02.月明り

 ベルが首輪チョーカーを外すと、月明かりの下でも、首にうっすらと紐のあとが見て取れた。

 あんなものが残るくらいの圧迫となれば相当の力だったはず。続けていけば後遺症が残る可能性もあるし、最悪、死ぬことだって……。


 今朝、チョーカーをめた時にベルのまとう空気がかげったのは、そういう理由だったのか。


 それだけじゃない。

 村についた直後、マクシムに冠館クロンヌへ来いと命じられた時のベル。

 あるいは今日、安全確認をすると言って先に吊り橋を渡り始めた時のベル。


 今から振り返れば、彼女のオーラは、心のうちを雄弁に物語っていたじゃないか。なのに俺は……。


――なんて能天気だったんだ!


 板ガラスの製法をマクシムに漏らしたのがベルかもしれないということは、今日改めてベルの空気を観察していてなんとなく察しが付いた。

 ロープの真新しい切り口を見て、吊り橋を落としたのももしかすると……と。


 だから、ガラス工房で新しい製法の話を匂わせておけば、準備が整う前に恐らく探りを入れてくるだろうとも予想していた。

 来たら問い詰めてやろうと、俺も待ち構えていた。


 でも――。


「ごめんなざいっ……恩人にっ、ごんなごどじでじまっで……ほんどうに……申じ訳ねぇっす……もう、どうじだらいいが、わがらなぐでっ……」


 ベッドの上で泣き崩れるベルを前に、責めるような気持ちは吹き飛んでいた。

 ベルが本当に後悔していることは、エンパスじゃなくたって分かる。


 自棄、絶望、悔恨――。


 そんな感情がない混ぜとなった呻吟しんぎんの情動が、堰を切ったように流れ込んできて、ベルの姿がぼやけていく。

 俺の頬をぼろぼろと熱いものが伝い、気が付けば、少女の小さな肩を抱き寄せ、細い身体をギュッと抱きしめていた。


「いいからっ……もう、いいっ!」

「でもっ……自分……リン兄ぢゃんだぢにっ……どんでもねぇごどっ……」

「だから、それはもういい! 俺こそ、気づいてやれなくてごめん」


 くっそ! 何が〝昇華〟だ!?

 リーディングエアー?

 こんな時に、苦しみに気付いてやれなくて何のための加護スキルだよ!


「もう、クロンヌには行かなくていい」

「……え?」


 驚いたように俺を見上げ、濡れたまつげをしばたたかせるベル。

 不意に、小学生の頃の記憶が蘇る。父親から性暴力を受け、最後は自ら命を絶ったユキちゃんの面影が、ベルと重なる。


 俺はまた同じ過ちを繰り返そうとしていたのか?

 もう二度と、あんな思いは御免だっ!


