2-2

 暇潰しにと持って来た児童書を読み終わる頃、唐突に無線機から声が流れた。美空はハンドライトを消して覆いにしていた遮光布をずらすと、思わず長く息を吐く。

 夏の気配を引きずる空気もエアコンの風でどこか涼しい。汗で手に持つ本が湿りそうなほどだったなら尚更だ。

 カーテンから出て辺りを覗う。船倉に停められたトラックの周囲に物音はない。徐々に暗闇に慣れ始めた目にはうっすらと漏れ入る明かりがかろうじて見えた。時には大きく時には小さく揺れるのは、波が穏やかな証拠だ。少し前から揺れが僅かに大きくなったのは、外洋に出た証拠だろうか。

 美空はもう一度大きく息をつく。暗闇の中、つい、頬が緩む。

 ココまで来れば、もう下ろされる心配はないだろう。叱られるだろうが、あと二日で島に着く。

 碧い海、白い砂浜、高い空、鮮やかな緑。その中で笑う子供たち。

 あと二日で。

 ショウゴ君とフカミちゃんに会える。


「美空ちゃん」

 呼ぶ声は省吾のものだ。はい、と美空は声を返す。

 闇にすっかり慣れた目には、ぼんやりと非常灯が照らす階段も、階段から漏れ出た光に浮かび上がる船倉も、十分に見て取れる。歩くのに支障はなかった。

 たんと足音が響き渡る。小走りで船倉を横切ると階段へと足をかけた。二、三段を一息で。そこで僅かに足を止めた。

 立ち止まって深呼吸。自分自身に確認する。

 怒られるだろう。雷くらいは落ちるだろう。怒鳴られるのも想像できる。きっと痛い。泣いてしまうかもしれない。三年前、省吾は出来たたんこぶで寝るのに苦労したと言ってはいなかったか。

