島歴97年9月~98年3月

4-1

 雨に濡れた引手に滑らないように力を入れて、立て付けの悪い戸を引き開ける。中の人々の視線は開けたフカミに飛んできて、そしてすぐ、フカミの横に立つ島長へと移っていった。

「どうした」

 雨風に濡れそぼった島長へと手ぬぐいが渡される。呼びに来た男とフカミがなかに入ると、嵐の吹き込む戸口を慌てて閉めた。魚油の匂いが強くなり灯火は大きく影を揺らした。

「島長」

 呼びつけた本人、島医者のシガラキは仰向けに寝かされた男のそばから声を掛けた。しゃがみ込み、首元に手を当てている。男を挟んでシガラキの対面に座った丸い背中がのっそりと顔を上げて振り返った。外国人の医者であるデニスは島長を目に留めるなり、緩く小さく首を振った。

 あぁ。フカミはため息を吐く。

 デニスの脇から見えた男の頭は、雨水よりももっと粘ついたもので濡れているように見えていた。頭の下、濡れた床はいくらか色がついて見えた。目は閉じられ、天井を向いた頬は濡れて冷えただけではない白さを見せていた。

 取り巻く漁の人々は固唾を呑んで見守っている。シガラキの、島長の言葉を待っている。

「聞くまでもないな」

 シガラキは緊張か単に雨に冷えたのか、白っぽく硬い表情のままで頷いた。

「頭を強く打ったようですね。舟を浜に上げている最中に足を滑らせたのではないかと」

 昼過ぎから強くなり始めた風は雨を伴い嵐になった。深夜にはもっと強くなるだろう。嵐になれば海も荒れる。内海は比較的穏やかではあったものの、ひどくなるときには波に浚われたりしないよう、舟を砂浜に引き上げる。

 日が落ち、舟を引き上げ忘れたことに気づいた二人――横たわるアカツと、アカツの足元でうつむくジンタ――が作業に出た。ジンタが気づいたときにはアカツの姿は見えず、そして、舟と舟の合間に倒れるアカツを見つけた。ジンタは漁舎へ駆け込みアカツを運び、舎にいた一人はシガラキを呼びに山へと走った。

 そして雨の中到着したシガラキは、即座に島長を呼びに走らせた。

「そうか」

 シガラキからあらましを聞き、島長は一つ頷いた。島長の後ろに位置するフカミにはその表情は見えなかったが、欠片も変わってはいないのだろう、そう思う。

 島長は横たわるアカツの漁の男らしい大きく厚い胸板へと手を置いた。しかし、その手はわずかも上下しなかった。

 シガラキは目を伏せた。デニスは天井を仰ぐように背を反らせた。

「棺を」

 わっと悲鳴のような声が上がった。びくりとジンタの肩が揺れた。

「式は明日執り行う。フカミ」

 島長は立ち上がった。フカミは呼ばれて瞬き、成すべき事を思い出した。

「はいっ」

 フカミは借りていた手ぬぐいを返す。持ってきた灯火を再び手に取る。

 次にやるべき事は誰もが了解していた。何も言わずとも三人ほどが集まって来る。

「マッて!」

 フカミはびくりと引手にかけた手を引っ込めた。

 人々の動きを止めるほどの声だった。振り返ればひときわ大きな体躯の男がアカツの側へと座り込んだ。

 男はアカツの頭をのぞき込む。床を触り流れ出たものを指で確かめ顔を上げる。

「アカツ、何故、どこデ打っタ」

「エリック」

 誰かが呟く。押し止めるような気配がある。エリックは声に頓着する様子もなかった。島長へまっすぐ視線を向ける。

「事故? 誰かノせい? ワからナイのニ棺なの」

 島長は動かなかった。エリックへと頭を向けた。

「どうして死んだかなど重要ではない。アカツは死んだ。遺体が腐り落ちる前に、棺に収め式を行う」

 誰かの泣き声が大きくなる。その誰かを宥めるような声が混じり、声は隣の部屋へと移動していく。

 風がごぅと戸を打った。隙間風がぴゅるぴゅる音を立てる。

「それが掟だ」

 島長がわずかに振り向いて、フカミは瞬き灯火を持った。力を込めて戸を引き開ける。

 ごうと音を伴い雨が吹き込む。フカミと三人、漁舎の男が嵐の中へ歩を進める。

「ナンで、ハンニンを放置するノ。イケないこと。バツを!」

 舎を出た最後の一人は声を遮断するように勢いよく戸を締めた。

 外へ出てしまえば、舎内の音などもう聞こえなかった。フカミは雨風の音を聞きながら、裸足に砂の感触を確かめながら進んでいく。漁舎から砂浜を回り込んだ坂の始まりのこの辺りは、厚い雲に覆われるこんな夜、すっかり夜闇の中に沈んでしまう。

 フカミは灯火を精一杯に掲げて進む。ほんの少し闇を割るように。闇の隙間を見つけるように。そうして、砂から土へと感触の変わる道を進む。漁舎の男三人が光の裾を辿るようにとついてくる。

 棺は上り坂の終点、集会場の倉庫にあった。大きなものから小さなものまで、様々な大きさのものがいくつもいくつもしまわれている。その中からめぼしいサイズのものを取ってくる。とても重いというほどではないが、一人で運べるほど軽くもなかった。

 倉庫に鍵がかかっているというわけではなかった。しかし、立ち会い、どの大きさの棺が使われるのかを確認する必要があった。そして集会場で待つシノに知らせる。『お別れの会』が必要であると伝えるのだ。立会も、連絡も、島長の仕事を引き継ぐための、フカミの仕事だった。

