1-2

 男の子?

 良く焼けた肌に細い手足。ぐりぐりと大きな目。適当に刈られたのだろう短い髪がつんつんと頭の上に立っている。背は美空より小さいくらいで、年の頃は一つ二つ下か。

「……フカミ?」

 怪訝に問われてじろじろ見ていたことに気付いた。誤魔化すように慌ててそっぽを向いて、横目でちらちら覗った。船に子供は美空以外いなかった。つまり。

 島の住人だと、ようやく思い至った。

 改めてじろじろしないように見返した美空に、少年は一歩たじろぐように引いた。何かを構えるような変な格好で。

 なんだろう?

「……怒らねぇの?」

「怒る? なんで」

 怒られるのはあたしじゃないかな。

 美空は思わず辺りを覗う。相変わらず人気は無く、島にも海にも少年以外、誰もいない。

 まだ、もうちょっと、大丈夫。

「だって……」

 少年は何かを言いかけ、途中で切った。何を考えているのか、首を傾げ、後ろを覗き、山の方を気にかける。最後に美空へ向き直ると、にか、と笑いかけてきた。

 なんだろう、この子は。

「ま、いいや、フカミも行こうぜ。イチレンタクショってやつ!」

「……えっ?」

 腕を引かれるまで呼びかけられたと気付かなかった。気付いた後では遅かった。

 美空の腕をぱっと掴んだ少年は、くるりと背を向け走り出した。……転ばなかったのは奇跡のような、ついていくのがやっとのスピードで。

 嫌だとか、フカミって誰のこととか。言う余裕などどこにもない。美空は足をもつれさせないように、転ばないようにするので精一杯だった。

 どるんと響き近づいてくる重々しいエンジン音に反射的に振り返る。引く腕が支えとなって、どうにか転ばずに済んだ。

 目に入ったのはゴムボートに三つの白い作業服。船の横の浜辺に向かっている。

 一瞬だけ目に留め、美空は腹を決めた。


 *


 一番疑わしいのはやはり船か。考えつつ、否とも思う。

 坂を駆け下りる。子供舎を過ぎ広場へ出る。覗いた食堂ではおばちゃん達が保存食を作っていて、反対側の医療舎ではランの跡を継いだカタセが、のんびりと薬草をいじっていた。フカミを見て、天真爛漫な笑顔を浮かべる。

 ショウゴの気配はどこにもない。

 カタセに手を振り広場を曲がる。大きなケンシン車が停まる脇を抜けて、再び坂にさしかかる。青々とした葉を茂らせる畑の中を走り抜け、木々の間に開いた道を転がるように下りていく。やがて木々が切れるころ、穏やかな波をたたえる内海と内海をぐるりと取り囲む白い砂浜が視界一杯に広がってくる。……今はその一角に砂浜にも負けない白さの船がある。

 坂を下りきり、フカミはそっと足を止めた。高すぎて漁船では使わない石造りの桟橋に船は堂々と停まっている。帆のない船だ。かといって、櫂を下ろす口があるわけでもない。けれど、ぶるりと音がすればするりするりと独りでに進み出す、まさに神様の力を使った遣いの船だ。

 ふと白い影が目に入り、思わず足の向きを変えた。船の影からホシンが出てきた。島の子供など気にもかけず、話しながら浜に下りる。砂浜に停められたゴムの小舟に向かうのだろう。

 用もなく船に近づいてはいけないと言われていた。近づくと神隠しに遭うとさえ噂されていた。ホシンとも、余り親しく話すべきではないと。

 船に乗ったりしないよね? ……いくら無鉄砲で向こう見ずで人の迷惑考えないショウゴだったとしても。

 逃げるように砂浜を回り込む。内海の奥、漁師の作業小屋を目指す。ぶるんと牛が呻るような……もっと低い、聞いたこともないような音が響き渡る。振り返れば、ゴムの小舟がこぎ手もなく海面を滑っていた。


 作業小屋にもショウゴの姿はなかった。

「あのガキ、またフカミちゃんを困らせて」

 帰ってきたらゲンコツだな! ショウゴの父、ダイゴは網の修理の手を止めてこぶしを振り下ろす真似をした。漁師として力強く銛を繰り、重い網を苦もなく引き上げるダイゴは島一番の力持ちでもある。ゲンコツの威力は想像するまでもない。

 思わず愛想笑いをしながらも可哀想と同情するより羨ましいと思うのは、フカミには父親がいないからだ。

 代わりにあたしにはお母さんがいるんだけど。

 ショウゴの母は、ショウゴの弟を産む際に、命を落としたと聞く。弟もろともに。……もっとも、父も母も健在で、一緒に寝起きを共にしている、そんな子の方が珍しいくらいではあったが。

