02.親愛のハグ

「りゅ、硫化水素?」


 眉根を寄せて首を捻るユユ。


「うん。いわゆる、H2Sだよ」

「い、いや、全然いわゆれてねぇけど……。分かるように言え」

「ただの化学式だぞ? 高二なんだから知ってんだろ」

「ぶっ殺すぞ! そんなもん分かるわけ――」

「ああ、これ、あれだ! 温泉の匂いだ!」


 拍手かしわでを打って答えたのは澪緒みおの方だ。


「家族で旅行に行ったときに嗅いだことがあるよ。ミオがくさい臭い言ってたら、これが温泉の匂いなんだってお父さんが言ってた!」

「まあ、正確に言うと、温泉の匂いっていうより――」

「言わないで! 知ってる! え~っと、匂いの成分、なんて言うんだっけ……なんとかオウ……ラオウ?」

「我が生涯に一片の悔いなし! ……って、ラオウ違う!」


――思わずノリ突っ込んじまったぜ。


硫黄イオウだ硫黄」

「それそれ! へっへっへ~♪ けっこう賢いでしょ、ミオペディア♪」

「そうだな。賢い賢い……」


――ポンコツ辞典ペディアめ。


 正確に言えば硫 (S)単体は無毒無臭だ。水 (H)と結合することで独特の腐卵臭を発する硫化水素ガスとなるのだが、まあ、それはスルーしとくか。


――反抗期をこじらせると面倒だから、あまり刺激しないどこ。


「では、この匂いは体に悪いものではないんですの?」

「いや、高濃度で曝露ばくろすれば呼吸麻痺を起こして昏倒ノックダウン、皮膚粘膜への刺激でも、中長期的には気管支炎や肺水腫の原因になる」

「え? じゃあ、このまま進んでは危ないですの……」

「まあ、注意は必要だけど過度に警戒する必要もないだろう。高濃度や長期間の曝露が危険なのであって、ひらけた天然の硫黄泉ならそれほど危険はないはずだ」


 やはり〝黄泉の谷〟は、硫黄泉で間違いなさそうだ。

 硫化水素は嗅覚を麻痺させる作用もあり、高濃度でもすぐに匂いを感じなくなる。

 昔、そこで亡くなった人がいるというのは硫黄泉に不用意に近づいて中毒になったのではないだろうか。

 硫化水素ガスの空気に対する比重は1.1905……つまり、空気よりも重いため、くぼ地などでは高濃度になっている場合もあるのだ。


「みなさんの体調の変化は私がチェックしておきましょう」


 と、サトリ。

 観察眼でそんなこともできるのか。


「でも、エーテル練成系のスキルは、ユトリの許可がないと使えないって言ってなかった?」

「クランメンバーに対しては許可がでています。それに、ティコレット様に対しても仲間と同様に接するようにと命を受けております」

「そ、そうなんですの?」と、団栗眼どんぐりまなこでティコが振り返る。

「ゆ、ユトリさんがわたくしを仲間と……で、でも、それはそれ、これはこれですの! ライバル関係は解消できませんの! 勝負の勝ち逃げは許しませんの!」


 とは言うものの、言葉とは裏腹にかなり頬が緩んでいる。

 さきほどの弓の取り回しを見る限り、ティコも頭が残念なだけで、かなりの使い手のような気がするんだが……ユトリとはいったい何の勝負をしていたんだろう?


