01.これは……夢?

——あれ?


 新緑の木立の間を縫って流れる爽やかな薫風が、俺の前髪を撫でつける。


——どこだ……ここ?


 周囲を取り囲む、森——。


 とは言っても、木々の間隔はさほど狭くはなく、やすやすと足元に届いた葉漏れ日が光彩陸離こうさいりくりの幻想的な風景を描き出している。一般的には〝林〟と表現する人の方が多いかもしれない。

 しかし、農林水産省による〝林〟の定義は〝人工的に作られた樹木の密集地〟を指す。今、俺の周囲に広がっているのはどう見ても天然の・・・それだ。


——つまり、森。


 大丈夫、林と森の区別がつく俺の脳は、きっと正常。

 でも、だとしたらなおさら、ここは一体……。


 休日の今日、ゲーメイト渋谷店で買い物をしてから、コンビニに寄って留め置きの荷物を受け取り、そのまま渋谷駅に向かって五十メートルほど移動したところまでは覚えている。

 しかし、そこでプッツリと記憶が途絶えて気がつけば今のこの状況。


 私立柳秀りゅうしゅう学園、二年A組、出席番号二十一番、掵木燐太郎はばきりんたろう、十六歳。

 十二月五日生まれ、血液型はRh+AB。

 身長百七十五センチ、体重六十三キロ、視力は両目裸眼で一.五。

 黒髪短髪のシャープマッシュ。

 切れ長のまなじりとめったに笑わない表情のせいか、いたって普通にしているつもりでも眼つきが怖いとよく言われる。

 趣味は読書とMMORPG。

 好きな女性のタイプは、知的で気遣いのできる優しい和風美人。


——大丈夫、海馬かいばも正常。だとしたら、これは……夢?


 そう考えた直後、左右に首を振る。

 肌に触れる制服の感触と澄んだ大気、鼻腔に流れ込む葉と土の匂い、鼓膜をくすぐる鳥のさえずり……五感を刺激するすべての感覚質クオリアが、これが夢でないことを物語っている。


——夢と現実の区別くらいはつく!


 しかし、俺の知っている現実の延長線上には決してあり得ない謎展開。

 コンビニを出てからここに来るまでの間に何が起こった?

 

 気がついたら俺はここに立っていた・・・・・

 仮に意識を失い、何者かによってここまで運ばれたのだとすれば、直立姿勢でいたことの説明がつかない。


 また、歩いている途中で何かの拍子に、そう、例えば神隠しのようなものに巻き込まれたのだとしたら、気がついた時も歩行状態を維持していたはずだ。

 しかし俺は、気がついたらここにボ~ッと直立していた。


 無いのだ。

 記憶と現状との連続性が。

 コンビニを出て五十メートル移動した地点からここへ到達するまでの記憶が何らかの理由で欠落している。


——健忘アムネジア


 自分の名前を覚えていることから、解離性全健忘の可能性は低い。

 外傷もない。となれば……。


——TAG(一過性全健忘)か?


 TAGならば、通常は二十四時間以内に回復しているはずだ。


——そうだ、時間! どれくらい時間が経っている!?


 急いで制服のポケットを探ってみると……。


——あった! スマートフォン!


 取り出して電源を入れると、アナログデザインのデジタル時計は午後一時三十五分を指し示していた。

 ゲーメイトを出たのが十二時五十分頃。

 そこからコンビニまで正味約五分。途中、信号もない。

 コンビニで四分ほど滞在し、その後、五十メートル移動するのに約一分かかったとすれば……。


 俺の記憶が途切れたのは、十三時頃ということになる。

 つまり、記憶が欠落している時間は約三十三分間だ。


 それほど長い時間じゃないと知って安堵すると同時に、四半時しはんとき程度で周囲の状況がこれほど激変するような出来事とはなんなのか、思案に暮れる。


 スマホは圏外。

 当然ネットも繋がらない。

 あの状態からたった三十三分で、日本はおろか東京から出られるかどうかすら怪しいのに、どうやって電波の届かないような場所まで移動できる?

 それとも、まさか電波妨害?


 ふと気がつくと、足元にウエストポーチのような鞄が転がっている。

 なめし皮のような材質。男子高生が持つには古風で素朴アルカイックに過ぎるデザインだし、記憶が正しければ俺の所有物でもない。


——誰の?


 拾い上げようと手を伸ばしかけて、動きを止める。

 今朝の、都知事宛に届いた小包爆弾のニュースを思い出したからだ。

 内部がくりぬかれた新刊書に爆薬と起爆装置が入っており、表紙を開くと爆発する仕掛けだったらしい。

 知事は無事だったが、検閲の担当者が指を怪我したとの内容だった。


 こんな訳のわからない状況でこれみよがしに置いてある謎の荷物に、迂闊に飛びついていいものだろうか?

 何かしらのトラップである可能性も否定できない。


——いや、まてまて。誰も俺なんて狙わんだろ。


 ……とは思ったが、とりあえずもう少し周囲の状況を確認してみてからでも遅くはないか。 

 そう考えた次の瞬間、背後でガサガサと草木の擦れ合う音がした。


——獣!?


 ここが日本だと仮定すれば、もっとも警戒すべき野生動物は〝熊〟だ。

 慌てて身体ごと振り返る。と同時に、腰を落として低く構えた。

 防御姿勢。

 素早く周囲に目配せするが、武器になりそうな物はない。

 逃げるとしても、野生動物相手に背中を見せるのは浅はか。狂態。愚の骨頂!


 どうか小動物であってくれ……と祈りながら、揺れるカゼクサの茂みから視線を外さないよう、ゆっくりと左足を一歩退いた、そのとき。


「あ! お兄ちゃん!」


 茂みの中から、大きな木の枝でカゼクサを薙ぎ倒しながら現れたのは……。


「誰だ、おまえ?」

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