1-3

 細めのホシンの後を、フカミは少し離れて歩いた。

「フカミちゃんのお母さんは、シノ……さん?」

 お母さんと呼びながら集会場に入った。それを覚えていたのだろう。答えを待つように振り返られて、フカミはこくりと頷いた。

「お父さんは?」

 雑談のつもりだろうか。フカミはこれには首を振って答えた。

「知らない」

 生まれた時から父親はおらず、シノも誰が父であるかを語らなかった。父が知れない子供は珍しくなく、それで困ったこともない。一度好奇心から聞いてみたこともあるけれど、誰でしょうねとシノは笑ってはぐらかした。

 そう。ホシンは聞き返すでもなく頷いた。

 しばらくは無言が続いた。くさむらかと見まごうばかりのその道は、左側は海からの一定の高さを保っていて、島の中ほどまで続いている。右側の崖は分かれ道から進むごとに高くなり、最終的には見上げるばかりの高さになる。

「……ゴ君って……」

 波が音をさらった。フカミはホシンを見上げる。ちらりとフカミを振り返ったホシンは、うつむき、そして上を見る。息をついたような音が漏れた。

「ショウゴ君ってどんな子かな」

「悪ガキ」

 ……としか、言いようがなかった。仕事はサボるつまみ喰いはする行方不明になる。付き合わされる身にもなってほしい。可愛くないよと舎母のフミに言われる顔に、ついついなってしまう。口をとがらせた仏頂面だ。

 くすくすと笑い声が聞こえてきた。

「……ショウゴ君のお父さんの名前はダイゴだったりする?」

「そうだよ」

 よく知ってるものだと、ついホシンを凝視した。フカミの視線には気づかずに、ホシンは何やら頷いている。

「そっか。ショウゴか。悪ガキなんだ。……そっか」

 変な人だな。フカミは思う。……近づいてはいけない、話してはいけないホシンとは……話してみればこんなものなのだろうか。ちらちらとホシンを見上げながら、フカミは少し後ろを歩く。

 だから、視線を留めたのはホシンの方が先だった。

 最も崖が高くなったと思える頃、少し広くなった右側に崖に開いた大穴をふさぐかのような扉が現れる。扉とはいっても蝶番は見えず、中央が切れているわけでもない。横に引き開けるようにも見えない。横にたくさんの筋が入った、壁にしか見えない代物だ。

 扉は閉まっていた。そしてショウゴの姿はない。

 ホシンを追い越し、扉の前を過ぎる。海に落ちてはいやしないかと、扉の向こうの崖を覗く。

 いない。ここにも。そこにも。どこにも。

 どこ行っちゃったの。

「あのバカ!」

 ほかにどこを探すか。農場か島の裏側か。――船、か。

 フカミはうつむき唇を噛みしめる。近寄れば神隠しに遭うという遣いの船。いざ乗り込むと考えて、恐いと思わない筈がない。それでも。戻ろうと踵を返した。

「待って」

 なんで? 反射的に出そうになった言葉が知らず途切れた。

 ホシンは横を向いて頭を扉にくっつけている。盗み聞きでもするように。

 何をしているの。戻る方を向いていた足が、ホシンを向く。

 中にいると思ってるの? ……入れるわけがないのに。

「……邪魔」

 一度離れたホシンは苛ついたように首を振った。首を振って、すっぽりと被った白いマスクに、覆うようなゴーグルに乱暴に手をかける。そして、一息に取り去った。

 耳を扉につける。中の音を聞こうとする。

 おじさん。いやまだ若い。……お兄さんと呼べそうな。白い、細い顔だとフカミは思う。集会場では一瞬すぎてわからなかったけれど。そして。

 誰かに似ている気が、する?

