第四話 赤毛の少女

01.トラウマ(前編)

 小学生のころ、同じマンションにマエザワユキナという同級生の女子が住んでいた。

 学校や近所の友だちからは「ユキちゃん、ユキちゃん」と呼ばれていたので、俺もいつのころからか〝ユキ〟と略称で呼ぶようになっていた。


 保育園は別だったため一緒に遊ぶようになったのは小学校へ通い始めてからだったが、お互いにゲームや漫画が好きだったこともあり、気が合った。

 おかっぱで色白の、ちょっと大人びた可愛らしい子だった。理屈っぽい俺の話を、いつもニコニコしながら聞いてくれたことも嬉しかった。


 共感質エンパスのせいで感情の起伏の激しい小学生は苦手だったが、いつも穏やかな彼女と過ごしている時間はすごくリラックスできていたことを覚えている。


 ところが、五年生になって間もなく、ユキが纏う空気に変化が見え始めた。

 曇りのない、明るく爽やかだったユキのオーラの中に、何とも言えない妙な暗さが少しずつ混ざるようになっていったのだ。


 原因はすぐに分かった。

 ユキの両親が離婚して母親が出て行ったのだと、俺の両親が話しているのを聞いて、ユキの気持ちも沈んでいるのだろうと子供心に理解した。


 少なくとも表面上はユキに変化はなかったし、俺も今までと変わらず普段通りに接していけばいい。

 最近は片親の家庭なんて珍しくもないし、そのうちまた、元気な彼女に戻ってくれるだろう……と、そんな風に思っていた。


 五年生の夏休みも中盤に入ったころ——。


 ある晴れた暑い日のことだった。都心のマンションとは言え、俺の自宅がある三階は蝉の鳴き声もよく聞こえた。

 そんな中、いつものようにユキが俺の部屋に遊びにきていた。


 ユキの両親が離婚してからは、『散らかっているから』と言う理由で彼女の自宅には呼ばれなくなり、二人で遊ぶ時はもっぱら俺の部屋ばかりになっていた。


「あ~、あっつぅ~……。ユキ、大丈夫?」

「なにが?」

「だって、扇風機だけじゃ暑くない? タブレット持って、リビングにいく?」


 最近は、wi-fi環境さえあれば高価なゲーム機よりも手軽だということで、子供に安価なタブレットを買い与えている親も多くなっていた。

 ユキが腹ばいの体勢のまま、対戦が終わったタブレット画面から視線を上げる。


「どうして?」


 薄水色のノースリーブの襟元から覗いた、わずかに膨らみを暗示させる少女の胸に、俺はなぜかドキドキして思わず目を逸らした。


「り、リビングならクーラーあるし……親もいると思うけどさ」

「わたしは別に、平気だけど……」

「そ、そう? それなら、別にいいんだけど……。じゃあ、もう一戦する?」

「…………」


 少しの間、黙って俺を見つめていたユキが、不意にタブレットを横に置いてゆっくりと身体を持ち上げ、四つん這いのまま近づいてきた。

 ユキの青味がかったミディアムボブは、しなやかに歩くロシアンブルーを連想させた。彼女の綺麗な顔が、ゆっくりと、確実に俺の顔へ近づいてくる。


「ゆ……ユキ?」


 互いの口元に息がかかるほどの距離になり、さらに、なんの躊躇ためらいもなく自らの唇を俺の唇に重ねるユキ。


 初めてのキスだった。


 脳天に電気を落とされたような衝撃と、狂おしく甘美な恍惚こうこつ

 ユキは柔らかな花唇かしんを俺の唇の上で二三度弾ませ、口元が緩んだ隙を突いて舌を差し込んできた。


 そこでようやく我に返った俺は、ユキの両肩を掴んで押し返す。


「ゆ、ユキ! な、なに? どうしたの!?」


 俺のかすれた声を聞いて、ユキはクスリと笑い、


「リンくん、初めて?」


 そう言いながら、俺の下半身に右手を伸ばしてきた。

 さらに——。


