楽園の子供たち

森村直也

島歴91年9月

1-0

 掟に従い選んだのだと、シノはフカミたち幼年組へ諭すように言った。

「だから、泣いてはいけませんよ」

 泣きそうなのはお母さんの方。フカミはシノの淡い笑顔に思う。ラン姉ちゃんと二度と会えないのはとってもとっても哀しいけれど。どうにもならなかった、たった三つのイツキの時とは違うのだ。

 島民が集まる前で、堂の影に覆われたランの棺は、白々とひっそりと存在を主張する。

 珍しく白っぽいその木肌は、片足がなく、それ故外の仕事が出来ず、いつも青白い肌をしていたランに似合いだとフカミは思う。

 ――フカミちゃん、今までありがとう。さようなら。

 怖いわけでも哀しいわけでもなく、むしろ清々した顔でランは笑った。ねぐらにしていた医療院の片隅の小さな部屋で笑っていた。手を借りないと起き上がれないまでに衰弱してはいたが、すっかり痩けた頬でもランの笑顔は綺麗だった。大儀そうに手を持ち上げると、フカミの中途半端な癖毛を何度も何度も撫でてくれた。細い、折れそうな指だった。

 たった、一時間ほど前のことだ。

 かーんかーんと高い音を数回響かせただけで、棺は堅く閉じられた。鎚を持つ男が島長に頷いて見せ、島長はうむと仰々しく返した。

 じゃらりと島長は鍵束を取り出す。手のひらくらいの長さがある鈍い銀色の鍵を選び出す。

 七歳のフカミにとってもその光景はすでに珍しいものではなかった。島長はこの後大仰な仕草で鍵を挿す。扉が開き、大人達が棺を押し込む。島長は棺が押し込まれたことを確かめると扉を閉め大仰に鍵をかける。そこで『お別れの式』は終了となる。

 扉の奥は神の領域とされ、生者は立ち入ることを許されない。扉の前に立ち棺を押し込むまでしか行わない。覗き込むことすらタブーとされ、島長と棺を押す役割の男衆以外、堂の中には入らないのが通例だ。

 通例のまま堂の外から島民が見守る中で、扉の前に島長が進む。やがておもむろに鍵を扉へ挿し込んだ。

 風の音すら消えたような静寂の中、カチリとどこかで音がする。扉の中のようでもあり、全く別のどこかのような気もする。

 フカミは知らず両手を胸の前で握り合わせた。扉が甲高い音と共にゆっくりとひとりでに開いていく。

 完全に開ききったところで、よいせというかけ声と共に棺が押し込まれた。棺はするりと吸い込まれるように入っていく。

 扉の向こうは暗い。中は覗い知れない。

 十分に押し込み、大人達の手が離れた。するりと小さな影が動いた。

 あ、と声があがり、待て、と続いた。

「ショウゴ!」

 フカミは思わず自分の手を見る。……今の今まで腕を掴まえていた筈なのに……!。

 考える前に足が出ていた。堂に向かって駆けだしている。

「なんだよ、ケチ!」

 扉の中を覗き込もうとした不埒者は未遂のままあっさりと捕獲された。六歳のすばしこいだけの男児など、漁師には獲物ほどのインパクトもない。

 駆けだしたフカミは男の同じ手にあっさりと掴まえられ。

 男児……ショウゴに落とされたものと同じ拳骨をついでのように喰らった。

 ――そんなわずかなハプニングを除けば、その後何事もなく式は終了した。


 誤解だったと謝られても痛いモノは痛い。きちんと謝った人を許すことは、母であり、教師でもあるシノが口を酸っぱくして言っていることだ。だから、殴った男に気持ちをぶつけることは出来ない。出来なくとも到底収まる筈もなく。

「ちかよんないで!」

 フカミは背後に怒鳴りながら集会場を出た。どすどすと地面を叩くかのように数歩進み、頭に響いて顔をしかめる。むっとしたままいつもの通りに戻した歩みは自然と子供舎へ向いた。

