第512話 危険に遭遇しても的確なる嫋やか
子を連れて治安が悪化している国へと
しかし、アンネスがパルミュラ家に随行してのファルマズィ=ヴァ=ハール王国訪問の旅に子らを随行させようと提案したのは他でもない、夫ジルヴァーグだった。
「……」
籠の中から赤ん坊を抱えあげて腕の中で揺らしながら、馬車の外を眺める。
ゆっくりと砂漠の景観が流れていく光景は、普通なら退屈するものだろう。しかしアンネスにとっては、かつての逃亡の記憶をかえりみる景観であった。
「母上、暑くはありませんか? 僕の “ 冷石 ” もお持ちください」
あの時、一緒に手を引いて歩いた子は、まだ10歳になっていない年頃ながら、こんなにも気遣いのできる良い子に育ってくれた。
さすがにあの時の事は幼かったので覚えていないのか、それともそれも気遣って言葉にしないようにしているのかは分からない。
しかし、当時まだ3歳になるかどうかという幼い脚で、厳しい砂漠を延々と歩いた経験はその身に刻まれていることだろう。
「ありがとう~、でも大丈夫ですよぉ。セイ君も暑さに倒れてしまわないよう、しっかりと冷やしてちょうだいねぇ」
そうニッコリと微笑みながら、アンネスは優しい長男セイリオスの気遣いに応対した。
「ははうえ、わたしもー、つめたいのー」
あの頃はまだお腹にいたこの妹も、兄の真似をして自分の冷石を差し出してくる。
苦しい、地獄からの道を共にした子供たち……アンネスは目頭が熱くなる想いがした。
「あらあら~ぁ。じゃーぁ、エレクトラの冷たいのは~、ミアちゃんが熱い熱いってならないように~、一緒に冷やしてあげましょうねぇ」
長女のミアプラも、ハッキリとした言葉使いができるようになってきた。
兄の真似っこをするのは変わらないが、近頃は自分で考えて発信する行動や意思も増えて来た。
子供達を見ながら、アンネスは思う―――ああ、こんなにも幸せで良いのだろうか、と。
だからこそ、彼女は油断しない。地獄を知っているからこそ、世の中がどれだけ危険に満ちているかを理解している。
おそらく、今回の旅のエスコート役であるシャイト=タムル=パルミュラよりも強い警戒心を抱き続けている。
「……」
「! 母上?」
「セイ君~、腰を少し低くしてミアちゃんをしっかりと抱いていてちょうだい~」
息子が言われた通り、素直に妹の体を抱きしめる。
妹はあにうえーと真似っこで抱き返す。遊びの一環だと思っているらしい。
そしてアンネスは、赤ん坊を籠には戻さずに、両腕でしっかりと問題ないよう抱きしめた。
まるでその準備を待っていたかのようなタイミングで、次の瞬間、馬車が大きく揺れた。
・
・
・
一気に外が騒がしくなる。少しして、馬車の扉が忙しなく開かれた。
「ローディクス夫人! お怪我はございませんかっ!?」
この馬車の周囲を護衛していた兵士の一人が安否確認に来る。
「ええ~、少しばかり驚きましたが、
馬車が揺れる直前、アンネスは感じ取っていた。
それはかつて、兵産院でこれでもかと味わった、下卑た男の視線であった。
「……賊、でしょうか~?」
「ハッ! その通りです。砂賊と思われる者達が襲撃してきました。馬車からお出にならないよう、お願い致します」
砂賊―――普通の山賊などとは少し毛色の違う賊徒たちだ。
砂漠に潜んで待ち伏せし、罠なども使って旅人などを襲う、かなり統制の取れた練度の高い厄介な連中である。
厚手の布を包帯のように全身に巻いた上に、頭から被る貫頭衣、盾代わりにする何重にも布を巻いて太くなっている腕などが特徴的で、賊の特殊部隊、などと揶揄されることもある。
キイン、ガンッ、ギィンッ!
「セイ君~、ミアちゃんをしっかり守ってちょうだいねぇ。ミアちゃんも大人しくじっとしていましょう~」
「はいっ」「ぁいっ!」
こういう時、泣きわめいたりパニックになったりしない我が子達の、なんとありがたい事か。
アンネスが自分の腕の中に視線を落とすと次女のエレクトラも、お目めをパッチリと開けていながら、静かに大人しくしてくれていた。
「(本当、どの子もとても良い子ですね~……)」
アンネスは本当に幸せだと思った。なので、万が一の時は我が身を犠牲にして子らを守ることも、まるで怖くない。おかげで、この状況下でも心の平静と冷静さを保っていられる。
危機に遭っても正のスパイラルが馬車の中に満ちていた。
しかし―――
バタンッ!!!
「ほう、女か。子連れとはいえ、おそろしく上玉だな」
「!」
馬車の扉を開けたのは護衛の兵士ではない。独特な装束をまとった砂賊の1人だった。
片手には短めのナイフが握られていて、いかにも今、砂の中から飛び出てきましたよと言わんばかりに身体のあちこちから砂がこぼれ落ちている。
『ローディクス夫人っ!! くっ、どけこのっ!!』
しまったと言わんばかりの声色で、馬車からやや離れたところから、護衛兵士の叫び声が聞こえる。
状況からして、おそらく地表で戦っていた者とは別で、砂の中を掘り進んだ賊が、護衛をかわしてこの馬車にたどり着いたのだろう。
「……っ」
アンネスは、自身の豊かな胸の谷間の中から棒を取り出す。それはシャキンという音と共に伸びて、先端に針が飛び出し、持ち手も含めて50cmほどの細い携行槍になった。
「ほう、その気概は良し。……だが、綺麗どころの腕前で、この俺がやれるかな?」
賊は余裕だ。
アンネスの露出した肌部分を見れば、彼女が何の武芸の心得もなく、肉体を鍛えてもいない事が分かる。
柔肌も柔肌―――間違いなく、ただの貴婦人でしかないアンネスに、舌なめずりしながらあえて両腕を拡げ、隙だらけだと示して見せた。
「そら、突いて来い。でなければガキどもを守れんぞ、んん?」
「そうですか、ではお言葉に甘えまして、失礼致します」
その言葉を放ったのは、アンネスではない。馬車の扉に立つ賊の後ろから発せられた。
ドスッ
「ぐうぉっ!!?」
賊は痙攣しながら後ろを見ようと頭だけ振り向く。
そこには両手で剣を突き出している褐色黒髪の少女がいた。
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