01:思い出した
綾小路吉乃は、これまで大抵のわがままは通してきた。
通してきたというよりも、少し主張すれば簡単に周りが叶えてくれた。本人には無理を言った自覚はなく、むしろそれが普通だという感覚で過ごしてきた。
成長するにつれて多少は周囲の空気を読むことを覚えたけれども、空気なんて読まないほうが都合がいいとも気付いていた。
吉乃が少しばかり遠慮したり気を遣ったりしたところで、誰も褒めたりしないし感謝もしてくれない。自分ばかり我慢をして損な目を見る。
その点、吉乃はわがままを聞いてくれた相手には、きちんと感謝の念を抱く。
私の好きにさせてくれたほうが、お互いのためにいい。
十五歳の吉乃はそんな考え方でいた。
だから両親が連れて来た少々薄汚い格好の、顔の整った少年が大事そうに抱えていた本を悪気なく欲しいとねだったのも、断られて不機嫌になったのも、おそらく自分の母親に強くお願いすれば最終的に自分の手に本が渡るとわかっていて彼女に向かって欲しいと言葉を重ねたのも、全部当然のことだった。
「紫苑さん」
鋭く差すような声音で、母の紅子が少年の名を呼ぶ。
本を渡せとも、渡したくない理由があるかも聞かない。
ただ、名前を呼んで本を渡すよう促した。
父の藤孝はその様子を少し面倒そうに眺めているだけだ。
吉乃は期待に満ちた目で少年を眺める。きっと、これでその手元にある本が自分に向かって差し出されるはずだ。
「……ごめんなさい」
だが期待に反して、少年は小さく拒絶の言葉を吐いた。
紅子の眉間に皺が寄る。
「あなた、今日から綾小路紫苑になる事の意味、わかっているの?」
***
綾小路紫苑。
その単語を聞いたとき、言葉にできない衝撃が私を貫いた。
「あなたとは、仲良くやっていきたいと思っているの」
母が遠回しに紫苑に対しプレッシャーをかける。
紫苑は怯えたように母と父を見て、そして私を見た。
泣きそうになった目と視線が合う。
「どうしても、欲しいんですか?」
小さく絞り出した声に、隣に立っていた母の苛立ちが増すのを感じる。
彼女がさらに何かを言う前に、私は首を大きく振っていた。
「吉乃さん?」
母が怪訝そうに声をかけてくるけど、うまく言葉が出てこない。
私は「いらない」となんとか口にして居間を飛び出ると、逃げるようにして二階にある自室へと駆けこんだ。
後ろから私の名前を呼ぶ声が聞こえた気がするけど、反応できない。
自室へ飛び込んで、すぐ姿見の前に立った。この姿見は小学2年生のときに母が買ってくれたものだ。
姿見の枠には花びらのシールが何枚か貼ってある。小学校のときの友人が誕生日にくれたもの。光を吸収して暗いなかでほんのりと光るやつ。
全部知っている。
鏡に映る姿も、よく知ってる。
それは間違いないのに――。
「あの……」
部屋の扉がノックされるとともに廊下から小さな声が聞こえる。
返事をしないでいると、扉が開いて声の主が中に入って来た。
「あの、本、あげます」
鏡の前で放心状態だった私の横に立つと、声の主――紫苑が抱えていた本を差し出した。
私は黙って本を見つめる。
「あげます」
「いい」
「でも、あげるって決めたから」
「いらない」
「ごめんなさい……」
戸惑ったように紫苑が謝る。
きっと母に言い含められてきたのだろう。私の機嫌を相当損ねたのだと勘違いし、絶対に本を渡してくるようにと命令されたに違いない。
でも、母自身がここに様子を見に来ることはない。機嫌の悪い娘と直接相手をするのは面倒なのだ。そういう人だ。娘は可愛いけど、可愛がることしかしたくない。
どこか他人のように母を分析できるのが不思議だった。
「本気で欲しいわけじゃない」
ぎこちなく言葉を紡ぐ。
「大事そうに持ってるから、ちょっと見たいなって思ったの。言い方が悪かった」
窺うように見てくる紫苑に、本当にそれだけだと信じてほしくて続ける。
「もしよかったら、今度見せて」
「でも……」
「本当に気にしなくていいから」
これ以上は無理。押し出すように彼を部屋の外へと出した。
「お母さんにはあとで言っておくから。だから、しばらく一人にして」
言い切ると扉を閉めて、もう一度姿見の前へ戻る。
何度見ても、そこには十五歳の
目の前にいる少女はちゃんと同じ動きをして見せる。でも。
何これ。どういうこと? 綾小路紫苑?
記憶が確かなら、それって、小説に出てくるサイコパス異母弟の名前だった気がする……。
その日、私は吉乃として生きてきた十五年とは別の、前世のような何かの記憶を思い出した。
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