「また面倒かけるけど、夕飯の時、逃げないように見張っといてくれな」

 作業を再開したダイゴへうんと頷き返す。

「それと、絶対に遣いの船には近寄るなよ」

 いつもの小言にいつもの返事し、フカミは小屋を後にする。

 さて、どうしたものか。

 小屋の前は船着き場だった。幾人もの漁師が魚を揚げ、漁具を手入れし、船の点検をと忙しい。動く姿は皆大人で、ショウゴのすばしっこいこまかい影は見あたらない。

 ヨツバちゃん、またいない。

 ショウゴを探して見回した船着き場の何処にも、ヨツバ専用のヨットのその白い帆はみあたらなかった。半年前に一人娘のイツキを亡くしてから、ヨツバの放浪癖は酷くなった。十日と置かず、外海へと行ってしまうのだ。

 砂浜の脇をため息と共に歩く。隅々まで知っている筈の島なのに、ショウゴの居る場所はいつもフカミの想像の上を行く。今回も想像の域を超えてきっと何かをやらかすに違いなく。

 絶対、とっ捕まえてやる。

 きっと顔を上げた先、あ、と思わず声が漏れた。

 海岸の先。島の一番端っこ。遣いの船の桟橋から伸びる、もう一本の道の先。

 神の扉の一つが。ホシンしか入ることを許されない、扉の一つがある。島の誰も開けることすらかなわず、生活圏から大きく外れたその位置から近寄ることもない扉だ。

 今は船がいて。ホシンがいて。だから。

「アイツ……!」

 ショウゴがチャンスをうかがわない、わけがない。

 フカミは猛然と走り出した。


 *


 少年が辿るのは海と崖の間に伸びる草むらだった。多分道なのだろうと美空は思う。生え放題の深い草の中を二本の筋がずっと先まで続いていて、タイヤの跡と考えれば至極しっくりきたからだ。船倉にいた軽トラックか検診車か、ここを通って行ったのだろう。

 どうしよう。怒られるかな。

 思ったのは一瞬で逡巡してる間はなかった。美空の息がすっかり上がり運ぶ足がもつれはじめた頃、ようやく少年は足を止めた。美空は自由な手を膝に付き、ぜいぜいと荒い息をつく。

 走ったことのない距離だった。小学校の校庭の、幼稚園の時よりずっと大きなトラックを回ったより、ずっともっと走ったと美空は思う。……肺がかんしゃくでも起こしたみたいに、息が自由にならない。

「やっぱりだ」

 握られていた手がふいに自由になった。美空は両手でようやく身体を支え、少年を見上げる。

 少しも息を乱した様子もなく、少年は前を見ていた。前に空いた大きな部屋を、その部屋を閉じていたのだろうシャッターの枠を、ぐるりぐるりと何度も見ていた。

 倉庫だろうか。ぼんやりと美空は思う。まだ荒い息のまま、少年の脇から部屋を覗く。外に比べて中は暗い。真っ暗と言っても良い。明るさに慣れた目には、部屋の奥すら見通せない。

 やがて息が整い出す頃、トラックに気付いた。慌ててシャッターの脇に身を寄せ、そっと中を覗く。

 人気はなかった。トラックは奥の扉に荷台を向けて停められている。とすると、扉の向こうにはきっと誰かいるわけで。

 ふらふらと入っていく少年にふと気付いた。慌ててのシャツを掴もうとして、逃した。

「すげぇ。こんなんになってるんだ! 集会場みてぇ!」

 少年はゴムの床をたすたすと踏みしめる。だっと視界から消えたと思うと、ぺたぺたとかすかな音が聞こえてくる。

「つめてぇ! こんな綺麗な石壁、初めて見た!」

「……ねぇ」

 戻ろうよ。怒られちゃうよ。

 小さな声は少年には全く届いた様子もなく。しょうがないと、おそるおそる美空は一歩踏み出した。

 ひやりとした空気が触れた。かいた汗が一瞬で引く。寒いとさえ思った。床は見た通りの良くあるゴムだ。天井はシャッターと同じくらい高い。部屋と思ったけれど、単に広い通路にも見える。

 周囲三方にはドアやシャッターやドアのない部屋が並んでいた。よくよく見れば一番奥には巨大な扉があった。軽トラックがまるまる入ってしまう幅で高さで、大人でも扱うのに苦労しそうな巨大な蝶番と輪っかの取っ手が付いている。テレビで見たことがあるような気がすると美空はぼんやり思い出す。例えば、銀行の一番奥にある金庫の分厚く頑丈な炎にも負けない扉のような。

