26:そんな裏設定、聞いてない・2
黒田が私の家を襲ってから一か月ほど経った。
私の首の傷はごく浅い切り傷で、今はもうほぼ綺麗に治っている。
振り返ってみれば、もう一度同じことはできないなと思う。特に黒田に唐辛子の瓶をふりかけたあたりとか。あの状況であんな行動ができたのは、火事場の馬鹿力ってやつもあるけど、「小説で吉乃は怪我を負っただけだった」ってのが大きい。どこかで、多少の無茶ならセーフみたいに思ってた。
でも落ち着いて考えたら、小説では男だったはずの犯人が女になってるし、しかも顔見知りの犯行だし、いろいろ展開が違う。
私が刺されて死ぬ可能性だって十分にあった。
全然セーフじゃない。全員が無事で本当によかった。
事件のあとも、いろいろと大変だった。
警察沙汰の事件の当事者になったことによるものも多いけど、想像できていなかったのは家族や蘇芳達の反応だ。
私はすっかり家の防犯だのなんだのの必要性から解放され、反動かのようにもう見たくないです状態になったのだが、両親達は逆だった。私の警戒は正しかったと言い、家の戸締りに気を遣い、家中に防犯グッズが溢れ、設置している防犯カメラの数が増え、私と紫苑の学校の行き帰りを車で送迎すると言い出した。
「さすがに大げさだと思うな」
おそるおそる言ってみたけど、
「そんなことはない」
「そうよ、吉乃さん」
「むしろ姉さんが平気なのが不思議だよ」
「費用は伊集院家で出していいから」
みたいな感じで、一対四でした。
まさか小説内じゃ他に事件が起こった様子はないからもう安心、とか説明できないし、四人の気持ちもわかる。わかるけど、一年近く背負ってきた重荷がなくなって解放感に包まれていた私は、もっと自由を感じたかった。
ゆかりに相談したら、「しばらくは諦めること。どうしても無理ってなったら、私からも説得してあげるから」って、言われてしまった。
ちなみに通報してくれた彼女にだけは、あの日に何があったか詳しく話した。無茶したことを涙目で怒られた。
私だけじゃなくて両親や紫苑や蘇芳からもそれぞれお礼の打診がきているらしい彼女は、予算や規模が金持ちはおかしいと愚痴っている。紫苑もなのかって尋ねたら、一番おかしいらしい。好きな相手でも嫌いな相手でも、調べてほしい人がいたら教えてって笑顔で言われたら、まあ普通は引くか。
今の家から引っ越す話も出ていて、たぶん近々そうなるだろう。マンションの間取りをいくつか見せられたけど、どれもキッチンとダイニングが立派な物件だ。両親はなぜか蘇芳にも見せようとして、困惑されていた。
生き延びました、よかったね、だけじゃ済まないんだなあと実感している。
黒田に関しては、多少は事情を知ることができた。
父の調べによると、確かに十年以上前に、元恋人という男性が伯父の会社の関連企業で働いており、退職後に自殺をしていた。いじめがあったのかは、まだ調査中ということだ。
ただ、それで私の家に恨みの矛先が向かうのはやっぱりおかしいらしい。
そしてさらに、おかしなことがもう一つ……。
「黒田は変な人物にそそのかされて、犯行を起こしたと言っているようです」
「ふざけた言い訳だ」
「きっと嘘に決まってますよ」
父の言葉に、私の斜め前に座る中年の男女が憤慨した様子をみせた。
蘇芳の両親だ。春休みに入ってすぐの今日、私と蘇芳の家との食事会が催されている。
自宅でやるんじゃなくて、立派なレストランの個室を借りてのやつ。黒田を紹介したのが伊集院家だったので、そのお詫びをしたいとセッティングされた会食だった。
私の家からは紫苑も含めて四人が、蘇芳の家からは彼の二番目の兄を含めて四人が出席している。もう一人の兄のほうは、仕事で来れなかったらしい。
「吉乃さんに怪我まで負わせておいて……。もう痛みはないの?」
「聞いたときは、本当に驚いたよ」
「ありがとうございます、もう大丈夫です」
だいたい親同士が話しているので、子供はその横で美味しい料理を静かに食べていればいい。たまに振られる会話に、こうして笑顔で返答するくらい。
蘇芳のほうを横目で見たら、彼はただ黙々と料理を食べていた。
その隣には蘇芳の兄である
事件のあと、私と蘇芳の婚約は解消する話も出た。
でも父と母が、本人達の気持ちを優先したいと言ってくれて、私が「別に解消とかは望んでないけど……」と答えたら、それでめでたく続行と決まった。
紫苑には彼と結婚したいってことかって聞かれたけど、実はよくわからない。ただ解消するかって言われたとき、残念だって気持ちになったのは本当だ。
たぶん、家族とか友達への愛情に近いものを抱いているかって聞かれれば、それはイエスと答えられる。
蘇芳にはただ、ありがとうと言われた。
そこに恋愛感情は混じっているのか、いろんなものが積み重なりすぎて、私には判断できない。最初の頃の事情が事情だし、彼が前に婚約の状態を続けたいって言ったときの理由だって、複雑な感情が絡んでいて……。
いつかは、はっきりさせる必要があるんだろう。ただ、今はまだ曖昧なままがいい――と思う。
自分の気持ちはよくわかんないくせに、彼から恋愛感情ゼロだって告げられるのは、想像するとなぜか怖い気がする。どうして怖いのか、突き詰めるとおそらく面倒なことになるって、前世の記憶や知識でなんとなく感じていた。
「……それで、黒田が言っているのは教師でしたか」
「いえ、『先生』ですよ」
「ふざけた呼び名だ」
