2-4-2

 *


 大きく息を吐きながら、フカミは集会場を出る。

 島長に呼ばれて、昼間のあらましを問われた。盛上たちが泉に興味を持っていたらしいこと、林の前ですれ違った盛上、泉の岸の姫川、飛び込んだホシン、そして、耳を刺すようなあの、音。

 フカミに隠すことはないけれど、ムツミがぐたりと水に浮くあの様子を思い出すのは辛い。ムツミが泉に行きたがっていたことも、ショウゴだけでは見きれないだろう事もわかっていた。もっとしっかりしていれば、あんな事にはならなかった。後悔ばかりが浮かんでくる。

 話し終わると、シノはゆっくり休みなさいとだけ言った。島長は深く溜息をついた。

 はい、と言う以外、どんな言葉があったのか。

 扉を閉める。生暖かい風がフカミの頬を撫で吹きぬけた。吹きぬけた風に明かりが揺れ、思わずフカミは瞬いた。

「フカミ」

 灯りを持つのはヨツバだった。ヨツバにすがるようにしてお腹の大きなフミが立って……待っていた。

「ムツミを突き落としたのは誰」

「おねがい、フカミちゃん!」

 島の人間はホシンの事情には立ち入らない。唯一ホシンと言葉を交わすのは島長とされていて。だからこれ以上は島長とホシン達とで話がされるはずで。

 口外するなと、釘を刺された。

 だから。

「……ムツミは、きっと、足を滑らせて」

 灯りから目を逸らす。ヨツバの厳しい視線を避け、フミの縋るような視線から逃げるように。

 足を子供舎に向ける。

「嘘だ。農の連中が怪しいホシンを見てる」

 がしりと肩を掴まれた。フカミはぎゅっと目をつぶる。……ヨツバの向こう、泣きそうなフミのその目が。

「ホシンに、やられたんだな」

 そうだと告げたとして。そのホシンを見張りきれなかったのもフカミ自身。わかって、いたのに。

「……しらない」

「フカミ、答えてくれなければ、ホシンがやったものと……」

「しらない!」

 どう答えれば良いというのか。答えてどうにかなるものなのか。

 相手は島の人間ではない。島の掟の中にはなく……島人がどうこう出来る相手ではない。

 フカミはヨツバの手を振り払う。勢いのまま走り出す。子供舎とは逆、農舎の方へ。じわりと目頭が熱くなり、一瞬で視界が歪んだ。

「フカミちゃん!」

 声を振り切るように足に力を込める。叢雲がかかる淡い月の光を頼りに、走り続ける。

 心臓は動いている。先生はそう言った。起きるのを待つだけと、確かに微笑った。微笑いながら。どこか不安そうで。

 船医者は何も言わなかった。省吾は固い表情のままだった。目を覚ますはず。明日には、今夜にも、もしかしたら、今。

 そう思うのに。……不安が止まらない。

 農舎を過ぎて道なりに。畑を折れて坂を下る。道の最果て、泉の前まで。

 このまま目を覚まさなかったら。思って重なるのは、あざだらけになった愛くるしかった幼い顔。

 禁忌とされる泉にまで辿り着く。月が白々と光を投げかける中、たった一人になった時。

 声を上げて、フカミは泣いた。


 *


 船へ戻るまで美空はまさに蚊帳の外だった。孝志も省吾も一言もしゃべらない。フカミも島医者も話しかけられる雰囲気ではない。

 船へ戻れば省吾はそのままシャワー室へ入ってしまった。孝志は報告だとかで曽田の部屋へ。後でと孝志が言ったのをふてくされながら美空は部屋で独り、待つ。 

