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 太陽が真東から出て真西に沈む頃になると島中が慌ただしくなる。年に二回の大掃除の時期であり、漁具やら農耕具やらの大がかりな整備が行われるのもこの時期だ。船が来れば家屋の補修も行われる。船が来る前に補修箇所の確認も行う必要があった。

 宿舎に倉庫にと走り回る大人達に混じって、子供たちも手伝いに使いっ走りに駆り出されるのが常だった。そしてその声をフカミは島の西側、ヤギ小屋の中で聞いた。

「船が来たって?」

 立ち合いがてらヤギの寝床の掃除をしていた農舎の女は、戸口の同僚にそう返した。手招きされて小屋を出て行く。

 船が来た。反射的に戸口を見上げたフカミは、めぇと啼かれて視線を戻した。わずかに跳ねた心を押さえつけ目の前の乳に集中する。

 何度かやったことがあるだけの乳搾りだった。やり方を知らないわけではないが、慣れているとも得意とも言いがたい。それでも何度か握って離してを繰り返す内に、やがて手元の容器は満杯になった。

「おわった!」

「はいよ、ご苦労さん」

 戸口の外から返事をした女は、手早く容器の乳を瓶に移し換えた。最後にこぼさないようにと蓋をする。

 重い……まだ暖かい。

 渡されたそれは、先月生まれたばかりの赤ちゃんに飲ませるためのものだった。赤ちゃんの母親は乳の出が悪く、代用となるヤギの乳が欠かせない。

 フカミはよいしょと瓶を持ち直した。とうの昔に母乳を卒業しているフカミではあるが、代用乳は他人事ではない。フカミもかつては世話になったと聞いている。母、シノの産後の肥立ちが悪く、二人も育てることが出来なかったからだ。

 あの子のような子がいなくなりますように。愛らしい顔をして笑う赤ちゃんが、無事大きくなりますように。

 瓶を落とさないようにぺこりと頭を下げると、フカミは小走りに小屋を出た。

 

 少しばかり急な坂を登り切ると集会場の脇に出る。息を弾ませながら少し背伸びして覗く木々の隙間から、それは見えた。

 大きい!

 島の漁船を十隻つなげてもまだ届かない巨体が、内海の入り口を塞ぐかのように停まっていた。島の船とは違う白い船体が海面と一緒にキラキラ太陽の光を反射している。船体の手前、石造りの大きな桟橋には白い姿がいくつも見える。遣いの船と遣い人ホシンたちだ。

 島にはないもの。遥か海の彼方にあるホンドから来る人たち。

 いつか行ってみたいと思うのは、掟に背く夢物語と幼心にも判っている。判ってはいても、はやる気持ちは抑えられない。

 ふぅと軽く息を吐く。踵を下せば、船は木々の彼方だ。フカミはゆっくりと子供舎へと足を向ける。

 もう一度だけ息を吐き、前を見る。ちゃぷんと瓶が鳴った。

 そうだ、早く帰ろう。

 今年は修繕箇所が多いとシノは言っていた。手伝うことは沢山出てくるだろう。子供舎の片づけはまだ終わってない。ケンシンも受けなくてはならない。今回は何日目だろうか。

 小走りに集会場を通り過ぎる。大きく曲がりながら海までゆるく下る道を、軽快に辿っていく。

 ふと、白いものが見え思わず足を止めた。カーブを曲がり、フカミとは逆に坂を上ってくる。

 白くてらてらと光をはじく、足先から頭の上までを包み込む服。顔の部分は漁に使うようなゴーグルと、厳めしいマスクで覆われている。数は三。小柄で太いのと、普通と細め。

 あわてて道の端に寄る。軽く手を挙げられて、あわてて頭を下げる。通り過ぎて振り返れば、太いのがちょっと疲れたおじさんみたいに、重そうに足を動かしていた。

 ホシンだった。

 もっとずっと幼いころは、あの白い生き物がホシンだと思っていた。少しだけ成長できた今は、あれが服だとわかってはいる。中身がただの人だということも。

 でも、違う人。

 年に二回、ホンドから船に乗ってやってくる客人。神様の遣いとされ、いろいろなモノを届けてくれ、建物の器物の修繕もしてくれる。いつも白い服を着て、無駄話もせず、淡々と作業だけをこなしていく。