 恐い。ここまで来ても正直には。でも。

 ものすごく怒られても、お小遣い没収になっても。願ったから、今、ここにいる。

 悪いのはあたしだ。

 省吾を見上げる。にこりと笑いかけられて、頷いて返す。残りの二十数段を一息に駆け上がった。

「暑くなかった?」

「平気。でも喉渇いたかも」

 ちょっと触れば汗が落ちた。首筋を伝った汗がエアコンの風に冷やされ背中へ滴る。美空はぶるりとひとつ身を震わせた。

 着替えは省吾が持ち込んでくれているはずだった。しかし、着替えるには部屋をもらわないとならず、部屋をもらうには叱られないとならない。その前に、水を一杯。

 歩き出すとタオルがバサリと降ってきた。羽交い締めにでもするかのように省吾は美空の汗を取る。

「風邪引くから」

 血の繋がりなどないはずなのに、こういう所は省吾は怜香にそっくりだった。ひどく神経質で心配性。

「自分で出来るよ!」

 省吾の手から逃れようと身をよじる。よじる動きを見越したように、省吾はなおも執拗に。

「何やってるの!?」

 へ? は? 間抜けな声が同時に漏れた。

 甲高い声に振り返る。廊下を叩く硬い音が廊下に響き近付いてくる。

「あなた、今すぐその手を離しなさい! 児童虐待よ!」

 女だった。長袖のスーツをぴしりと身につけ、高いヒールをはいている。腰に手をあて細い目をさらに細めて、厳しい視線を寄越してくる。

 エアコンが効いているとはいえまだまだ暑い九月の半ば。作業服の男ばかりのはずの船の上で、その女は異様に浮いていて。

「さ、こっちへいらっしゃい。まぁ、汗だくじゃないの」

 腕を取られて引かれるまで、何の反応も出来ずにいた。

「どうしてこんな所へ? 変なおじさんに連れ込まれてしまったの? もう大丈夫よ。姫川、代表を呼んできて。子供が紛れてしまっているって伝えてちょうだい」

 はい、と背後から聞こえた。あの、と省吾の焦る声が聞こえてくる。

 焦る気持ちは、美空も同じだ。

「あのっ」

「すぐにおうちに帰してあげるわ。恐かったでしょう」

 腕を掴む手は緩む気配もない。向かう方向は代表……髭のおじいちゃん、曽田の部屋だとすぐに気付いた。

 曽田と言えば雷。音と神速の破壊力。

 ……まだ、心の準備が出来てない。

「盛上さん!」

 焦る省吾の声が追って来る。盛上と呼ばれた女は美空を庇うように立ち止まる。

「あなた名前は!? 代表に報告……」

「またお前らか!」

 目の前に星が散った。雷光に遅れて雷鳴が届くように、痛みは遅れてやってきた。

 美空は頭を押さえて蹲った。視界の隅で省吾の足が後ずさる。

「え、な、た、体罰は……」

「言ってわからんかったから身体に言い聞かせてるんですよ、議員先生!」

「おっしゃる意味が……」

 襟元がぐいと引かれる。堅い拳骨を形作った曽田のガチリと硬いその拳に、美空は仔猫のようにぶら下げられる。

「こいつの密航は二度目でしてな!」

 上目遣いで女を見れば、ただただ丸くなった目と合った。

 ばつが悪い。美空は他にしようも無くて、涙をたっぷり湛えた目でただ曖昧に笑んでみた。

「内山、引き取りに来い! 佐倉省吾! 共犯、逃げるな!」

 気が向かないとでも言うような煮え切らない足音が戻ってくる。そしてあえなく、御用となった。


 盛上という女は国会議員だと省吾は教えてくれた。テレビで見たことくらいあるだろと。言いつつもれなく落ちた曽田の雷の跡を、食堂からくすねてきた氷で冷やしている。

 美空はようやくもらえた自身の部屋で、省吾に強制的に渡されたホットココアをもてあましていた。睨まれるから少しずつ飲もうとはしていたが、なにせ、熱い。

「子供がちゃんと勉強しているかとか、お年寄りが困ることなく生活しているかとか、専門に考えている人だよ」

 だからきっと何か誤解している。省吾は続ける。

 船はもう外海に出ていた。引き返すには数時間が必要な距離だ。それでも盛上は、美空を降ろせと主張した。子供を連れて行くなんてとんでもないと。

 責任者として曽田は頷かなかった。スケジュールが予算が、子供一人には代えられないと。もう二度目だしとおずおずと言いだした孝志は『親の責任』と言葉に出され、すっかり縮こまってしまったが。

 それでも結果、美空には部屋が与えられた。社会実習の名目で仕事が割り振られ、実習だからと小遣い没収を言い渡されて。共犯の成人男性である省吾は、示談の結果という形で給料カットが決まったらしい。

 願ってもない。つい、やったと叫んで曽田の雷二発目を喰らったのはご愛敬だ。

 熱いココアをどうにか飲み干す。また汗が出て、タオルで拭く。

 行こうかと省吾が立って、うん、と勢いよくベッドから飛び降りた。

 美空の『仕事』は相談の末、松木という男の手伝いとなった。省吾が仲立ち、会いに行く。

 どんな人だろう。どんな仕事だろう。

 どんなことでもきっとやれる。美空は不安よりも期待を小さな胸に感じていた。


 *


 フカミは子供舎の今にも抜けそうな階段を登る。ようやく歩けるようになったばかりの一歳児は担いで。階段を上るのがやっとな二歳児は転ばないように支えながら。達者な三歳以上は放っておいても我先にと転がるように登っていく。

 いつもなら幼児を抱えて駆け上がるショウゴは、杖付き怪我人のお約束として階段下で見張りに徹する。面白くないと顔に大きく書いてあるが、自業自得で同情する気などさらさら湧かない。

 仕方が無いなという体を取りつつも、フカミも内心では駆け上がりたい衝動に駆られていた。今年こそ。今回こそ。

 子供の背でも木々の上方、薄くなる枝葉を透かして港が一望出来る。一番に駆け上がったシンジは、錆びきって折れそうな手すりをものともせずによじ登り、さっそく歓声を上げた。