私と蘇芳の父が、黒田の話題に戻る。
取り調べで、彼女は『先生』に導かれてことを起こしたと述べているらしい。
「ある日、突然『先生』から連絡がきた」とのこと。顔も名前も、年齢も性別さえも知らないらしいその『先生』が、彼女が元恋人の仇をとるために、私の家で家政婦として働くよう指示したという。
最初は半信半疑だったらしいが、指示のままに知り合いに家政婦の職を探していると告げたら、その繋がりから伊集院家に話がいき、私の家で働けるようになった。それで『先生』の言うことを信じるようになってしまった。
だからってもちろん、最初からナイフを持って家に乗り込むなんて物騒なことは考えていなくて、『先生』だってそんなことは言っていなかった。
しかし、やりとりを重ねるうちに自然と「そうしなくては」という気持ちになり、二月に入って、『先生』から「もう後戻りはできない。今、しなくてはならないと思う」みたいなことを言われて犯行を決意したという。
『先生』とのやりとりは主に手紙だったらしいが、すべて犯行前に処分したとのことで一通も残っていない。それも指示だという。ただ、どうやら『先生』は、「綾小路家の人間を殺せ」などと直接的な指示はしておらず、極端なことを言えば「綾小路家の人に事情を話して謝罪をもらえ」という指示だったと言われれば、それで通じそうな感じらしい。
警察は、罪を逃れるための嘘か、他の人には見えない存在が彼女にだけ見えている可能性を疑っている。
でも私は、聞いた瞬間、脳裏に浮かんだ言葉があった。
『シリーズの黒幕』。
……だって絶対、そうだよね。
『先生』とか、明らかにフィクションに出てきくる犯罪者キャラの呼び名っぽい!
両親が死ぬかもしれない衝撃で、頭の隅からもすっかり蹴り飛ばされて抜け落ちていた存在が、ここにきて急に戻ってきた。
『黒幕』と女性……って組み合わせで、さらに一つ、嫌な記憶が蘇る。
そういえば、『きらめき三人組』シリーズでは、たまーに謎めいた女性の描写があったのだ。特に重要そうな感じではないんだけど、犯人が「ネットで知り合った女性に少しだけ協力してもらった」とか「そこに女性がいたから、いつもと違う行動をしようと思った」とか供述してたりする。
あれは同一人物ではないかと、言い出した読者もいたりした。まあ、その読者って前世の私と妹なのだが。
まさかあれ、『黒幕』キャラの手下だった?
それが黒田だったの?
小説とは私の家を襲おうとした犯人が性別からして違うけど、背後に『黒幕』がいました、ってことなら、おかしくはないかもしれない。
要は『黒幕』が私の家を狙っていて、小説とは違って家政婦を潜り込ませられる状況だったから、そっちをとった、とかありえるのかも。
そういえば、黒田が逃げることを想定していない行動だったのは、『先生』とのやりとりの影響らしい。相手をどう追い詰めようかみたいなことは考えなくちゃって気持ちにさせられたけど、そのあとのことはあまり頭に浮かんでこなかったとか。
でも、『黒幕』が私の家を狙っているってどういうことだ。
本当に狙っているなら、小説内で吉乃や紫苑が生き延びたままだったのは不自然だし。
あ、吉乃は殺人事件で死ぬんだっけ。
まさかあの殺人事件も、『黒幕』の仕業なのか? 前世の従姉はそんな大がかりな伏線をはってたの?
この世界に神様がいるなら、そろそろ私に心の平穏をくれてもいいと思う。
「蘇芳くんは、英語が得意みたいですね。紫苑は苦手なようだから、今度教えてやってほしいなんて思ったりするんですよ」
「へえ……」
「蘇芳さんが興味があるようだったから、今度、まだ日本で翻訳されていない小説を紹介しようかと思ってますのよ。お二人はご興味ある?」
「あら、そうなんですね。私はあまり……」
さっきから、たまに私の両親が蘇芳のことに触れたりするんだけど、対する彼の両親の反応は薄い。
というか、よく知らない話題を出されてちょっと困りながら愛想笑いしている感じ。
気にせずやたら話を振る私の父と母は、相手の反応に気付いていないのか、気付いた上で、なのか。黙って聞き耳を立てながら探ろうとするけど、意外なことによくわからない。わかるのは、二人のほうがよほど蘇芳について詳しいなってことだ。
蘇芳の両親は本当に子どもに対して関心がない。嫌ってるとか冷たいとかじゃなくて、単に無関心。話題に出されれば、あえてそれを避けるとかもしない。ただ話題に乗れないだけで。
「蘇芳さんとお兄さん、よく見ると雰囲気が結構違うのね」
母が、ずっと黙ったままの玄斗に話題を振る。
彼は控えめに笑って、少し自分の両親のほうを窺ってから答えた。
「そうかもしれないって、最近は自分でも感じてます」
会話は膨らまず、蘇芳の兄が喋ったのはそれくらいだったと思う。
そうして会食は進み、食後にデザートと飲み物が運ばれてきた。
伊集院家の人達は、母親が紅茶、その他はコーヒーだ。こんな場所でも、つい初対面の相手のスプーンの動きを確認してしまう。まさか『黒幕』がこんなところにいるわけはないけど――。
「……嘘でしょ」
思わず、小さく呟いていた。
花を描くような、奇妙な動き。
あの変な混ぜ方を、前世で従姉に相談された『黒幕』のクセにしては地味な動きを、目の前で玄斗がまさに再現していた。
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