 孝志が呼びに来たのは、夕食になるかという頃だった。遅い、文句を言おうと思ったけれど、真っ赤になったその目を見たら、言葉は喉の中で立ち消えた。

 背中を押されるままに入った会議室には、既に省吾と曽田が座っていた。美空を促し、孝志は美空の横に立つ。

「美空」

 口を開いたのは孝志だった。顔を覗き込んでくる。

「昼間、なんで美空がお父さんたちを呼びに来たのか、教えてくれるかな」

「フカミちゃんに頼まれたから」

 うん。真っ赤な目のまま孝志は曖昧に首を振った。あれ、なんだか切れが悪い。

 曽田を見れば疑問顔で見返された。省吾は軽く溜息をついた。

 あれ? あたし変なこと言ったかな。

「島の子に、だね」

 言い直したのは孝志で。あぁと曽田は今度こそ得心したと頷いた。

「その時何か変わったことがあったとか、気づいたことはないかい?」

 美空は首を傾げる。変わったことなんて、有りすぎてよくわからない。

「じゃぁ、盛上さんを見なかった?」

「省吾」

 遮ったのは曽田だった。省吾は何事もなかったかのように黙殺した。

 盛上。言われて思い出したのは、駆け抜けて行った後ろ姿。

「集会場の前で、船の方に走っていくの見ました」

 そして島の西側を下っているときには、姫川らしきずぶ濡れの防護服が。

 曽田は厳しい顔で何事かを考え込む。うん。孝志は頷いた。

「ありがとう。ご飯に行っておいで」

 はい、と、良い子の返事をすべきなのだ。良い子でいたいのなら。でも。

 美空は促す手からするりとぬける。くるりと孝志へ振り返った。

「あの子が溺れたのって、盛上さんたちのせいなの?」

「美空っ」

「滅多なこと言うもんじゃない」

 焦ったのは孝志で、厳しい声は曽田のものだ。

「それを今調べてる」

 わかるね? と続けたのは省吾だった。

 うん。美空は頷く。分かった。理解した。美空が呼ばれたのは確認のため。退室を促されたのは、美空が子供だから、だ。

 だから。

「あたしも居て良い……ですか」

 孝志へ。孝志の困ったような顔を見て、曽田へ。美空は問う。

 子供扱いは、されたくなかった。


「申し訳ないけれど、姫川は休ませてもらっているわ」

 呼ばれて渋々ながらといった風に入ってきた盛上は、開口一番早口に告げた。室内を一瞥し、美空を認め、僅かに怪訝そうな色を浮かべた。

「少しの時間でも難しいほど?」

「看ましょうか」

 曽田に問われ孝志が腰を浮かせると、慌てて視線を戻す。もう寝ているからと付け足した。

「それで。手早く済ませて頂けません?」

 盛上はドアのすぐ横に立つ。勧められた椅子は無視した。

 そうですな。夕飯もそろそろだし。言って曽田はじっと盛上を見つめる。

 何ですか、そんな感じに盛上は口を開きかけ。

「あの子供、目を覚まさないそうですよ」

 言葉を発する事なく閉じた。

「あの子って、どの子のことかしら?」

 たっぷり十を数えただけで、盛上は表情一つ変えなかった。

「泉にいた子供です」

「泉?」

 何のこととばかりに盛上は僅かに首を傾げて見せて。美空は知らずきゅっと手のひらを握り込んだ。

 ──知らないわ。

 ──美空ちゃんの勘違いじゃないの?