 フカミは坂を登っていく。数人が後を付いてくる。

「アカツがなぁ」

 雨風に混じり、誰かが言う。

「カツキも可哀想に」

 独り言のように、誰かが呟く。

「事故か?」

 怪訝そうに、誰かが吐く。

「言ってもどうにもならんだろ」

 諦めたように、誰かがぼやく。

「アカツは死んじまった。それだけさ」

 誰へともなく問いかけるような、自分自身へ言い聞かせるような、声が雨に混じって聞こえた。

 フカミは滑りやすくなった足元に気を向けながら、後ろの話もまた聞いていた。アカツはカツキと小屋を作ろうとしていたらしい。女性ばかりの噂話にそんな話題が混じっていたと思い出す。カツキは漁舎に住まう女性だった。

 小屋を作る。つまりそれは集合宿舎ではなく二人きりで寝起きする場所を確保すること。二人が恋仲であった証拠でもある。つまりカツキは、恋人を失ったのだ。

 島長が宣言したとき泣き出した女性の姿を思い出し、フカミはわずかに眉根を寄せた。

 かわいそう。ぼんやりとフカミは思う。フカミ自身に恋仲と言える相手は居ないけれど。とても大事な存在なのだと子供舎に集う母たちは言い、誰それと恋仲になりたいのだと食堂の片隅で農の女性たちは話によく花を咲かせた。

 けれども、アカツは死んでしまった。棺に入れられ、明日には神の扉をくぐる。手の届かないところへ行く。

 医療院の横に出る。医療院の脇には神の扉を要する堂が、黒々とした陰を見せている。医療院と堂の向こうは切り立った崖となっており。その下には大きなシャッターが開くこと無くそびえている。

 フカミはチラリと堂を見やり、灯火を掲げ直して先を急ぐ。


 風雨を更に強くした嵐は、けれども未だ島を離れようとはしなかった。

 大粒の雨が降り注ぎ、足下を掬うかのような風が吹き付け、日中も夕方のように暗く辺りが沈む中で『お別れの式』は行われた。

 かーんかーんと高い音が響き渡る。閉じられた棺を前に、島長はじゃらりと束を取り出して、手のひらほどの長さの鈍銀色の鍵を選び出した。

 島長は大仰な仕草で鍵を扉に差し込んだ。扉が開くと男達は棺を奥へと。

「マッて!」

 ひときわ大きな体躯が周りを囲う人々を押しのけて最前列までやってきた。かつて扉を覗いてやろうと飛び出したショウゴが、今度は勝てるわけも無いのに、押しとどめようと腕を広げる。

「エリック、ダメだよ。決まりなんだ!」

「死んでしまっタ、なんで、知らナイ! 調べる、でしょ、デニス?」

 エリックはショウゴを押しのけ棺に手をついた。押し込もうとしていた男達は、仲間へ島長へどうしようかと目配せする。

「アカツ!」

 エリックの抜けた場所からもう一人女性が飛び出した。棺に覆い被さって、縋り付くように泣き始めた。

 男達は困ったように島長を見る。島長は重々しく息を吐いた。

「カツキ。下がりなさい。縋ってもアカツは戻らない」

 漁の、農の、女性が幾人かためらいがちに棺に近づく。カツキの肩を抱き、棺に縋り付く腕を取り、泣き出すカツキをそっと抱いた。

 女たちはカツキをそっと促していく。悲鳴のような声が風雨に乗って響き渡る。人々の囲う輪を抜け、落ち着ける場所――おそらく、食堂へ。

「約束、したのに、アカツ……!」

 慟哭が続く。

「あの子ノためにモ、シラべる、イる」

 エリックは棺を押さえ続けている。島長をまっすぐ見つめながら。

 男達は棺を持ち上げようと力を込めて、わずかも動かず、誰とも無しにため息を落とした。

「舟ノ壁に、血、無イ。どこも。おかシイ」

 フカミは囲う人波の中から少し離れた祖母の顔を窺った。エリックは、舟の縁に血が付いていなかったのだと言っている。足を滑らせ、頭を打ってしまったわけではないと。

 では――何故?

「調べてどうする」

 ごぅと、風が巻いた。ひときわ強い風が吹き抜ける。人々の濡れそぼった服や髪が、それでも煽られ舞うほどに。

「何故死んだか、誰がやったか、それを明らかにして、どうする」

「いけないこと。バツを!」

 島長はエリックを正面から見返した。

「裁く権利を我々は誰も持っていない」

「けんり? もっテ?」

 デニスが音も立てずに近づいた。背伸びをし、エリックの耳元に何事かを呟いた。

 エリックの手が棺から外れた。男達はこれ幸いと、棺を扉に押し込んでいく。

 島長は掟に則り、鍵を掛ける。強い風がまた一つ堂と人々の間を抜ける。人々は一人二人と自らの舎へと帰っていく。

「もしも本当に事故ではなく、誰かが殺したのであれば。そしてそれに正当な理由がないのであれば、その誰かを、周囲の者達はそのように扱う」

 棺を押し込んだ男達もエリックと島長を交互に見ながら、自分らの舎へと戻っていく。

 エリックは困惑したように島長を見る。デニスと一人残ったジョアンナは、とにかく動こうと腕を引く。

「それが、掟だ」

 島長はため息のように言葉を残して踵を返す。シノが従い、フカミも倣う。

 一層強さを増した雨に顔をしかめながら、フカミは振り返り三人を見る。三人は、フカミの知らない言葉を使い、何事かを言い合っていた。

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