島歴94年9月

2-1

 決まりだから。

 投げつけられた言葉に美空は目を瞬いた。四年生の夏休みが終わって数日。クラスで一番可愛いと評判のポニーテールのその少女は、ふふんと鼻を鳴らす。

「そう決まったの」

 だれが、とか。いつ、とか。

 求めて左右に目を走らせれば、付き従うかのような少女たちは、気まずそうに目を逸らした。

 その片方。三つ編みお下げの彼女は、先月までのターゲットだ。あぁ、と美空は心の中で嘆息した。

「だから、バイバイ?」

 ポニーテールの少女は左右の少女たちを従えて軽やかに踵を返す。背負われた可愛いピンクのランドセルが小気味良いリズムを刻み、美空の手の中では二週間後に迫った秋の遠足の自由行動希望を記す用紙がヒラヒラと揺れた。

 美空とは口をきかない。美空の知らないところでいつの間にか、それは決まりになっていた。


 決まりだからね。

 島に行きたい。願い出た美空へ孝志はいつものように答えた。

 島には仕事で行く人以外、立ち入ってはいけない。三年前のアレは例外。そういう決まりだからね。言って孝志は美空の頭をぽんぽんと叩く。

「誰が決めたの」

 ムキになって聞いてみれば。

「ずうっと昔の人だよ」

 子供に言い聞かせるように返してくる。

「なんで決めたの」

 理由を知りたかっただけなのに。

「美空には難しいかなぁ」

 はぐらかし、仕事だからと着替えだけして休む間もなく出かけていった。

 美空は頬を膨らます。孝志が仕事の日の洗濯物は美空の仕事。そういう約束になっていた。しかし。

 孝志の置いていった洗濯物を蹴飛ばす。洗濯かごまでついでに蹴る。当然、痛い。

 じわり涙が浮かんでも、慰めてくれる人なんて誰もいなくて。

 美空はお出かけ鞄をひっつかみ、すっかり日の落ちた街へと足を向けた。


 くしゅん、美空が小さくくしゃみをすれば、スポーツタオルが降ってきた。

「電話くれれば良かったのに」

 次いで頭をかき回すように拭われる。がくりがくりと頭が振られた。

 秋の初めの夕立は思いの外冷たかった。たった二駅、歩く時間も一〇分足らず。電車賃は気にしたけれど、傘を忘れたのはミスだった。

 とはいえ。

「自分でやるよう」

 どうにかタオルを奪い取れば、優しく笑う省吾の顔がそこにある。

「お父さんと喧嘩でもした?」

 お見通しである。

 タオルにぐるりと包まれたまま、美空はこくりと頷いた。喧嘩というほどの事ではないかもしれない。少なくとも孝志はそうは思っていないだろう。けれど。

 上目遣いで省吾を見れば、こくりと一つ頷かれた。話してごらんと促される。

「島に行きたいって言ったの」

「うん」

 シュンシュンとケトルが啼いている。立ち上がった省吾はちらりと視線を置いていった。続けて、と。

 美空はタオルをかき合わせる。タオルの下では、拭いきれない水気でシャツがぺたりと張り付いた。部屋は静かだ。エアコンは入っていない。まだまだ暑い季節ではある。でも、少し。

「ダメだって。お父さんはお仕事なんだよって」

 そんなことわかっている。邪魔してはいけないことくらい、美空だって理解している。

 では仕事がなかったら? 学校のそばのお医者さんのように、町で患者さんを見続けるような。そんな仕事だったら?

