24:『???』・前編

 たしか、さくら達が関わった事件で凶器が包丁だったことがある。ちょっと珍しい特注品が使われていたんだかしたんだけど、そのときに吉乃の両親の話がほんのちょこっと出たのだ。

 貰ったばかりの包丁があって、台所に置いてあったそれを犯人が使って――。


「今日の夕飯の準備で使ってもらおうと思っていたのに、出すのを忘れていたわ」

「そ、そう」

「使う前には研がなくちゃいけないのよね」

「今日はやらなくていいんじゃない!?」


 研ぎ器を出そうとした母を慌てて止める。


「そうねえ。明日、やっておくわ。ふふ、忘れないように出しておきましょ」


 母が包丁立てにその凶器をしまう。刃の部分が完全に収まる木製の包丁立てには、他にも数本の凶器になり得るやつが刺さっている。

 現物を見たおかげで、思い出した。

 綾小路家に押し入った不審者は、元から持っていたナイフを捨て、台所にあった包丁を使って私の両親を刺したのだ。

 背筋がぞわっとする。研がれていなくても、それは切り口が綺麗にならないってだけ。これは十分に凶器となる。


「ねえ。今日は外に食べに行かない?」

「急に何を言い出すの、吉乃さん。お鍋ももうすぐできるし、そもそも雨だから外に出るのは面倒だわ」


 苦笑する母は、私が本気で提案していると思ってない。

 私だって、ここで突然「今日は外食します」って言っても通じにくいってわかる。でもおそらく今日なんだ。私がずっと警戒していたエックスデーは!


 とにかく落ち着こう。

 母が言う通り、外は大雨だしもう暗い。今から外食のために外に出るのも逆に危ないかもしれない。玄関から出たところに突撃でもされたらたまらない。

 むしろ、家に籠っていたほうが安全か? おそらく小説とは違って、しっかり戸締りはしているし、変なところから窓を破って入ろうものならホームセキュリティが作動する。

 ダイニングからそのまま続いているリビングの、庭に面した人が出入りできる窓には、簡単に割れないための防犯用のシールを全面に貼っている。だから異変に気付いたら、逃げるくらいの時間はたぶん稼げる。

 鍋が仕上がるまでもう大して時間は残ってない。

 他に、私にできることは何――?


 そのあとは熱でも出たかのように体がふわふわしていた。

 さあ、鍋ができたよって食卓に運んだ直後だった。インターフォンが鳴った。


「私が出るから!」


 母が動こうとするのを制す。モニターを見ると、いたのは黒田だった。


「あれ? 黒田さん?」

「すみません、忘れ物をしてしまって……。入れていただいていいですか?」

「ちょっと待っててくださいね」


 不審者ではなかった。よかった。

 そうは思いつつも、キーチェーンを付けたまま扉を開けた。黒田は驚いたようだが、すぐに察してくれる。


「私の他には誰もいません」


 雨の音に負けないようにか、ちょっと声を張り上げて黒田が言う。特に怯えた様子もない。

 耳に当てていたスマートフォンから、ゆかりの様子を問う声が聞こえてきた。


「ゆかり、ちょっと待ってて」


 何かあったときのためにと、直前で思いついて電話をかけながら玄関を開けたのだ。もしかしたら、この家を狙う誰かが、黒田を脅してインターフォンを鳴らさせる可能性だってあるから。