 クラスの女の子達が言う時と、全く同じ顔だった。

「あんた、コレとアレとすれ違っているでしょ」

 コレはアゴで指し示された省吾で。アレは美空だ。盛上の視線が一瞬だけ飛んで来る。興味がなさそうにすぐに外れた。

「防護服着てるとイマイチ判り辛いんですがねぇ。あんたみたいな小柄なのは他にいない。省吾も美空も嘘を言うメリットなんて何処にもないんですわ」

「……コレは尋問かしら?」

 ふぅと溜息を吐いた盛上は、腕を組みドアに背を預けた。僅かに見下げるように曽田を見る。

 ……咳をしてもいけないような、そんな気がして。きゅっと美空は孝志の服の裾を掴んだ。

「なんの。世間話です」

「曽田さん! そ……」

 曽田の鋭い一瞥で、省吾の声は途切れた。

 なおも言いかけ、あえなく省吾は口を閉ざす。落ちた視線は誰とも合わず、省吾は悔しげに唇をかんだ。

 ぎゅ。裾を掴む手に力がこもる。ぱさりと孝志の手が頭の上に降ろされた。

「島の西の水たまり。あそこにいた子供ですな。島の子供で、溺れてしまったそうで」

「あら。それはお気の毒」

「全くですな。ところで、その時側に姫川さんがいたようだと聞いてますが?」

「あの場所の計測をしていたの。島のあらゆる箇所を調べるのが目的の一つですからね」

 タヌキとキツネの化かし合い。美空には、そうとしか見えない。

「水遊びの子供がいたのは偶然よ」

「そんなはずない!」

 だん、と鳴らされ、美空はびくりと背筋を正した。

 拳が机の上に乗っていた。省吾は美空が見たこともない顔で、盛上を睨めつける。

 怒った、顔で。

「省吾」

「あの泉で水遊びなんてするはずがない」

 怪訝な顔で盛上は省吾を見返す。何を、と。

「子供一人で近付くような場所でもない」

「省吾、黙れ」

「掟なんだ!」

「黙れっつっとるんじゃこの糞坊主!」

 がん。

 思わず孝志の腕にしがみついた。

 さすがの盛上も、目を丸くして背を浮かせた。

 特大の雷を喰らった省吾は、縫い止められたかのように机の上から動かない。

「……まー。憶測ってのは誰にも止められませんでな」

「……仕方ありませんわ。それが人の心というものでしょう」

「おわかり頂けたようで」

 何事もなかったかのように曽田はにかりと笑った。怪訝そうに、けれど、つられて盛上も笑みを形作る。

「島の人々に我々の法が適応されないのも、おわかりですな?」

「え、えぇ」

 美空は孝志の腕にしがみつきながら曽田を見る。巨大なタヌキは満面の笑みを浮かべている。……細く瞼の奥に隠された、その目を除いて。

「島の人々に対して我々が何をしたとしても、法律的にどうこうすることはありません」

 何を? 盛上の視線は探るようなものに変わった。

「ただし、ですな。返還を五年半後に控えて、島人との友好関係にヒビを入れられるのは、勘弁して欲しいんですわ」

 五年半。松木も言っていた、その期間。

 ずるりと省吾は重そうに頭を持ち上げる。僅かに奥歯を食いしばり。……その顔はまるで白い紙のようで。

 曽田の笑みは崩れない。

「そのことは、もちろんご承知頂いていると思っとります」

 もちろん。盛上は頷く。……こちらは真っ青と言える色に。

 よろしい。曽田は大きく頷いた。

「それだけですわ。わざわざご足労、ありがとうございました!」

 いえ。煮え切らないように返すと、盛上は一時もこの場にいたくないとでも言うようにドアへ向かう。ドアノブへ手をかけたとき。

「検査はうちへいらしてください」

 孝志の声が頭の上から響いてきた。

「特殊なものになりますので、たらい回しになるよりはマシですから」

 そして。

「船外の散歩はお控えくださいね。彼らが手をあげたとして、我々はそれを留める方法を持っていないことを、お忘れ無く」

 ノブへかけた手が一瞬止まり、次いで勢い付けて開けられた。

 盛上は振り向かない。

「ご忠告、感謝するわ」

 そう言い残して、立ち去った。

 とん、と再び机が力なく叩かれる。

「お兄……」

 駆け寄ろうとした美空を孝志が手だけで制した。

 省吾の肩へと曽田が手を置く。その肩が震えている事に、美空は気付いた。

 孝志の手が背を押してくる。なんで。どうして。掟って。聞きたいことは沢山あったが。

 美空は後ろ髪を引かれながら、会議室を後にした。 


 食事を早々に切り上げて、美空は孝志の部屋の戸を叩く。省吾も曽田も食堂には現れず、後から行くと別れたきり、孝志も結局来なかった。

 力の無い返事が聞こえ、そっとドアを押し開ける。

 孝志は端末の前にいた。鈍い動きで美空を認め、淡い笑顔を向けてきた。すっかり疲労の刻まれた、その顔を。

「どうした?」

 孝志は僅かに首を傾げる。

 美空は上目遣いで孝志を見、迷いながら口を開いた。

「助けてあげないの?」

 美空にとって、孝志は何でも治せるお医者様だ。資格だとか専門だとか、難しいことはわからない。孝志が治ると言えば治って、首を振れば諦める。そう言うものだと思っていた。

 孝志は真正面から美空を見る。美空の腕を取り、大きな腕で抱き寄せた。

 お父さん? 暖かい孝志の腕の中は嫌いではないけれど。

 横目で見上げた孝志のうすらと笑んだ口元から、何かが抜けていくような長い溜息が漏れた。

「お父さんは助けてあげてはいけないんだ」

 美空は腕の中で目を瞬く。

 意味が、わからない。

「助けちゃダメなの?」

「決まりなんだ」

 島の人の事は島の人が決めるしかない。お父さんなら助けられるかもしれなくても。

 言葉は呟くように……はき出すように。

「防護服と同じ。昔の人が決めたんだ」

 きゅっと力が込められた。美空は息苦しささえ感じ始める。

「お父さん……?」

 どうしたのと問いかければ、孝志は腕の力を緩めた。

 美空は孝志の胸をそっと押す。居心地が良いと思っていた場所なのに、何かが違う気がして。

 孝志の顔を見返せば、寂しそうに笑んだ後で。

 大きな手でゆっくり何度も美空の頭を撫でた。

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