第233話 大老公の小さな願い
――――――ヴァヴロナ、中央よりやや北部の都市ペトナザーグ。
ジルヴァーグが弟の生存の可能性に至った理由は、その名から連想できたからだけではない。
「……」
手紙の写しをしげしげと眺める。
それは、ジウ=メッジーサのマーラ
読めば読むほど、マーラ
その人柄や性格、行動原理などの全てが、弟リュークスを想起させるところがあった。
「ジルヴァーグ様、お食事の準備が整ったそうですわ~」
「む、もうそのような時間であったか……」
年の離れた妻が
「同じものをお読みになられて~、とても大切な書類なのですねぇ」
時間を忘れて読みふけっていた老体を笑う若き妻。それは夫を気遣ってのものだ。
手紙自体は確かに大事だが、それによって受ける心身への影響というものがある。普通、さほど長くもない文面を読み解くのに、いかにジルヴァーグが高齢とはいえ、何時間もかかるものではない。
つまり、それだけ長く読みふけるという事は、ジルヴァーグ自身の心に強い負荷をかけかねないほどのものだという事。
この48も年下の妻は、遥か年上の夫の心身を気遣える、よくできた女性であった。
「我が生涯における、……永遠ともいえる闇が、払われるやもしれぬでな。長い……そう、長い長い暗闇に、光が差した……」
そう言いながら手紙を置き、椅子から立ち上がろうとする彼の傍に妻が黙したままそっと寄りそう。
手を貸すのではなく、すぐに手を貸せる位置に自分を置くだけなのは、ジルヴァーグの自尊心を尊重しつつ、何事かの際にはすぐに手助けできるようにだ。
そんな妻の姿を見て、ジルヴァーグは感慨深いものを覚えた。
あの日、絶望の世界から逃げてきたかのような少女が、いまでは自身の妻として皇国でも最高の美姫と讃えられる、内外とも素晴らしい貴婦人になった。
「……ふぅ、歳は取りたくないものよ。何気ない、ふとしたことですら涙が出てきそうになりよる、フフフ」
アンネスは確かに自分の妻だ。シワがれた老体のジルヴァーグではあるが、夫婦として閨を共にもしている。
だが、どちらかといえばジルヴァーグのアンネスに対する感覚は、やはり養い子や娘といった方向性のモノが強くあった。
アンネスも、公や他者の目のあるところでは “ 旦那様 ” と呼ぶのに、そうでない場では “ ジルヴァーグ様 ” と1歩距離を置いた敬念の強い呼び方をする。
愛する夫という感覚よりも、自分達を助けてくれた尊い方、という感覚の方が強いのだろう。
だが、ジルヴァーグはそれでいいと思っている。アンネスは強い快楽依存症にかかっており、残念ながらそれを慰めてやれるほどのものはジルヴァーグにはない。
だからこそ、夫婦としてベッタリと自身へと深い愛を抱くよりかは、自分が亡くなった後、すぐに別の愛を見つけてくれるぐらいの距離感は合った方がいいと、彼は常々思っていた。
若い頃でさえ、どちらかといえば線の細いタイプで、体力面に自信のある男ではなかった。
小賢しい頭と、弟の苦しみを想っての一族への憤りを武器に、ここまで駆け抜けてこれただけ―――皇国では大老公と呼ばれるに至った自分だが何てことはない……自分など底の浅い、たいしたことのない人間なのだ。
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「(リュッグ……か……)」
食事を行いながらも、ジルヴァーグはやはり考え続けずにはいられなかった。
「(そういえば、まだリュークが幼い頃……小さなリュックサックを誕生日のプレゼントに贈った事があった……“ リュークに似た名前のカバン ” だなどと洒落た理由を添えて……懐かしいのう)」
澱みのないスムーズな作法で食事を進めるジルヴァーグ。
考え事をしていても、そうとは周りに思わせない所作は長年、貴族社会を生き抜いてきた賜物と言えるだろう。
高齢ではあるが、歳の割にはよく動けるし、何でも自身で出来る―――いや、弟が生存している可能性の報を聞いたからこそ、多少なりとも活力が増しているのかもしれない。
「……ふむ、この肉はなかなかの美味じゃな。もう一皿いただこう」
「かしこまりました、すぐにお持ち致します」
控えていた給仕の男が、僅かに驚いたような表情を押し殺していた。
無理もない、こんな年寄りが肉汁滴る肉料理のおかわりを所望するとは思わないだろう。
「旦那様、今日は食が進んでいらっしゃるようですね~」
「うむ。せっかくの機会じゃて、アンネスも……お前達も存分に好きなものを食しなさい」
妻と子供達に、食卓に並ぶ料理から気に入ったモノがあったなら追加を頼むといいと促す。
ジルヴァーグは上機嫌だった。だが同時に心中で想定もしていた。
「(……リュークス、おそらくお前は帰っては来ぬのだろうな……)」
そもそも何十年と異国の地にあって、命の軽い傭兵業を続けている―――その生き様こそが、一切故郷に戻る気がないという彼の意を示していると言える。
だが、ジルヴァーグは死ぬまでに一度でいいから、生きていた弟に会いたい。そして胸を張って伝えたかった。
あの頃、お前を失望させた一族はすべて滅ぼした、と。
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