「もう、マクシムには会わなくていい」

「で、でもっ……そんなことしたら……」

「大丈夫だ。こっちには次期領主様がいるんだぞ? いくらマクシムだってそうそう好き勝手はできないさ」

「でも……バカレット様じゃ……」

「そう言うな……。確かに彼女のおつむは多少残念ではあるが、人の上に立つ者として一番大切なココ・・を持ってる」


 俺は、拳で自分の胸をドンと叩いてみせる。


「それって、きょっ……」

「きょ?」

「巨乳っすか?」

「違うっ! ハートだハート! 器量だよ!」

「器量……」

「一緒に行動してみて、ベルも気付いてるんじゃないのか? あいつは、マクシムとは全然違う」

「そうかも……しれねぇっす。でも、それを期待して労働は放棄できねぇっす。ほどこしは、こちらから求めるものではねぇっす……」

「ベルの考えは立派だ。けど、マクシムがベルに課してきたのは労働でも何でもない、ただの搾取だ。自分の欲望のために洗脳し、隷属を求めていただけだ」

「洗脳……」

「労働ってのは、自分や周りの人の幸せのためにやるものだろ? ティコならきっと、与えるだけじゃなく、ベルみたいな子でも自立できる環境を考えてくれる」


 少し考え込むようにうつむき、そしてまた、顔を上げるベル。

 再び月に照らされたその表情は、心なしか少し晴れやかに見える。


「そうなんすね……バカレット様、名前のわりには意外と有能だったんすね」

「いや、そもそも名前もバカレットじゃないから……」

「でも、領主様が変わるまで、まだしばらくかかるんすよね? 先日納めた地代じゃ、せいぜい三ヶ月分っす。それまでに何とかしねえと、孤児院が……」


 当然俺も、この四日間で孤児院にも視察に回っていた。

 礼拝堂の付属施設という扱いらしいが、登記上は地代免除の教会関連施設とは別扱いらしい。


 管理しているのは、人の良さだけが取り得のような初老の修道女シスターで、育てられている孤児はベルを含めて七人。

 子供たちの、あばらの浮いた身体からは栄養状態の劣悪さがうかがえた。年長はベルで、中には五~六歳の子供もいる。


 そんな身寄りのない子供にマクシムは目を付け、自分の立場を利用して性欲の捌け口にしたのだ。心の底から唾棄すべき野郎だ!

 下手をすれば、第二第三のベルまで生み出しかねない。

 もうしばらく様子を見てからにするつもりだったが、こうなってはマクシムとの対決も急いだ方が良さそうだ。


「大丈夫。孤児院のことは、みんなで稼げる方法をちゃんと考えてある」

「み、みんなで?」

「ガラス工房で、鉄型を作るついでに一緒に取り寄せてもらった装置があっただろ? あれを使う」

「そう言えば……。あれって、なんなんすか? ……って、そんなこと、自分に教えてくれるわけないっすよね……」


 寂しそうに笑うベルの赤い髪を、ポンポンと撫でてやる。


「ばぁか。ベルを信用してないわけじゃない。もう、おまえがマクシムに内通するつもりがないことくらい、分かってるから」

「り、リン兄ちゃん……」

「俺にはそういうのが分かるから。ただ、装置のことについては明日のお楽しみ、ってことで」

「リン兄ちゃん!」


 纏っていた毛布を放り投げ、再び俺にし掛かってくる小麦色の痩躯そうく。ほんのりと甘酸っぱい、汗と女の香りがツンと鼻腔を刺激する。


「な、なんだ!? どうしたおい!?」

「やっぱり自分、リン兄ちゃんと同衾どうきんしたいっす!」

「やけに難しい言葉知ってんな!? 寝ただろもう!」

「そうじゃなくて、交尾って意味っす!」

「だ、だから、もうそう言うのはいいんだってば! これからはマクシムの言いなりにならなくても、俺たちがなんとか――」

「そうじゃねぇっす! 単純に、自分がリン兄ちゃんとそうなりたいんす!」

「待てってば! に、兄ちゃんと妹はそういうことしちゃいけないんだぞ!」

「じゃあ、今からリンくんでいいっす! リンくん、童貞なんすよね?」

「なぜそれを!?」

「ユユさんが言ってたっす」


――あいつ、俺のいない場所でなんて話を!


「この際なんで、自分が筆下ろししてあげるっす!」

「どの際だよ!?」

「アソコはすごく硬くなってるっすよ? やっぱり、自分じゃ魅力ないっすか?」

「いや、そういうことじゃなくてハウ~ン♡」


 右の乳首をいじられながら左の乳首に唇をわされて、思わず変な声が出てしまった。


――な、なんだこのテク!?


 再びユキちゃんとの記憶が頭を過ぎると同時に、下腹部が激しく熱を持つ。

 でもそれは、嫌な熱さではない。

 これって、素直に受け入れるべきなのか?

 童貞にとっては、ポアンカレ予想よりも難しい問題だ。


――や、ヤッちゃう? ……よし、ヤッちゃうぞ!? いいんだな?


 ベルの背中に両腕を回す。


――掵木燐太郎はばきりんたろう十六歳、今夜、遂に大人の階段を上ります!


「私は、はずしていた方がよろしいでしょうか?」

「……へ?」


 慌てて首だけを上げ、ベルの肩越しに入り口へ視線を向けると――。

 青白い月明かりの中、無表情のサトリがたたずんでいた。

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