「……中にいる」

「え」

 ばん! 鳴ったのは扉だった。ホシンが叩いたのだと、後から気付いた。

「誰かいる? ショウゴ君!?」

 ホシンは……男は再び扉に耳を着ける。負けじとフカミも耳を着けた。

 話し声。甲高い声が二つ。くぐもって聞こえる声からは意味を取れない。

 ばん! 独りでに……いや、中から叩かれ扉が鳴った。

「ショウゴ! 出てきなさい!」

 扉に手をつき怒鳴り返した。決めつけだったが、ショウゴ以外にだれがいるというのか。

 ……しん、と向こうが静まり返った。

「ここは……っと。キーロックだよねぇ」

 扉から離れた男は左右を見回し、扉の横の、崖から突き出た箱を見る。フカミの頭よりも高い箱を開け、独りごちた。

「鍵をもらってくるよ。待ってて」

 フカミへにこりと笑いかけると、男はため息ひとつつき、脱ぎ去ったフードへ手をかける。フードの端からキラキラと滴が幾つも飛んだ。

 汗だとフカミは素直に思う。――なんでそんな暑そうなものを被るんだろう?

 フカミの疑問を余所に、見慣れたホシン姿に戻った男は軽く手を振り来た道を戻っていった。


 *


「な、泣くなよ!」

 だって、と言った気がする。けれどそれは嗚咽に混じって少年には届かず消えた。

 だって、美空のせいだもん。

「他に出口あるかもしれないし! ほら、探そうよ!」

 腕を取って強引に美空を立たせる。引っ張って歩く。美空は泣きながら引っ張られるままに付いていく。美空自身の嗚咽と、ぺたぺたたすたす歩く音だけが響き渡った。

 奥まで来ると光はほとんど届かなかった。影の濃淡しかない中を、少年は躊躇もなく進んでいく。

 トラックが止まっていたあたりには、頭の高さに床があった。身軽な少年は伸ばした手が床に付くと、一息によじ登った。……手を差し出されても、美空には無理だった。

 一番奥は見えた通りの巨大な扉だった。取っ手にとりつくも冷え切った金属は、美空や少年の力ではぴくりともしなかった。

 左右の壁にはいくつか部屋があった。うちいくつかは鍵がかかり、いくつかは真っ暗すぎてさすがの少年も覗くだけで諦めた。

 いつしか、美空の涙は止まっていた。離れた少年の手のかわりに、少年のシャツの裾をつかむ。連れて行かれるばかりではなく、横に、並ぶ。……突然走り出す少年に置いて行かれることもままあったが。

 一周してシャッターの前に戻ってくる。他に出口など、見つかりそうになかった。

「……だ、大丈夫だよ! 誰かきっと気付いてくれるし! まずフミ姉ちゃんが帰ってこないって大騒ぎするだろ、シノせんせいだって、島長だって探してくれるし! 父ちゃんなんかゲンコツ握って、きっとおいらたちのこと待ち構えてる!」

 お父さんの真似なのだろう。少年はしかめっ面を作ってゲンコツを大きく振り上げる。……似合わなすぎて思わず美空はくすりと笑んだ。

「父ちゃんなんかおいらだってフカミだって、遠慮無しだからな! いったいぞー!」

 少年はぶんぶんと振り回す。孝志はあまり怒るタイプではない。祖父母も大人しい美空にはどちらかというと甘かった。美空はグーで殴られた事などない。きっとものすごく痛いのだろうと思いつつ、想像できない。どれほど痛いかは想像できなかったが、拳を握った大人に追いかけられている少年の姿は、目に浮かぶ気がする。

 つられて声を大きくしながら、ふと、美空は首を傾げた。

「フカミってだあれ?」

 出会っていきなり腕を掴まれて、走ってここまで連れてこられた。変な場所に驚いて、閉じ込めれて焦ってしまい。そういえば聞いていなかった。

 え、と、少年の動きが止まった。

「あなたはなんて言うの? あたしは美空」

 美空は小首を傾げる。明かり取りから差し込んだ淡い光が少年を浮かび上がらせる。目を丸くして、美空をまじまじと見返している。余りにまじまじ過ぎて、美空は肩口で顔を拭いた。……大泣きした後だから、すごい顔をしているかも。

「フカミ……じゃねぇ!」

 少年は一気に三歩ほど下がった。その時だった。

 ばん!

「うわ」

「きゃっ」

 少年が勢いのまま尻餅をついた。美空は反射的に見上げる。

 鳴ったのはシャッターだった。そして声が降ってくる。

「誰かいる? ショウゴ君!?」

 お兄ちゃんの声!