「……リンくんのここ、固くなってる」と、熱っぽく囁く少女。

「ご、ごめん……お、おしっこ、出そうなのかも……」

「おしっこ? さっき、トイレにいったばかりじゃない」

「そ、そっか……じゃあ、なんでだろう……」

「これ、違うよ? おしっこじゃないんだよ」

「な、なんでユキがそんなこと……」

「わたし、出し方、知ってるよ。やって……あげようか?」


 そう言いながら、まるで俺の身体に吐息を這わせるようにして、下半身へ向かって頭を下げていくユキ。


 そんな時、今風のラノベなら、男子主人公が『ちょっと待て~!』とか『何すんだユキ~!』なんて、わざとらしく動揺するところだろう。

 でも、実際は、暑さ以外の何かでカラカラに渇いた喉から、声なんて思うように出てこない。聞こえてくるのは二人の息遣いと、蝉の鳴き声くらい……。


 固まっている俺に気付いたユキが、少しだけ上目遣いで俺の様子を確かめると、


「大丈夫……全部やってあげるから……リンくんはじっとしてるだけでいいの」

「じ、じっとって……いったい何する気……」

「すぐにわかるよ。それが終わったらわたしも……リセットできる気がするの」

「リセット? げ、ゲームじゃあるまいし何の話だよ? 他の人とも、こんなことしてんの!?」


 あまりに逡巡のないユキの言動に促されて、先ほどまでの反動なのか、俺も饒舌になっていた。何かに流されかけながら、必死に踏み止まろうとしているかのように。

 一瞬固まったあと、ユキの後ろ頭がこくん、と縦に振れた。


 刹那——。


 俺の中で、得体の知れない何かが弾けた。

 俺は思わずユキを突き飛ばしていた。


「きゃっ!」

「や、やめろっ!」

「……り、リンくん、どうしたの?」


 何をされようとしていたのかも分からなかったが、とにかく、おぞましかった。

 何だか無性に悔しくて、切なくて……初めて味わう喪失感に、俺は理性を失った。


「他のヤツとやってるようなこと、俺にすんなっ! 気持ちわりぃ——んだよ!」

「リン……くん……」


 直後、ユキの全身から溢れるように滲み出てくる漆黒のオーラ。

 それは死神の抱擁のように、彼女に取り憑き、その短躯を不吉な色に染める。


「そっか……そうだよね。気持ち……悪いよね……」


 何て答えればいいのか分からず黙って見つめていると、やがてユキは立ち上がり、


「今日は……帰るね……」


 そう言って寂しそうに笑い、部屋を出て行った。

 何も言えずにユキを見送ったあとも、俺はしばらくの間、ぼおっと彼女の唇の感触を思い出していた。


 そのまま、一分か……或いは、五分か十分か……どれくらいの時間が経ったのかは分からないが、再び聞こえてきた蝉の鳴き声で我に返った。

 同時に、ユキが最後に見せた瘴気のようなオーラを思い出して、とてつもなく悪い予感に襲われた。


——すぐに、追いかけて謝った方がいいんじゃ……。


 そう頭では理解していても、ムカムカとした気持ちがそれを邪魔する。


——ユキ……あんなことを、他の男子ともやってたなんて……。


 やり場の無い憤りの感情が、次から次へと湧き上がってきた。

 今振り返れば、ユキが俺の初恋の女の子だったのかもしれない。


 そうだ……タブレットを忘れて行ってるし、後から取りにくるだろう。

 その時にでも仲直りすればいいや。


 俺はそう考えて、ユキが見せた瘴気のようなオーラのことを頭から無理やり振り払った。

 しかし、俺が彼女を見たのはその日が最後となった。


 翌朝俺は、ユキが十階の自宅マンションから飛び降りて命を絶ったことを知った。

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