2-4-1

「オレンジとってくるの!」

「だーめ」

 宣言したムツミへ拳骨をお見舞いする。フカミちゃんがぶつー! 逃げ足ばかり達者になってしまったムツミは、立ち上がったかと思えばあっという間にショウゴの後ろに回り込んだ。

「ショウゴ兄ちゃはとって来てたー」

 掴まれよろけたショウゴから食器をもぎ取る。ついでにジトリと睨んでやった。

 あんたがあんな所からとってくるから、真似したがるんじゃないの。

 自分の食器を重ねて取って、そのまま返却口へ持って行く。ムツミの分は含めない。自分のことは自分でやる。ショウゴは怪我人だから仕方ない。

「もう美味しいの全部鳥にやられちゃってるよ」

 だから諦めろとショウゴも諭すが、それは抑止の言葉ではない。

「探すもん!」

 食器を置くなり駆け出しかけたムツミの腕を、フカミは無造作に捕獲した。

「ショウゴ、今日は縄つけて見張ってて」

 二重に聞こえる文句は聞かない。見張れるもんならフカミがやる。……出来ないから言っている。

 朝漁を終えた漁師達がどやどやと入って来た。ヨツバと目が合い、歓声を上げるショウゴを急かして食堂を出る。ムツミを引いて子供舎へ戻る。

「ムツ、絶対ダメだからね?」

 つーん。そっぽを向いたムツミは完全にへそを曲げていたが。だめ押ししてフカミは子供舎を後にする。

 少し遅くなってしまったか。坂を登る幾人ものホシンとすれ違う。軽く手を振る細いホシンににこりと笑顔を返し、ひときわ小さなホシンが出した手のひらをすれ違いざま軽くたたく。小柄なホシンとすれ違っておやと思わず立ち止まる。振り向きもしない様子に、人違いかと先を急ぐ。

 息を切らせて辿り着いた遣いの船に、人の気配は皆無だった。


 *


 ママが美味しいって言ったんだ。

 ムツミはもうすぐ『おねえちゃん』になる。ムツミより小さな子は沢山いるけれど、ひときわ特別な。妹というものが産まれるのだ。

 だから、おねえちゃんする。

 ショウゴが一昨日とってきたオレンジをフミは美味しいと言って食べていた。お裾分けにもらった一房は、ほんのちょっとムツミには酸っぱかったけれど、とても甘くて。

 ママに食べてもらうの。

 ショウゴは泉の上の木だと言っていた。泉の場所は知っている。子供だけで近付いてはダメとフカミには言われていたし、ショウゴがどうしても許してくれなかったのだけど。

 洗濯に追われるムツミの前をホシンがせかせか過ぎって行く。ふと顔を上げたのは、『イズミ』と確かに聞いたからだ。

 神様のお遣いといっしょなら、ムツミだけじゃない!

 ぎゃーと泣き出したシンジにショウゴの注意が逸れた瞬間。

 ムツミは水場を飛び出した。


 *


 嫌な感じがしていたのだ。

 遣いの船をその広く開いた口からフカミはほんの少しだけ覗く。じっと耳を澄ませても、物音一つ聞こえて来ない。ほんの少し離れて待って、坂を下る漁師を認めて。フカミはついに船を離れた。

 さっきすれ違ったホシンの中に?