「ねえちゃ、船!」

 フカミは抱いたミツロウを手すりにつかまらせ、ようやく顔を上げた。木々を吹きぬけ巻き上げる風の向こう、碧と青の境目に白く大きな船がある。

「おふね、おおきいよ?」

「つかいのふねって言うんだ!」

「ホシンがたくさん乗ってるのよ」

「ほしんー?」

「なんか来る!」

 姦しい子供達の見る前で小さな白い箱が船の陰から表れる。歩くよりずっと早く白い箱は港を出、坂道を上り始める。

「ケンシンシャ!」

 ムツミが指さす前で見る間にケンシン車は医療舎前に辿り着く。人払いが成された広場でシガラキがただ一人それを迎えた。

 ケンシン車はシガラキの前に静かに停まる。やがて真白い姿がその陰から。

 また来るって言った。

 少し気弱なフカミと同じ顔を。省吾と並んで懸命に手を振る小さな白い姿を。

 フカミはずっと待っている。

 一人、二人。太いの、普通の。三人、四人、五人、六人。少し小さい、細めの、小さくめで太くて、ひょろ長い。そして。

 七人。

 ひときわ小さなホシンが少し細いホシンに飛びつく。ぐるりとその頭を回して子供舎へ向け、大きく手を振ってきた。

「ミ……」

「フカミねーちゃ、手振ってる!」

「ムツー、ホシンと話しちゃだめなんだぜ!」

「いたっ」

「こらあっ」

 大きく振り返したムツミへ手と声を一緒に出したのはシンジだった。わっとムツミがやり返す。

 慌ててミツロウを下ろしたフカミは二人の間に割って入る。二人の腕を掴んで力ずくで停戦させた。

 いつもの光景にロクタが笑い、ミツロウがきょとんとフカミを見上げる。

「喧嘩はだめだぞー」

 下から参加できないショウゴがのんびり声をかけてきた。

 もう終わり。ムツミとシンジと階段へ向かわせ、ミツロウを抱き上げる。ロクタが危なっかしい足取りで下りていくのを確認し、フカミはケンシン車へと目を走らせる。

 美空を含むホシン一行は、集会場へ向けてのんびりと歩き始めた所だった。


「仕事を頼まれてくれないかしら」

 子供達の監督をショウゴと乳児持ちの母親達に任せ、フカミはシノについて子供舎を出た。向かう先は集会場だ。。

 仕事って何だろう? 見上げればシノは困ったような笑みを浮かべた。フカミを見、案内をねと、口を開く。

「島の案内をして欲しいそうなの」

 島長であるミツやシノが案内するのが良いのだろうが、二人には仕事がある。船がいる間ホシン一人につききりになる事など出来ないと。

「案内すれば良いの?」

「あと、いろいろ聞きたいそうだから、答えてあげてくれるかしら」

「いろいろ?」

「この島のいろいろなことを調べに来たんですって」

 調べに?