 話してはいけないと、関わってはいけないと、大人たちはみな、そう言う。

 集会場まで登って行く背中を何気なく見送り、フカミは子供舎へと向き直る。

 まず、乳を届けて。中断した掃除を再開して。ショウゴはちゃんと続きをやっているだろうか。

「ただいま!」

 思いながら戻った子供舎のどこにも。

 渡した乳をさっそく哺乳瓶に詰め替える様を眺めてから目を転じた先に。

 ……件の少年の姿はなかった。


 嫌な予感しかしない。

 何かやらかすのはいつものことで、騒ぎにならなかったことがない。

 木に登って下りられなくなったこともある。肥溜めに落ちて出られなくなったこともある。漁船に紛れて昼寝し行方不明になったことも、海鳥の卵を狙い手を滑らせて外海に落ちたことすらある。そして今は、船がいる。

 帰ってきたばかりでごめんねと舎母に渡されたファイルを持って、フカミは集会場へととって返す。ノックの返事もそこそこにドアを引き開けた。

「お母さん、ショウゴ来てないよね!?」

 そして、後悔した。

「え?」

 白い。

 いや、白の上に顔が三つ。一つがきょとんと首を傾げている。

「フカミ! いつも返事を聞いてからと……!」

 白を割って寄ってきたシノはそのままフカミを追い出した。自身も外に出、扉を閉める。

 ペンキのはげかけたくすんだ水色の扉。所々ヒビの入った灰色の壁。色あせたクリーム色のシノのシャツ。いつもの色になった。

「何の用? ショウゴくんは見てないわよ」

「あの人たち、あの、白い」

「大事なお客様よ。それより、なぁに」

 言われてようやく気付いた。さっきすれ違った三人だと。

 ……ケンシン車の中以外でマスクを外している所を見るのは初めてだった。

 普通の人だと、思った。

「あ、うん。渡してって。フミ姉ちゃんが」

「あら、お遣いだったのね。ご苦労様」

 にっこりと笑うとシノは頭を撫でてくれる。ファイルを受け取り、用があるからと立ち上がった。

「それで、ショウゴくんがどうかしたの?」

 フカミは顔を上げた。やるべき事を、思い出した。


 *


 ただひたすら気持ち悪かった。洗面器に顔を伏せてももう出るものは何もなく、ただ口の中が不味くなった。

 さっきまで側にいてくれた省吾は、ごめんねと言って行ってしまった。仕事なのだということくらい、美空にも判る。わがままを言ってはいけないことくらい、美空だって知っている。

 それでも涙が出てくる。

 きっと船には誰もいなくて。美空が泣いていたとしても誰も来てはくれなくて。船は揺れ続けるし、口は不味いし、気持ち悪いし、喉は渇くし。

 お兄ちゃんのいじわる!

 おじいちゃん、おばあちゃんに電話して、省吾のトランクに隠れたのは二日前。一時間ほどで出してもらうとそこはすでに海の上だった。

 真っ青になった孝志と、真っ赤になった髭のおじいちゃんと、美空をかばって宣言通りに怒られているはずなのに挑戦的に笑う省吾の間で何があったのか美空にはわからないが、結果美空には小さな部屋が与えられた。

 お仕事の邪魔をしないこと。島で勝手に外へ出たりしないこと。それだけ約束させられて。

 航海の間は何かと美空を気にかけてくれた孝志や省吾や船の人たちだったが、彼らには彼らの仕事があって。目的地だという島についた途端、船酔いで動けない美空は見事に放置されたのだった。

 ひとしきり泣いて、泣くのにも疲れた。美空はむくりと起き上がると、よれよれしながら部屋を出る。

 口の中を洗いたかった。水を飲みたかった。顔を洗いたかった。……外の空気を吸いたかった。

 ふらふらしながらも辿り着いた洗面所で、台に乗って流しを使う。うがいをして顔を洗って、タオルを忘れたことに気付く。お行儀が悪いと思ったけれど、Tシャツの裾で拭った。

 飲み物はなけなしのお小遣いを使って、背伸びして自動販売機で買った。桃のジュースは甘くて大好きだったけれど、今は飲む気になれない。選んだのはシュワシュワするコーラで、えいやと開けて、ベンチで飲んだ。