「ごめんってばー」

 フカミに続いて出てきた足音が当然のようについてくる。

「来ないで!」

「んなこと言ったってさー」

「どっかに行ってよ!」

「そう言われてもー」

 埒があかずにフカミは足を止めた。振り返れば、フカミを少し見上げる顔がごまかし笑いを浮かべている。ショウゴにも、元凶たる自覚はあるらしい。

「帰るとこ一緒だし」

 ショウゴのねぐらはフカミのねぐらと一緒である。当然、向かう方向も一緒である。

 フカミはむっと口を引き結んだ。足の向きを変える。違う場所へ向かうなら着いては来まいと歩き出す。

 道を逸れさりさりと草を踏む。やがて細い踏み分け道に合流する。説教と治療に来ていた集会場の裏へ回る。

 果たして足音は、ついてきた。

「ついてこないでって言ってるでしょ!」

「ごめんって言ってんじゃんー」

 はしごに手を掛ける。一度ショウゴをにらんで、視線を戻す。無視することに決めた。

 たすたすと軽い音と共に屋上へたどり着く。無視すると決めてみれば、一気に開けた視界にわずかながら気分が晴れた。

 目の前では空が群青に沈もうとしていた。フカミ自身の影が長く細く伸びている。見晴らす内海に船はなく、静かな波に集会場と山が作り出す影が揺れていた。

 フカミは大きなHのマークを縦断し、屋上の端にちょこんと座る。少し距離を置いて座ったショウゴにまた怒鳴りそうになったが、努めて無視した。

 集会場は島の中心にあった。島で最も高い位置にあり、隅々まで知り尽くせるほど小さな島の、その全てを見晴らすことが出来た。

 集会場からのびる道は大きく曲がりながら山を下り、子供舎の屋根を過ぎって崖の手前の医療院まで延びている。医療院前で道は別れ、農場へ向かう道と、港へ向かう下り坂へと続いていく。医療院の前、道の脇には食堂の大きな屋根が見える。日が沈みきれば夕飯の時間だ。

 食堂の裏にいくつも並ぶのは雨水を溜めておくためのタンクだ。タンクは島の至る所にあった。集会場の裏にも、子供舎の裏にも、港にも、農場にも。島を覆う木々の隙間から、丸みを帯びた灰色のラインがいくつも見て取れる。

 ふと、ちらちら揺れる灯りに気付いた。ぽつりぽつりと見る間にそれは増えていく。木々の隙間に点在する十余りの小屋は、すでに夜の支度を始めていた。フカミはくん、と空気をかぐ。魚油の独特の匂いが空気に混じってここまで届いたような気がした。

 ざっと木々の葉が音を立てる。フカミの背後から右手を揺らし前へと抜ける。ぶわりと肩まで伸びた髪が舞い上がった。

「フカミはさぁ、あの中とかどうなってんのかなって気になんない?」

 扉の中のことだとすぐに気づいた。けれどフカミは口を結んで明後日の方を見る。今日最後の陽光が全てを朱に染めていく。

 フカミだって、興味が全くないわけじゃない。けれどそれは、掟に触れるのだ。島長の孫であり、教師であり掟を司る役目も持つシノの一人娘であるフカミが、掟を破るわけにはいかない。――そう、幼心に考えていた。

 だから、フカミはこう答える。

「……ない」

 内海を囲む白砂の浜が燃えるような色に変わり、やがて影の中に沈んでいく。

 もう夕飯の時間。思ってフカミは立ち上がろうと腰を浮かせ、それに気付いた。

 特徴的な三角形だ。時には波に乗り、うねりをまたぎ、滑るように内海にさしかかる。見ている間になめらかに、港へと入っていく。

「……ヨツバちゃん」

 シノの妹、フカミの叔母であるヨツバの繰るヨットだ。……帆付きの船を自在に操れる人物など、ヨツバぐらいしかいない。

「ほんとだ、ヨツバちゃんだ! ヨツバちゃんが帰ってきた!」

 飛び上がるような勢いでショウゴは立ち上がった。もうフカミのことなどどうでも良いというようにぱっと身を翻すと、あっという間にはしごにとりついた。……いくらも経たずに踏み分け道を駆けていく背中が見える。

 フカミはショウゴの背中を見送ると港へと視線を戻した。船着き場に入った船へ幾人もの影が駆け寄る。舫い綱を回し、船を固定する。作業にはヨツバ自身も加わるだろう。男も女も関係ない。結束の固さは漁師たちの誇りでもある。