 シノは曖昧に頷いた。そして、集会場の扉を開く。中にはマスクを取ったホシンが五人。島長と何やら話をしていた。

 幾度か見たことのある年配の男性、船医者、省吾は目が合うと僅かに笑んだ。そして、シノと変わらないくらいの歳の女と女の側に細い男。

 美空の姿は、なかった。

「案内はその子?」

 きんと突き刺さるような声だった。細い男が神経質そうに眼鏡を押し上げる。

 船医者とも、省吾とも、だいぶ感じが違う。女は見上げたフカミをちらりと見ただけでシノへと視線を戻した。

「娘のフカミです」

 背中を押すシノの手に要求されるまま、フカミは一つ息を呑む。姿勢を正し二人を交互に見た。

「フカミです」

「明日からよろしくお願いするわ」

 女は盛上(もりがみ)と名乗った。細い男はヒショの姫川と。

 ヒショ、とはなんだろう。フカミは目を瞬かせたが、頭の上で交わされる会話に割り込むことなど出来そうもなく。

 きっと付き従うものなのだろう。盛上の一歩後ろに立つ姿からフカミは勝手に想像した。

「お願いします」

 フカミを見る二人の視線は、まるでフカミを値踏みするかのようで。

 なんか、嫌だな。

 フカミは頭を下げつつ、心の中で思った。


 *


 おじいちゃんと呼ぶにはまだちょっと若い気がする。ころころした体型も白髪になりきらない頭も、コーラをストローで目を細めながら飲む姿も、奥さんいないんだよねと寂しそうに笑う姿も。

 だから美空は、松木さん、と呼ぶことにする。

 システム管理者をしていると、省吾に引き合わされた時、松木は美空へ説明した。

「パソコン、得意なんだって?」

 頷いたから、そのまま美空は今ここにいて。美空と松木の背後で重い扉が閉まっていく。

 マスクを取った頬に触れる冷たい空気に、美空は思わず首をすくめる。この部屋は外はもとより、集会場よりずっと寒い。

 室内は暗く、壁一面の機械の中に幾つも緑の小さなランプが見て取れた。窓はなく、島中に満ちた潮の香りが全くしない。代わりに部屋を支配するのは、エアコン特有の埃っぽい空気。そしてじんと伝わるファンの音。

 ぱちりと横から音がする。じわりと室内が明るくなった。

「ここはね、この島のいろいろなものを管理しているコンピュータのお部屋なんだ」

 松木はぽてぽてと歩みを進める。止まって美空を振り返ったそこにはモニタ。手前にはキーボード。さらに奥にも小さなモニタが幾つもあり、スイッチ一つで明るくなった。

 小さなモニタの中で、右上がりの、真ん中に一本、上下に細かく波打つ線が描かれていく。松木の前のモニタには、省吾の家で時折見る文字だけの起動画面が浮かび上がった。

 松木がキーボードに手を走らせれば、画面が生きているかのように瞬き始める。

「いろいろなもの?」

 おいでと手招きされて、画面の中をのぞき込む。

 たんとキーが叩かれて、映ったのは海。いや。海に浮かぶドラム缶の……列?

「これはね、波力発電装置。波に揺れてるだけみたいに見えるけど、ちゃんと電気を作ってるんだ」

 カチカチと今度はマウスの音。出てきた画面の中央では線が一本、時折揺れながらのたくっている。

「発電量のグラフだよ。この辺りで嵐でもあったのかな」

 松木は次々画面を変える。発電量があれば使用量があり、蓄電量、風速、降水量、GPSログやら、どこのモノとも知れない発熱量やら、温度計なんてものもあるらしい。いくつかは小さな画面と同じもので、常に見えるようにしているんだねと穏やかに松木は語った。

「おじさんはね。このコンピュータのお世話をしているんだ」

 お掃除をして、壊れているところがないか確認して。

 説明しながらも松木の手は止まることがない。

「それとってくれるかな」

 手渡せば美空に説明しながら使ってみせる。面倒見の良い先生ではあるのだが。

「松木さん、一人なの?」

「うん。あとちょっとだし。頑張れって言われちゃったんだよね」

 指示されて美空は取り出した機械を支える。あれこれと指示されて、ちょこまかと動き回る。

 一人ではちょっと大変な気がするのだが。

 あとちょっと。……あれ?

「ちょっとって?」

 見上げてみれば目が合った。松木はうん? と見返してくる。ふっと笑ってプラスドライバーを持ち替えて、そうだよと、頷いた。

「この島は五年半後の春に還ってくるんだよ。だから、お手伝いしてくれる人がいてもすぐにお仕事がなくなっちゃうんだ」

 還ってくるって言い方はおかしいかな。松木は一人小さく笑う。

 合わせるように小さく笑いながら、美空にはその言葉はすでに聞こえていなかった。

 還ってくる。その響きで頭の中が真っ白になって。


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