 シュワシュワが口のまずさを洗っていく。冷たいモノが胸を通ってお腹の中に落ちていく。まだ気持ち悪さはあったけれど、少しだけマシになった気がする。 

 ふと風を感じた気がして、美空は顔を上げた。今いる場所は船のまんなかくらいだと、酔い始める前に探検したから知っている。甲板は二階分くらい上のはずで、この下にはトラックやら検診車があるだけだ。でも確かに、空気が動いている気がする。

 美空は半分ほど中身を残したまま立ち上がった。風を探して通路を歩けば、出所はあっさりと見つかった。

 船倉へ続く階段を覗き込む。灯りが落とされ、真っ暗な筈のそこに光がある。あったはずの軽トラも、巨大な検診車も消えていて、代わりにハッチが大きく口を開けていた。


 少しだけならいいよね。邪魔しないなら、大丈夫だよね。

 階段を下り、光の方を覗ってみる。辺りには大人達の姿はなく、外にも誰の気配もない。代わりに、緑と汐の匂いのする風が吹いている。

 ――勝手に外に出ないこと。

 ふと髭のおじいちゃんの声が過ぎって足を止めた。戻ろうかと迷い振り返れば、しんと静まりかえった薄暗く人気のない廊下がただ続いていた。

 見るだけなら、いいよね。外にさえ出なければ。思って手すりから乗り出すように覗き込む。明るすぎて外が見えない。

 ちょっとくらいなら、わからないよね。見つかる前に部屋に戻れば。船倉を横切り開口部から外を覗く。まぶしくて美空は思わず目を瞬いた。

 船へと入り込む日の光はとても浅い。浅くてまぶしい。まるで夏の初めの頃みたい。美空は思う。

 ためしに一歩足を出す。じりりと音を立てそうなほど、陽射しが強い。えいと日向に出てみる。焦げそうな光を全身に浴びる。おじいちゃんの家のじりじりした夏とも違う。お父さんと暮らす街の蒸し焼きにされているような夏とも違う。海風が正面から吹き込んでくる。じんわり浮いた汗はあっという間に消え去った。

 きもちいい!

 美空は風につられてタラップを駆け下りる。硬く揺れないコンクリートの桟橋に両足を着けると、ようやく息が付ける気がする。

 大きく息を吸い、大きく吐く。少し温い優しい空気が身体の中へ入ってくる。

 目の前には水平線。見たこともない碧色の海水面が桟橋のすぐ向こうから始まり、やがて蒼へと変わっていく。水平線の向こう、うっすらとした白っぽさから始まる空は、美空の真上まで来て、黒と見間違えるほどの濃い青になった。

 右をみれば、降ろされたばかりの幾つものコンテナの向こうに、こんもりと木々を茂らせる小山がある。山肌に沿うように折れ曲がった道が延び、道に添うように畑が広がる。所々に建物らしき影も見えた。畑に道に、人らしき姿も見える。いつかテレビで見た田舎の島の原風景のようで。

 ちょっとだけ。ちょっとだけ。

 美空はコンテナを回り込む。

 お仕事が終わる前に戻ってくれば。

 コンテナの向こうでは、桟橋が島へと続いている。辺りに人影はない。

 ほんのすこしだけ。

 桟橋の脇からは砂浜が始まり、逆側は崖と海に挿まれた平坦な草地が見えている。砂浜の方からは山へと続く土の道が延びていた。

 美空は桟橋の端に立ち、砂浜を覗き込む。白い綺麗な砂がぐるりと内海を囲っている。寄せては返す波は穏やかで、何処までも海底を見通せる。時折過ぎる幾つもの小さな影に目をこらせば、小さくて鮮やかな魚だった。

 こんな海、見たことない。

 お父さんと行った湘南の海とも、幼稚園で一緒だった麻里ちゃんのお父さんに連れていってもらった千葉の海とも違う。花音ちゃんが行ったって言う、沖縄の海はきっとこんな海に違いない――。

「げ、フカミ!」

 ビクリとしたついでに尻餅をついた。反射的に見上げた先で、男の子と目が合った。

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