 そして、掟破りのヨツバを中心にして、盛り上がるのだ。

 すっかり日が落ち、月明かりの中を食堂へ向かう影が増え始めた。フカミはよいしょと立ち上がり、屋上から降りる。そのまま表へ回り込んだ。

「お母さん」

 ちょうど出てきたシノの腕にしがみつく。ぱちりと集会場の灯りが消え、一瞬あたりが見えなくなる。

「ヨツバちゃんが帰ってきた」

 シノはわずかに背筋を伸ばす。そして、フカミの頭をゆっくりと撫でた。

「三日ぶりね」

「……掟破りの放蕩娘が」

 吐き捨てるような声は、フカミの祖母であり島長であり、ヨツバの母であるミツのものだった。


 *


 島には掟がある。始まりの時から百年の間、守らなければならないとされている。


 泉の水を飲んではならない。

 島を出てはならない。

 島外のものが島に立ち入ってはならない。

 神の道へ続く三つの扉を資格なき者が潜ってはならない。

 遣いの船の船医者による診察を受けなくてはならない。


 例外は医者と島長、そして、遣いの船に乗るホシンたちだけだった。


 *


 号令に合わせて立ち上がり、声を合わせて礼をする。

「はい、さようなら」

 先生がそういえば、一気に教室はうるさくなる。遊びに行こう、宿題やろう、サッカーが、野球が、習い事がとクラスメイトの声があふれ出す。

 美空は荷物をまとめると、お愛想のように手を振る友達に合わせて曖昧に返し、一人教室を後にした。

 小学校入学を機に父親の職場の近くに引っ越した。祖父母と暮らす街と幼稚園で仲良くなった友達に別れを告げ、新しい街へやってきた。寂しいながらも期待に胸を膨らませて入学した小学校で、けれど美空は、なじめずにいた。

 意地悪をされるとか、無視されるとか、そんなことは全くなく。

 通学路の片隅で綺麗な花を見つけたと言っただけで変わっていると言われたり。図工の時間に雲を描こうとして不思議な顔をされたり。通学路で何匹も見かける野良猫たちを観察していたら、野良猫を見たらホケンジョにツウホウしないといけないんだと後ろ指をさされたり。習い事を何一つしていないのも、塾に行っていないのも、テレビの時間が決められていないのも、本ばかり読んでいるのも。今まで普通だと思っていたことの全てを普通じゃないと決められたり。

 変わってる子。田舎から出てきた子。不思議な子。小学校最初の夏休みが終わっても、美空の『位置』は変わらなかった。

 上級生の授業が行われている校庭のすみを一人とぼとぼ門へ向かう。男の子達がじゃれ合い笑い合いながら、美空を追い抜き駆け抜けて行く。女の子達の賑やかな声が追ってくる。

 美空は俯きながら門を過ぎる。

 だから、気付かず通り過ぎそうになった。

「美空ちゃん。久しぶり」

「……省吾お兄ちゃん」

 白い半袖のYシャツに灰色のスラックス。手にはファイルケースを持ち、木陰の下から小走りで寄ってくるのは佐倉省吾だった。小さいころから家族ぐるみで付き合いのある、美空の『お兄ちゃん』だ。

「卒園式以来かな」

 省吾はにこっと笑うと、美空の頭をぽんぽんと叩いた。

 たったそれだけで、道路にはみ出しクラックションを鳴らされる男の子達も、校門の前でバイバイと言い合う女の子達も、美空は全く気にならなくなった。

 目の前に手のひらが広げられる。美空はにっこり笑むと自分の小さな手を重ねた。いつものように結んだ手を振りながら、省吾と一緒に歩き出す。

 お父さんと同じ大きい手が美空は大好きだった。


「ゲーム?」

「うん。おじさんと髭のおじいちゃんと僕で」

 おじさんは、美空の父、内山孝志のこと。髭のおじいちゃんは、幾度か会ったことのある孝志の仕事のエライ人だろうと、美空はアタリを付けた。

 ゲーム。その響きはとても楽しそうで。

 学校帰りはよくないのかな、などと言いつつ二人で入ったファーストフードで、美空は目を輝かせながらシェイクをすすった。大人の省吾も同じものだ。

「でね。美空ちゃんにも協力してほしいんだ」

「何をするの?」

 うん、と省吾はシェイクを啜る。一度シェイクを見て、目を閉じて、そして、美空を見た。

「来週、おじさんが出張に行くよね」

「うん」

 年に二回。春と秋。孝志は十日ほどの泊りがけの仕事に出る。母親がおらず、一人残されることになる美空は、祖父母の家に泊まることになっていた。つい半年前まで暮らしていたし、おじいちゃんもおばあちゃんも大好きだし。美空に嫌はない。

「お父さんのお仕事について行ってみない?」

 お仕事の邪魔をしてはいけないよ、とは、祖父母からさんざん聞かされた言葉だ。だから、ほんの半年前まで、孝志と一緒に暮らせずにいた。……まだ美空が小さすぎるから、と。

「……でも」

「もちろん、邪魔をしたりするつもりは僕だってないよ」

 ゲームなんだと。ちょっとした遊びなんだと省吾はシェイクをかき回しながら口の端だけで笑う。

「……いいのかな」

 これには、ふっと笑った。ちょっと困ったようなあきらめたような、そんな顔だと美空は思った。

「良くはないかなぁ。でも」

 シェイクを置き、美空を見る。

「怒られるのは僕で、美空ちゃんは協力してくれるだけで、いい」

 省吾はいたずらを仕掛けるときの目で言った。

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