愛書

深川夏眠

愛書

 困難な冒険の中でもが決して手放さなかったというのは一体どんな本だったろう……と、彼は想像してみた。

 そこまで惚れ込める書物があるとは羨ましいことだ。

 本を読みたい、学びたい、もっと賢くなりたい、だが、機会に恵まれない。親から受け継いだものと言えば、価値があるのかどうかわからない、コインのような石くれが入った守り袋だけ。

 彼は己の境遇を呪った。


 だが、捨てる神あれば拾う神あり。

 彼はアルバイトの最中、暇を持て余した富豪に気に入られ、養子という名の侍童になった。

 猛勉強し、知恵をつけた彼は、悪魔と契約を交わしたのか――なるほど、いつの間にやら、あのお守りは消え失せており――養父を殺して地位と財産を我が物にした。

 そして、望みどおり稀覯本を山ほど買っては浴びるように読む書痴と化した。


 さて、金と名誉を手に入れたら、次は慈善だ。病院や学校や恵まれない人を救済する施設を次々に作っては従業員を雇い、世間の称賛の的となったが、天網恢恢てんもうかいかいにして漏らさず。

 捜査の目をい潜った彼は、僅かな旅具にたった一冊、に大枚をはたいて探させた、N卿が愛蔵していたのと同じ本を忍ばせ、今、優雅に客船のデッキチェアに寝そべってページを繰っているのだった。

 おや、プロムナードが騒がしい。野次馬の声によれば、誰かが突然倒れ、絶命したとか。様子を窺うと、船客の中に名警部、スコットランドヤードの氏。

 本人か、偽者か――いずれにしろ容赦なく鋭い推理を披露するに違いなく、彼は身の危険を感じて冷や汗を拭うのだった。



                  【了】



◆ 2019年9月書き下ろし。

 縦書き版はRomancer『掌編 -Short Short Stories-』にて

 無料でお読みいただけます。

 https://romancer.voyager.co.jp/?p=116877&post_type=rmcposts

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愛書 深川夏眠 @fukagawanatsumi

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