 踵を返して坂を登る。食事を終えた漁師達とすれ違う。ざっと見渡す限りでは、ヨツバの姿は見あたらなかった。

 医療舎を過ぎ子供舎へ。切れた息を整える。修繕のホシンが立ち働き、水場からは子供達の賑やかな声が。

「フカミ!」

 ばたばたと音を立てて駆け寄って来るのはショウゴだ。杖を時折引っかけながら、半ばケンケンで走ってくる。

 嫌な感じがしていたのだ。

 フカミは眉根をよせた。……ムツミがいない。

「ムツが走ってあっちに。追いつけなくて。省吾兄ちゃんが」

「……バカ」

 しょぼくれるショウゴをおいてフカミは再び走り出す。

 盛上が気にしていたのも泉、ムツミが狙っていたのも泉だ。

 どうしてこうみな……バチ当たりなのか。

 集会場を回り農舎の前を駆け抜ける。転がるように坂を下り、緩く曲がる道を逸れる。踏み出す地面は柔らかく、手入れに収穫に作業する人の合間を縫うように進む。

 辺りは果樹園へと変わり、再び道が現われる。横断したその先に広がるのは、農地でもない林である。

 道を短縮しつつ駆け抜ける最中、陽光を白く跳ね返すホシンの姿が見て取れた。林の手前で方向転換、道なりに下ってくるホシンへ向かう。

 白い影は一つ。二人で行動しているだろう盛上たちではなさそうで。

 と、フカミは足を止めた。何か、音を聞いた気がする。

 トンビの啼き声よりも高く、金属板をひっかくような。……耳を刺すような、音。

 どこから? 巡らせた視線は林へ向いた。林の奥。泉の方へ。

 その、泉へ向かう踏み分け道から、小柄なホシンが飛び出して。

 ぶつかった感触は……柔らかい。

「盛上さん?」

 茂みの中、確かにびくりと肩が震えた。のに。

 ホシンは慌てて身を起こし、そのまま道を登っていく。すれ違うホシンにも、全く気付いていないように。

「大丈夫?」

 降り来たホシンは省吾だった。

 差し出された手に引き起こされる。うん、頷きながらも泉が気になる。変わらず響く、音が。

 省吾も視線を向けた。フカミは踏み分け道を走り出す。

 林はさほど大きくはない雑木林だ。下生えをかき分け木の根をまたぎ、枝をくぐれば泉と西海を眺める崖に出る。

 進む毎に音は大きくなっていく。甲高く特徴を持たない純粋な『音』。ともすればどこから響いているのかさえ、分からなくなりそうな。

 それでも結局、泉の上まで、来た。

 僅かに波立っていた。音は右の岸辺から。ずぶぬれのホシンが大きく肩を揺らしている。そして左の水の中。俯せの。

「ムツ……」

「先生を」

 肩を掴まれどかされた。フカミは木の根へと倒れ込む。

 水柱が生まれて消えた。高い音がもう一つ。規則正しい水音が続いたと思えば、省吾の手はあっという間にムツミの体を引き寄せた。

 フカミはオレンジの幹をよすがに立ち上がる。踏み分け道へと足を出す。

 ──ぐったりとしていた。

 目に焼き付いたのは、水に浮かぶ小さな背中。

 足に力が入らない。木の根に躓き茂みにつっこむ。

 ──入ってはいけない泉の中、飲んではいけないとされる清浄な水の上で。

 両手をついて立ち上がる。土にまみれた手で自分で自分の頬を張る。なえそうな足に力を籠め、一歩踏み出す。

 ──オレンジが欲しいと言っていた。赤ちゃんを宿すお母さんに、プレゼントしたいのだと。

 道へ出る。大きく息を吸う。

 ──ワガママできかん坊で。でも。

 フカミは短縮コースへ足を向ける。野菜畑につっこんでいく。

 一路、医療舎を目指す。

 ──バチがあたるような子では、絶対にない。


 それしか出来ることはなかった。


 *


 しっかりとマスクをかぶり直して窓のない部屋を出る。松木は行ってらっしゃいと奥から手を振っていた。

 美空は休憩と言われ、外へ出たらと提案され、扉はあっという間に閉められた。追い出されるかのような勢いで。

 首を傾げながら階段を下りる。きゅるきゅると靴底が鳴れば、音は辺りに響き渡った。

 学校みたい。美空は思う。コンクリート製の建物は暗く重く感じられ、壁と壁の合間の物と物とで生まれる影に、息苦しさばかりが溜まっているかのようで。