 傍目には異常な行動に見えるかもしれないが、それで両親の命を守れるなら安いものだった。


「大丈夫ですよ、家の周辺も見回っておいたんですが誰もいませんでした」


 本当に黒田だけらしい。

 もしものときのために、誰かに脅されていたり、外は危険な場合には別の言葉を使うよう、黒田と取り決めをしていた。

 これは年が明けてから私から提案したことで、父や母達が私の様子を本格的におかしいと思い始めた理由の一つでもある。


「すみません、黒田さん」

「いえいえ」


 一度、扉を閉めた私はキーチェーンを外し、もう一度開ける。

 そして――目の前に立つ彼女を見て硬直した。

 人差し指を口に当て「静かに」という仕草をする黒田のもう一方の手には、果物ナイフが光っていた。


「通話、切ってもらっていいですか?」

「……ごめん、ゆかり。お客様が来たから、切るね」


 ゆかりの返事を待たないまま、私はスマートフォンの画面を黒田に見せつつ、通話の終了ボタンを押す。

 そしてそのまま電源も落として見せた。黒田は満足そうにうなずく。

 中に入ってくる黒田に合わせて、私は後退した。扉が閉まると、雨の音が遠くなる。ダイニングに聞こえることを警戒してか、黒田が声のボリュームを落とした。


「そのまま、スマートフォンは下に置いてください」


 ゆっくりとしゃがんで言われた通りにした。

 黒田に隙はない。じっと私を見ながら、いつでも刺せるようにナイフを構えている。

 傘やかばんは持ってない。外に置いてきたのだろうか。

 何度もシミュレーションしたのに、いざ凶器を向けてくる人間を前にしたら、物語のヒーローみたいにああしてこうして……という華麗な回避アクションなんてとれなかった。


 立ち上がった私はそれでも、横目でちらっと靴箱の上を見る。そこには季節の花が飾られた花瓶の他に、可愛いラッピングがされた小さめのスプレー缶が置いてあった。


「変なことを考えないでくださいね」


 黒田はナイフを私に向けたまま、そのスプレー缶に手を伸ばすと、私の手の届かない場所に移動させる。

 あれは不審者対策のために置いていた、防犯用の催涙スプレーだった。他にも家のいろんなところに防犯グッズをそれとわからないよう置いているけど、無駄かもしれない。それらの置き場所や防犯グッズに見えないようにする工夫だとかは、黒田にも相談して準備していったので、手の内はバレてしまっている。


「靴を脱いで、上がってください」


 そう指示する黒田は土足のまま廊下に上がる。「あちらを向いて」と指示され従うと、すぐ後ろから右側の首元にナイフを当てられ、左腕を掴まれた。

 雨に濡れた彼女の手から首筋にしずくが垂れたようで、びくっとする。


「私に合わせて歩いていってください。声を出したら、切ります」


 無言で小さく頷く。ナイフが当たった場所が、ちょっと痛い。

 もうこの時点でいろいろパニックになりそうだったけど、「両親が死ぬ」って思ったら、踏みとどまれた。

 黒田に盾にされた形で、ダイニングへと向かう。

 小説通りに刃物を持った人物に家に押し入られてしまった。でも、なぜ小説にはいなかっただろう黒田がこんなことをするの。

 小説でも犯人は黒田だったの? 男だったはずだよね?

 なぜ……。

 彼女が正体を隠そうとしていないのも気になる。逃げることを考えてないってこと? それとも、逃げ切れる自信でもあるの?


 台所に繋がる扉の前に来ると、掴まれていないほうの腕で開けるよう指示された。

 ここをあければ、セミオープンタイプのカウンターキッチンがあり、その向こうにみんなのいるダイニングがある。

 扉を開けると、母が私に気付いた。


「吉乃さん、黒田さんの忘れ物はなんだったの――」

「みなさん、動かないで!」


 食卓から席から立ち上がってこちらを見た母が、驚いて言葉をなくすのと同時に、黒田が叫んだ。


「変な動きをしたと思った時点で、吉乃さんの首を切ります! 脅しじゃありませんから!」


 母以外の三人も立ち上がるけど、険しい表情になったまま黙って動きを止めた。


「みなさん、両手を上げて、テーブルから離れて」


 四人とも、黒田の言葉に従い、手をあげてテーブルの向こうに並ぶ。

 廊下から中に入るとき、後ろで黒田がふっと笑った。


「こんなところに、罠ですか」


 扉の下の方に、侵入者が足を引っ掛けて転ぶよう紐を仕掛けておいたのだ。黒田に相談したことのある方法だったせいか、すぐ見破られてしまった。

 黒田が足をどんと踏みしめたのは、紐を踏みつけたのだろう。下を見て確認できないが、がっちり固定できるほどの時間はなく急ごしらえの罠だから、無効化されてしまったと思う。