「それなら、ベルの体調もついでに……」


 と、サトリに頼んでみたが、それはあっさり断られた。与えられた権限以上のことを行うのは機械人形オートマタ三原則に反するらしい。

 俺たちの指示には臨機応変に従うよう命令されているようだが、それはあくまでもユトリの定めた禁則事項に抵触しない範囲で、ということなのだろう。

 

 さらに、水のない急勾配のV字渓谷を、一列になって上ること十数分。ついに、ゴウゴウと音を立て白い噴煙を上げる硫黄泉地帯を望める場所に出た。

 近づいてみると、真っ白な視界の中に鮮やかな黄色の結晶があちこちに浮かび上がってくる。


――硫黄の結晶か。


 行ったことはないが、硫黄泉で有名な北海道弟子屈てしかが町の硫黄山アトサヌプリも、きっとこんな光景に違いない。


「うわぁ――! すごい! 自然の神秘だね!」


 澪緒が歓声を上げる。

 無表情で皆を観察しているサトリ以外――ベルもティコもユユも、噴煙を見上げたり硫黄の結晶を眺めたりと、忙しく首を動かしながら絶景に固唾を飲んでいる。


「でも、お兄ちゃん……温泉はどこ?」

「そこかしこで沸いてんじゃん」と、俺が何箇所か指を差すと、

「こんな、割れ目からチョロチョロ出てるだけじゃ、温泉に浸かれないじゃん!」

「硫化水素ガスの話、聞いてなかったのか? ここじゃ危険で入れねぇよ。……って、危ねぇからあんまり遠くに行くなよ! あと、窪地には入るな!」

「わかってる~! ちょっとその辺、見てくるだけ~」


 湯煙の中へ消えて行く澪緒の後を、「お供します」と言って追うサトリ。

 彼女が付いていくなら大丈夫だろう。


 持って来た水温系で足元の湯温を測ってみると、七十度弱。温泉卵にはベストだが、直接入浴できるような温度じゃない。


「このお湯をなんとか麓まで引いて入浴施設を作れれば、プラスロー村も保養地としての価値が出るんじゃないのか?」

「入浴!? ちょっと待って欲しいですの! 地面から出てる、こんな変な匂いの白濁液を体にぶっかけるんですの!?」

「おい、言い方……」


 どうやらこの世界……少なくともベアトリクス王国では、温泉を入浴に利用するという習慣がないらしい。

 上下水道が発達しているので、入浴はもっぱら水をボイラーで沸かして浴槽に貯め、浴室や浴槽の保温は暖房設備ハイポコーストによって行われている。

 つまり、お金のある貴族にしか許されていない贅沢と言っていい。


「白濁しているのは硫黄化合物の粒子のせいさ。硫黄泉は殺菌効果が高いから皮膚病に効くし、糖尿病や高血圧といった生活習慣病、そして……」


 俺は、興味深げに話を聞いている隣のティコへ顔を向け直し、


「動脈硬化にも効く」

「……え? で、では、お母様の病気にも……」

「うん。お母さんの病の原因は分からないし、完治するかどうかも分からない。けれど、血管が硬くなるという症状から見て、硫黄泉なら良い療養になるはずだ」

「そ、それはすばらしいですの! リンタローさん!」

「ブギュッ! ……こ、こら……抱きつくな……」

「親愛のハグですの!」

「は、ハグはハグでも……これじゃベアハッグ……ぐぐぐ……」


 澪緒が別次元なだけで、ティコだって相当なパワーの持ち主だ。

 俺の呼吸が弱くなってきたのを見て、


「てぃ、ティコリーヌさんっ! リン兄ちゃんの顔色が、や、ヤバいっす!」


 慌ててベルが引き離してくれる。

 母親の療養に役立つかもと聞いて一気にテンションが上がったようだが……一瞬、三途の川が見えたぞ、この脳筋シスターが!

 ベルも、もうちょっと早く助けてくれよ!


「でもさ、お湯を引くって言ってもさ……」


 今度は、俺とティコの会話を聞いていたユユが口を挟む。


「村までどうやって引くんだ? 途中の崖から村まではずっと上りだよな? お湯ってのは、高いところから低いところに流れるもんじゃねえの?」

「うん。お湯を引き上げる手がないわけじゃないが、もっと簡単な方法がある」

「簡単な方法?」

「発想の転換だよ。途中の崖までは下りだから、そこに温泉施設を作ればいい」

「すばらしい発想の転換ですの! リンタローさん!」

「ブギュッ! ……だ、だから、いちいち抱きつくな!」

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