 あのマークも。

 思い美空は首を傾げた。扉らしき辺りには三角形を三つ向かい合わせたようなマークが見て取れた。……どこかで見た気がするのだが。

「ここって何の部屋だろう、なぁ、フカミ!」

 あちこち見て回っていた少年が、ぐるりと美空を振り返った。その向こうで。

 トラックの後ろの扉が動いた。

 反射だったとしか言いようがない。美空は少年の腕をひっつかむと、有無を言わさず手近な部屋に飛び込んだ。

 扉を閉める。鍵のない扉を背にし、しっと唇に指を当てる。あっけにとられていた少年は、気圧されたように頷いた。

 話し声が聞こえる。何を言っているかまでは聞き取れない。やがてバタンバタンと音がして、エンジンの音が響き渡った。

 もう少し。耳をそばだてた美空は、通り過ぎ外へ出たらしいトラックに胸をなで下ろすと同時に。がしゃんがしゃんと、天井から響く音を聞いた。

 しばらく続いた後、最後のがしゃんは、床から聞こえた。

「フカミ、今の、なに?」

 囁くような声で、少年が言う。

 再びバタンと遠くから聞こえた気がする。エンジンのずいぶんとくぐもった音が遠ざかる。

「……見つかったらやっぱりまずかった?」

 見つかって怒られるのと、どっちが良かっただろう?

 美空は扉に背を着けたまま、ずるりと腰を落とした。

 ラチが明かないと思ったのか、少年は美空を扉の前からどかした。そっと扉を開けて、首を出す。外の様子を覗い見る。

「……閉まってる」

 どうしよう。美空は少年を振り返る。少年は扉を全開にして、部屋を出る。

 明かり取りの小さな窓から注ぐわずかな光が、かろうじて少年の姿を浮かび上がらせる。

 どうしよう。込みあがった嗚咽を、美空はどうにかこらえた。

 たすたすと足音が響く。少年の影が行ったり来たり、する。

 どうしよう。……美空のせいだ。見つかって怒られる方が、きっとよかった。

「どうやって開けるんだ、これ!?」

 どうしよう。

 ――閉じ込められてしまった。


 *


 前方から車がやってきて、フカミはあわてて岐路まで戻った。ぶわんぶわんと大きな音をさせながら、車は目の前を通り過ぎていく。

 びっくりした。車が動くことは知っている。今は医療舎の横に堂々と止められているケンシン車が動くところを見たことがある。けれどそれはせいぜい走る程度の速さで。

 あんな速さで走っているのを、初めて見た。

 跳ねた心臓を押さえつけるようにフカミは大きく息を吐く。何気なく車を目で追い、おやと何度か瞬きした。

 フカミとすれ違った車の荷台を覆った上掛けの一端が、風にあおられひらひら揺れた。揺れて捲れたその下に、四角い大きな箱が見えた。

 強い日差しを照り返す、白々とさえ見える木箱に。見えた、と思った辺りで、車は物陰に入り、見えなくなった。

 どこかで見たような。

 確かめようか。……車を、追って?

 車の先には船があった。物陰は船から降ろされた荷箱が作ったものだった。追うということは船を覗き込むということ。もちろん、してはいけないとされている。大人になれば、荷役で近づくこともあるというが……。

 どうしよう? ……ほんの少しくらいなら?

「フカミちゃん」

「!?」

 文字通り飛び上がった。反射的に振り返る。目に入ったのは真っ白な姿。驚いたように少しだけ身を引いていた。

 その白い人が、息をついた。……ように、見えた。

「だっけ」

 細い方だと、フカミは思った。集会場で見た三人のホシンのうちの一人のようだった。確信でないのは、ホシンがみな同じような外見をしていて、背の高さとか、太いとか、細いとかでしか区別がつかないからだった。

 その少し細く見えるホシンが、フカミの様子を覗うように首を傾げている。

 思わず見返して、目が、合ったような気がした。フカミはあわてて目を逸らす。どうしよう。思いつつ、ちらちらホシンを見る。

 こんな風に話しかけられたこともなく、名を呼ばれたことなど当然ない。返事をしても大丈夫か、罰は当たらないか……。

 結局、迷いながらもこくりと頷いてみせた。黙ったままというのは失礼だとシノに言われていたことを思い出した。

「ショウゴ君、見つかった?」

 ホシンの首がさらに傾ぐ。フカミは、これには首を振って答えた。

「そっか。こっちにいるかもしれない?」

 曖昧に頷いた。いないと思いたい。でももう、ここくらいしか。

 フカミはちらりと視線を投げる。分かれ道の右側。桟橋の反対側。草で覆われた扉へ続く道。

「行ってみる?」

「え、でも」

 口に出してはっと気付いた。相手はホシン。神様の遣いだ。

 くすり……そのホシンはゴーグルの向こうに覗く目を眇めた。笑った、ように、思えた。

「神様は寛大なんだ。ちょっと中を覗かれたりしたくらいで怒ったりはしないよ」

 そうなの? 無言の疑問を知ってか知らずか、うん、とホシンは大きく一つ頷いた。

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