 それでも孝志は行くのではないか。……島にはお母さんもフカミちゃんもいるのだから。

 あたしだって。美空は思う。あたしだって島の子なのに。フカミちゃんに会いたいのに。

「決まりだからって」

「……うん」

 コツリとカップが置かれる。ふわりと漂い来る香りはチョコレート。熱々のホットココア。暑苦しい季節のはずなのに、立ちのぼる湯気はほのかに優しい。

 カップを手に取る。息を吹きかけながら一口。熱い固まりが喉を通り落ちていく。

 省吾が美空の隣に腰を降ろすと、ふかふかのソファが横に沈む。美空は沈むままにそっと腕に寄りかかった。──暖かい。

「何でダメなの? お仕事だから?」

 危険で、普通の人が立ち入ってはいけない場所があることくらい知っている。工場に工事現場。農地だって叱られる。お仕事の邪魔になるから。

 でも。

 島には普通に暮らす人々がいる。ショウゴくんが、フカミちゃんが。お母さんが。

 なんで、ダメなの。

 ──ずっと昔の人が決めたんだ。

 昔の人なんて、美空は知らない。

「お兄ちゃんは知ってる?」

 省吾は淡く笑む。美空から視線を外し、自分のグラスを手に取った。

 カランと涼やかな音が響く。

「……また、行こうか」

 美空は省吾を見上げる。カップを持ったまま、目を瞬く。

 気付いた省吾は悪戯っぽい顔で、今度はにまり、と笑んだ。

「そう言う話はシャワー浴びてからになさい」

 バスタオルが飛んできた。おあ、と悲鳴のような声と共に麦茶が散った。

 美空の前に落ちた影は、仁王立ちの小柄な女性のものである。

「はい、着替え。タオルはそれ使ってね。あぁ、飲みきってからで良いから」

 着替えをテーブルへ。自身はキッチンへ行くかと思えば雑巾を投げつけてくる。今度はかろうじて受け取った省吾は、辺りに散った麦茶をブツブツ言いつつ拭き取った。

「怜香さん、乱暴だよ……これだから嫁のもらい手が……」

「なんかいった?」

 省吾の義母、怜香は、冷蔵庫からビールを取り出し振りかえる。

『義母』とは言っても怜香は孝志よりずっと若い。数年前まで流行の『婚活』に精を出していたとも聞くが。

 ぐびりぐびりと缶ビールを飲む姿は孝志よりずっと、その。

 目が合った。ん? 目で問われて。誤魔化すように慌てて中身を飲み干した。

「ごちそーさまでした!」

 バスタオルを受け取って、勝手知ったる他人の家、逃げるようにバスルームへ。

「汗かくまでしっかり暖まるのよ。風邪なんて引いたら許さないからね」

「はーい」

 広げた着替えは長袖シャツに長ズボン。小さな頃から家族ぐるみで行き来してはいるのだが。看護師の怜香は時々、酷く過保護で神経質だ。

 ドアを閉めて服を脱ぎ、バスルームのガラス戸に手を掛ける。

「心配すんな」

 居間から怜香の声ばかりが聞こえてくる。

「邪魔はしないって約束した」

 ドアをあける。漏れ出た蒸気に飛び込んだ。


 *


 幹に手をかけ懸命に手を伸ばすショウゴは、フカミが止めようと叱ろうと何処吹く風とばかりに気にしようともしなかった。

「ショウゴなんて、落っこちてバチがあたっちゃえ!」

 捨て台詞は呪いの役目を果たしたのか。

 ばきりと少しばかり重くくぐもった音がしたかと思えば、悲鳴と水音が後に続いた。

「ショウゴ!?」

 フカミは慌てて駆け寄って、滑りかけて幹にすがった。台風一過で水を含んだ地面には、真新しい滑り跡が付いている。

 おそるおそる覗いた崖の下、『神の泉』には、岸辺に向かって手をばたつかせるショウゴの背中があって。

 フカミは大きく息を吐く。……言わんこっちゃない。

「馬鹿じゃないの」

 林を大きく迂回して、フカミは岸辺へ回り込む。その頃にはショウゴもなんとか岸まで泳ぎ着いていた。

 まず差し出してくるのは折り取った得物。滴に変わった泉の水を纏わり付かせた目にも鮮やかなオレンジ色を、しょうがないなと受け取った。ショウゴは空いた片手で草を掴み、もう片方を手伝ってくれと伸ばしてくる。

 無視するという選択肢ももちろんあったが。フカミは溜息付きつつ手首を掴み引っ張り上げる。

「い……っ」

 ショウゴは小さく悲鳴を上げた。フカミは構わずさらに引く。

 ようやく泉から上がったショウゴは、右足を抱えて蹲った。捻ったか打ったか挫いたか。……自業自得に同情よりも呆れが勝った。

 ほら、バチが当たった。

「歩けるの」

「……無理かも」

 フカミは深く深く溜息をつく。ショウゴは小柄ではあったけれど、支えて坂を登るのはかなりしんどい。自分でどうにかしろと突っぱねたいところだけど。

 目を向けた先。見ている間にもじわじわと赤く腫れだす足首に、幾度目かの溜息が盛大に漏れた。

「誰か呼んでくる」

 ショウゴの顔に一瞬嫌そうな色が浮かんだが、フカミは見なかったことにした。説教でもなんでも思う存分されてしまえば良いのだ。

 ──神の泉を侵したのだから。


「捻っただけだと思うけど、当分動いちゃダメだからね」

 島医者のシガラキはショウゴの足首を包帯の上からぽんと叩いた。悲鳴を上げかけ必死で飲み込むショウゴをフカミは溜息と共に見やる。

 バチはバチだ。理由なんかない。バチの当たるその原因が、身重のフミに食べさせるためのオレンジをとるためだったとしても。

 全治一ヶ月の診断は、捻ったにしては重い方だろう。その間動くなと念を押されたショウゴは漁農作業の手伝いを禁止され、子供舎に籠もることになる。

 シガラキはじゃぁと子供舎を出た。嬉しいような困ったような顔でオレンジを眺めるフミの前で、フカミは集合、と声をかける。

 現在、日中子供舎で面倒を見ている子供の数は六。乳児を抱える子守中の母親は二人。ムツミのように母親を置いて走り回りたい盛りもいる。

 この子供達をしつけ、悪戯をしないように目を光らせるというキツイ仕事がショウゴには与えられることになる。

 即ち、子守を。

「ショウゴにいちゃ。これ、すっぱい。あまい。おいしい」

 母親からわけてもらったのだろう。オレンジで手をべたべたにしたムツミは、座り込んだショウゴをのぞき込んだ。

「だろ?」

「だろ、じゃない」

 フカミはゲンコツを落とし、ムツミに合わせて腰を落とす。

「ムツミ、ショウゴ兄ちゃんの真似なんかしちゃダメだからね?」

 ムツミはきょとんと見返してくる。

 まだ、難しいかな。

「泉に一人で行っちゃ、絶対にダメだからね」

 じっと目を見て言えば、ムツミは神妙そうに頷いた。……わかったかどうかわからないが。

 ふと、遠く音を聞いた気がしてフカミは顔を上げた。遠く深く海を渡り風に乗り、島中に鳴り響く音へと耳を澄ます。これは。

 ──船が、来た。

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