮小版のショッキングな見出しは、目を閉じれば目の前にあるかのように思い出せる。

 ――そんなことは、全くないのに。

 美空はあの島で生まれたのだ。フカミは笑って暮らしている。子供は太陽の下で走り回り転げ回り、大人は日々生きるために精を出す。土地を耕し魚介を捕り、時に嵐に揉まれながら。東京にいるよりずっと生き生きと。

「えっとね」

 柳瀬の声に顔を上げる。柳瀬は思い出すようにあさっての方を見ている。

「お祖母ちゃんのお祖母ちゃんが原発事故の町の出身だってことと」

 柳瀬は手のひらを開き親指を折る。お母さん、お祖母ちゃん、曾お祖母ちゃん、そのお母さん、のお父さん。

「……五代前のおじいさんを殺した人が行った島だって言うことと」

「え?」

 思わず見返した美空に、柳瀬は気づかず言葉を進める。

「温暖化で沈んじゃうはずだったって言われていたってこととか」

 人差し指を折り、中指を折る。

 そして、ぱっと顔を上げた。

「私、今度ね、弁論大会に出るの。テーマは環境問題でね」

 だから勉強したんだよ。言いつつ柳瀬は重そうなカバンを撫でてみせた。

 殺した人。美空は口の中で呟いた。

 ――NPO団体ODK、沖ノ鳥島死刑囚収監施設維持団、団長の曽田っつーもんです。

 曽田は確かに、言っていた。

 フカミの笑顔が浮かぶ。ショウゴのいたずら顔が。母であるシノの優しそうな面ざしが。

 殺した、人。

「ちっちゃい頃にね、ちょうど事故から一〇〇年になるからって、事故を調べなおそう、事故で何が起きて、今後どうしていくかをみんなで考えようって言い出した人がいたの。『移住被害者の会』っていうんだけど。で、うちも、まだ曾お祖母ちゃんが生きててね。協力するって言ってお手伝いしてたみたいで。私まだ小さくて、昼間はよくお祖母ちゃんのうちにいて曾お祖母ちゃんにも可愛がってもらってたから、その時に一緒に話を聞いたりしてたの」

 美空は紅茶を啜るように含む。目だけで柳瀬へ続きを促す。

 美空と目を合わせた柳瀬は、ほんの少しだけ、ホッとしたように頬を緩めた。

「事故があって雨が降った。追い出されて町を出た」

 曾祖母の真似をしているのだろうか。柳瀬は話し出すと少しばかり顎を引き、胸を張る。しかめっ面をしてみせた。

「知らない町に住めと言われた。家があるだけマシだと言われた。知人は一人もいなかった。仕事は見つけろとだけ言われた。助けてはもらえなかった。事故の町から来たというだけで、町の人は避けて通った。家族だけで孤独だった。お父さんお母さんは仕事を見つけて働きに行った。生活を支えるために必死だったんだろう。だけど、お祖父さんは」

 主人公は曾祖母なのだろう。『お祖父さん』が殺された人、か。

 柳瀬は一休みとでも言うようにジュースを飲む。美空は紅茶を。紅茶は順調に温度を下げてちょうどいい温度になっている。

 柳瀬は口調を元に戻した。

「もともとは家の中でじっとしてたりなんてしない人だったんだって。それが篭りっきりになっちゃって、ボケ始めて。しょうがなくて施設に入れたら、そこであっさり死んじゃって。その後で、施設付きのお医者さんが捕まったんだって」

「お医者さん」

 そう。柳瀬は美空が繰り返した言葉に頷いてみせた。医者について言葉を続ける。天井の方をにらみながら、ほんのり頬を上気させながら。

 調べてみれば殺したのは一人や二人ではなかったという。裁判では死刑が求刑され、判決は求刑通りとなった。

 けれど、死刑は執行されなかった。いや。されたとみなすべきだろうか? 死の島と言われる孤島に送られることは。

 美空はそれを半ば上の空で聞いていた。――美空にとっての医者とは父親の孝志で。患者を殺すなど、ありえなくて。

 柳瀬は言葉を切るとジュースを一口、こくりと飲んだ。

 美空も紅茶の缶を傾ける。紅茶はすっかり冷えていて。美空は意識を柳瀬へ戻した。

「そんな話を聞かされてきたから、沖ノ鳥島って聞いてすごく気になっちゃったの。内山さんとも話してみたいなって思ってたし」

 一学期の成績はトップクラス。どこのグループにも所属せず、話しかけられても必要なことしか返さない。同じ小学校から進学した人たちは、『放射能』とかなんだとか、よくわからない陰口を叩いている。――それくらいは美空自身も知っている。

 話したいって、なんで?

 心に浮いた率直な疑問はアラームにかき消された。柳瀬は眉根を寄せて大きく一つため息を吐いた。

「時間になっちゃった」

 ジュースを飲み干す。荷物をよいせと抱えあげる。

「また今度、沖ノ鳥島のこと聞かせてね」

「え、……うん」

 勢いに押された。美空が頷くと柳瀬はぱっと笑顔をみせた。

「きっとね! それじゃあ」

 パタパタと柳瀬は去っていく。リスみたいだ。美空は後ろ姿でぼんやり思う。

 ぽつんと残された美空は残った冷えた紅茶を飲み干す。そして、電子メモを取り出した。

 ――沖ノ鳥島、ODK、死刑囚、収監、沈むはずだった岩、除染廃棄土。

 知っていること。知識で得たこと。メモへと書き付けていく。

 ――放射能。怖いもの。暮らせないから取り除く。埋め立てる。人が暮らす。

 ――掟。神様。倉庫。お母さん、お父さん、フカミちゃん、ショウゴくん。死んでしまった女の子、お役所の人たち。

 島の常識。思ったこと。一つ一つ。

 ――トラックと、大きかったり、小さかったりする箱がたくさん。冷凍庫。そして、頑丈そうな扉。

 見知ったことと、思い出したこと。カツカツと休憩室に響き渡る。

 そして、メモを見返す。何度も見返す。

 何が気になるのか、美空自身もわからない。

 メモをしまう。閲覧室に一人で戻る。検索機の前に立つ。言葉を打ち込もうとして言葉にならず、ホワイトノイズを聞きながら。美空は一人、立ち尽くす。

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