 階段を降りた先、がらんとした集会場に人気はなく。美空は留まる気にもなれず、外へ通じる扉を開けた。

 真夏よりも高い位置で太陽が輝いている。UVマークが片隅にあるプラスチックの板を透かして、美空は空を見上げる。

 少しだけなら、いいかな。

 辺りを見回し、マスクをほんのちょっとだけずらす。心地よい潮の香りに満ちた風が頬を撫で、ふうと思わず溜息が漏れた。

 マスクをそのままに道の脇へ。木々の隙間から船が見える。ふと聞こえてきた声にあわててマスクを直せば、島人たちがゆっくりのんびり歩いていった。

 なんで、なんだろ。

 島人は防護服など着ていない。防護服なんて言葉も知らないとフカミは言った。省吾はもう少し大きくなったらと、孝志は大人になったらねと、美空を子供扱いばかりする。

 ふぅと軽く息をつき、美空は子供舎へ足を向ける。

 誰かいるかな。

 ショウゴか、省吾か。フカミはまたあの議員さんと一緒だろうけれど。

 美空の脇を小柄な防護服が駆け抜けていく。残像のような白さを残しながら、坂道を一目散に下っていく。

 盛上さんだ。美空は思う。防護服姿だが、小柄な女性は盛上しかいなかった。

 一人なんて珍しい。船でも島でもいつも姫川を従えていた。一人でいるところなんて、それこそ、化粧室やシャワールームくらいで。

 美空はぼんやり盛上を見送る。子供舎の前を過ぎ、医療舎の前を過ぎ、あの様子だと船まで戻るつもりだろう。

 ぶらりと美空は歩き出す。息の上がったフカミに肩を叩かれたのは、子供舎の前だった。


 先生を。おぼれて。

 請われて頷き、美空はバトンタッチとばかりに駆け出した。なんだかさっぱり分からなかったが、孝志か島医者か、呼んで来いということだろう。

 医療舎まではさほどの距離もなく、防護服でもどうにか美空は駆け抜ける。検診待ちの列に割って入り、検診車のドアを乱暴に叩きあけ、とにかく来いと連れ出した。

 島医者へは孝志が自ら声をかけた。揃って子供舎へと走りこむ。フカミはまだ荒い息を残しながらも、しっかりとした口調で言った。

「ムツミが泉でおぼれて、省吾お兄ちゃんが助けて、先生呼んで来いって」

 どっちかわかんないけれど。自信なさげに言葉を足す。フカミは真剣な、いや、悲壮な顔で二人を見上げる。

 見上げられた医者二人は顔を見合わせ頷くと、二人揃って走り出した。


 島の西の坂を下る。かなり端の方まで来て道を逸れた。林の中へと踏み込んでいく。一人だけ遅れながらおっかなびっくり辿り着いたその場所は、美空の知らない場所だった。

 池だった。いや、フカミは泉と呼んでいたか。

 西側はもう島の端で、傾きかけた陽が海を照らしているのがよく見える。東側は大人二人を並べたくらいはありそうな切り立った崖になっていて。僅かな岸辺に崖上続く急坂が張り付いていた。泉の幅はさほど広いわけではない。崖から海まで十メートルも無いくらいか。

 その狭い岸辺にずぶぬれの省吾がいた。マスクを取り去り、素顔を風にさらしていた。側には荒い息を繰り返す孝志が立ち、小声で何事かを話している。姫川君、その名前だけが聞き取れた。

 島医者は自分の上着で子供を覆い、抱き上げる。子供は島医者の腕の中でぐたりと気を失っているようだった。

「助かるよね」

 ムツミムツミと、フカミは子供へ呼びかける。時折頬を叩き、手を握り、呼びかけ続ける。

 孝志は子供を、フカミを。じっと見つめて唇を噛んだ。

「お兄ちゃん……」

 何があったの? 袖を引き聞こうとした。孝志に肩を押され、のばした手は宙を掻いた。

 省吾は黙ったままだ。唇は堅く結ばれたまま、視線は島医者の手の中の幼い少女に注がれている。

 お父さん? 見上げた孝志はただ短く首を振った。

「君、ありがとうね」

 島医者の淡々とした言葉に、省吾は緩く首を振った。少女を見、そして顔を伏せた。

「なに、心臓は動いてる。……目を覚ますのを待つだけさ」

 島医者は少女を大事に抱えて歩き出す。フカミは少女の手を離さない。孝志は省吾を促して、美空は最後に慌てて追った。


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