「お兄ちゃん!」

「いるよ! 出らんないよ!」

 ばん! 飛び起きた少年が叩き返す。

「ショウゴ、出てきなさい!」

 返すように怒鳴られた。省吾ではない。甲高い、女の子の声。

「……フカミ?」

 ショウゴと呼ばれた少年は、シャッターを見上げて、美空を見た。そして、下を向く。

 明かり取りは上にあり、光は上から差し込んでくる。首を傾げてみても、美空には少年の……ショウゴの表情は知れない。

「ミソラって、いうの?」

 ぽつんと、ショウゴは言った。うん。美空は頷く。

「ショウゴ君って言うんだね。お兄ちゃんと同じ」

「にいちゃん、いるんだ」

 ショウゴが顔を上げる。

「本当のお兄ちゃんじゃないけど、お兄ちゃんみたいな人」

 目が合った。ショウゴは照れたように笑うと、すぐに逸らした。シャッターに背を預け、座り込む。

 美空も並んで座った。

「……フカミと間違えた」

 ごめん、と続く。突然掴んだり走り出したり。

「うーんとね」

 美空はほんの少し前のことを、まるで何時間も前の事のように思い出す。

 びっくりした。心臓がばくばくした。見つかりそうでドキドキした。恐かった。たくさん泣いた。でも。

「おもしろかった」

 力一杯走るのも、知らない場所に子供だけで入るのも、見つからないように隠れるのも、真っ暗な中を探検みたいに動くのも、男の子に腕を掴まれるのも、みんな初めてだった。

 どきどきした。まるで物語の主人公になったみたいに。

「ねぇ」

 なに。返事の代わりにショウゴは美空の方を見る。

「フカミって子とあたし、そんなに似てるの?」

 ショウゴは大きく一つ、頷いた。


 *


 変なホシン。

 フカミは見えなくなるまで白い背中を目で追い、待っていて、の言葉のままに扉の前に戻った。

 ホシンは島人の事など気にも留めないものだと思っていた。船医者は黙っていては仕事にならないけど、一方的に聞いてくるだけで、会話なんてしたことがなかった。

 普通の人だと思った。ちょっと細いけど。

 例えば、家畜小屋で山羊に暴れられて悲鳴を上げそうな。例えば、魚に力負けして船から落ちそうな。

 フカミは扉に背中をつけると、そのまま足を伸ばして座り込んだ。背中から、やっぱりなにやら声がする。ショウゴと……だれ、だろう?

 午後の陽射しにじりじりと焼かれる中で、ふとフカミは立ち上がった。眩しいほどにきらめく波間に何かを見た気がして。

 精一杯背伸びし水平線へ目をこらす。波よりも白い帆が確かに見えた。

 ヨツバのヨットだ。

 ヨツバのヨットの白い帆は波間に紛れ時折見えなくなりながらも、徐々に大きくなっていく。行ったり来たりを繰り返しながら、島へと近づいてくる。

 今回は二日の航海だったか。

「お待たせ!」

 去ったときと同じく、ホシンは走って戻ってきた。荒い息を吐きながら、フカミの視線の先に気付いた。

 白い帆が島の沖を過ぎって行く。

「ヨット?」

「ヨツバちゃんの船」

 ヨツバの。そう聞こえた気がしてフカミはホシンを見上げた。白いマスクは顔をすっかり覆っていて、どんな顔をしているのか、フカミにはうかがえない。

 暫く帆を目で追っていたホシンは、さて、と、フカミに向き直る。

「扉を開けようか」

 扉の横の箱をいじる。やがてがしゃんがしゃんと扉が天井へと吸い込まれ始める。フカミはそれを何とも言えない心持ちで見守った。

 扉が開く。そこには何の奇跡もなかった。

「フカミ、おいら……」

 届いた声に我に返った。小柄な影が空いた隙間からぴょこんと出てくる。

「ショウゴ!」

 反射的にフカミは、拳で迎えた。

 扉が、頭ほどの高さで止まった。避ける間もなくショウゴは、扉の向こうへ転がっていった。言いつけを守らなかった者への当然の仕置きである。

 もう一人。フカミは驚いたように佇む影へ向き直る。島の子供であれば、誰も扱いは同じである。拳を振り上げ。

「え?」

「あ」

 二人の時が、止まった。


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