 カウンターキッチンの内側に入り、黒田は私の左腕をぐっと掴み直す。

 食卓では、火がついたままのコンロの上で鍋がぐつぐついっている。その光景が、この空間でやたら異質に映った。


「紅子さん、私が今から言う通りにしてください。他の三人は絶対に動かないで。怪しいと思った時点で、吉乃さんがタダじゃすみませんよ」


 了承するように四人が頷く。

 黒田は母に、全員のスマートフォンとダイニングに仕込んでいた防犯グッズを回収させた。そしてそれらを、すべてゴミ箱に捨てさせる。さらにそのゴミ箱を台所側に寄せさせる。

 終わると、母にもう一度両手を上げてテーブル向こうの三人の隣に並ぶよう命じた。


「黒田さん、一体何をしているの……」


 怯えた声で、母が問いかける。

 黒田はおかしそうにふふっと笑った。


「何って、私の目的を果たしているだけです」

「あなたは、この家の家政婦でしょう……」

「そうです。今日のために、この家に働きたいと願い出て……こんなにうまくいくとは思いませんでした」


 そうして黒田は、一人の男性のものらしき名前を上げる。


「この名前、わかりますか?」


 紫苑と蘇芳が、両親に目をやる。

 父と母は戸惑ったように顔を合わせてから、首を振った。


「私のかつての恋人の名前よ! 綾小路家の会社で働いて――そしていじめに会って自殺したの! あなた達に謝ってもらうのよ! その身を持ってね!」


 だが、その自殺した恋人の会社名をあげられても、父はいっそう困惑するだけだった。


「綾小路グループの会社にそういった名前のものがあった気がするが、私が任されているものとは関係ない。妻が名義上役員になっているものとも違っている」

「兄達の会社の関連会社じゃないかしら……」

「私達を責めても意味はないぞ。ましてや吉乃はまったくの無関係だ!」

「うるさい!」


 激昂する黒田に、父達がおとなしくなる。

 どういうこと? 恨みを持って私達の家に潜り込んだけど、仇はここにいないってことじゃない。

 何か誤解が発生してる?

 話せばもしかしたら通じるかもしれない……そう思ったけど。


「わかった。綾小路家の力を使って、君の恋人の勤めていた会社に調査を命じよう。きちんと事実確認し、責任者には謝罪させる。だからどうか吉乃を離してくれ」

「黙ってください」


 父が懇願しても、黒田は無視する。「もう後戻りはできないの」と小さく呪文のように呟くのが聞こえた。


「吉乃さん、下手なことはしないでくださいね」


 彼女は優しく私に釘を差す。

 そして調味料置き場の中にひそませておいた、玄関にあったのと同じ催涙スプレーを取りだし、床に投げ捨て、台所の奥へ蹴とばした。


「わかり、ました」


 返事をすると、「ですよね」と満足気な声が聞こえる。

 私と一緒にこの家の防犯に励んでいた人だ。強盗が家に押し入ったときに私がやろうと準備していたこと、すべて彼女にはお見通しだ。それが余裕に繋がっているんだろう。


「あら、新しい包丁がありますね」


 黒田が包丁立てに立てられた、新品のそれに気付く。


「は、母が、お土産で、もらったって……。有名な、鍛冶屋さんの……」


 緊張で上擦った声になるのを止められなかった。


「それはさぞかし、いい切れ味でしょうね」


 新品でまだ研いでなくても、押し当てられている小さな果物ナイフに比べたら、殺傷能力は絶対に高い。


「みなさん、変な動きをしたら、すぐにこの子を切りますから。いいですね」


 しつこいくらいに念を押してから、黒田は私の左腕を握っていた手を離す。

 その手が、そろそろと包丁立てに伸びるのが見えた。

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