食堂
蛙鳴未明
食堂
深夜、町外れの古びた小さな食堂の前に、男女の二人連れが立ち止まった。男がレディーファーストとばかりに扉を大きく引き開ける。だが女は澄んだ青い瞳を曇らせて中に入るのをためらっている。彼女は深夜にものを食べることにあまり乗り気ではないらしい。男に先に入るよう促されても中々入ろうとしない。
男はやれやれと首を振り、先に店内に入って扉を押さえて女に手招きした。渋々といった感じで女が食堂に足を踏み入れる。二人は腕を組んで食堂の奥へ進んでいった。
扉がひとりでにゆっくりと閉まり、かちゃりと微かな音を立てる。よく手入れしてある錠はその程度の音しか立てないものだ。
店内では男が女に何やらささやきながら窓際の席に向かっていく。
話を聞いた時にはあんなに行きたがってたのになんで今更気後れしているんだ。あのフィッシュさんの紹介なんだぞ。何を気にすることがあるんだ。
二人が席に着いた。女が俯いて弱々しく呟く。
嫌な予感がするのよ、なんとなく。
ウェイターがお盆を持ってやってきた。二人のお客に素早く目を走らせるとうやうやしくお辞儀をして、うやうやしく口を開く。
フィッシュ様よりお話は伺っております。少々準備にお時間が掛かりますのでこちらのお茶をお飲みになってお待ちください。
そう言ってウェイターは湯気を立てている紅茶をテーブルに置いて去っていった。女が不安を紛らわすように熱い紅茶を一口飲んだ。ティーカップがテーブルに置かれるやいなや、男が身振り手振りも交えて力説し始める。
ほら見たか?あの丁寧なウェイター!何から何まで完璧だった!あんなに優秀なウェイターがいるここが変な所な訳無いだろう?安心しろって、何も心配することは無いさ。嫌な予感なんて気のせいだよ。窓の外を見てごらんよ、池に満月が映ってとても奇麗じゃないか!
女は窓の方など見向きもせず紅茶を口にしぽつりと呟く。
気のせいなんかじゃないわ。
男は諦めたように背もたれに寄りかかった。ふと閃いて身を乗り出す。
分かった!君は深夜にモノを食べて太るのが嫌なんだろう?!そんなのは心配いらないよ、君の美しさは多少太っても変わらないさ!
紅茶を飲み干すと女は男を睨みつけた。
……そんなんじゃないわよ。
彼女は席を立ちせかせかとトイレに行ってしまった。男は呆気にとられてまたゆっくりと背もたれに寄りかかり、ゆっくりと紅茶を口に運ぶ。とてもおいしいお茶だった。なんだか意識がふわふわと飛んでいきそうになる。男は虹色の夢を追いかけ始めた。
ふと我に返るとウェイターがテーブルの脇に立っていた。ウェイターのそば、大きなワゴンの上にはたくさんの肉料理が所狭しと並んでいる。漂う食欲をそそる匂いに意識が完全に覚醒した。唾液が湧き出てくる。ウェイターがうやうやしくお辞儀をした。
大変長らくお待たせいたしました。本日のスペシャルミートコースでございます。
そう言って料理の皿を男の前に並べていく。ミートパイ、ソテー、シチュー、ロースト、蒸し焼き、スープ。その魅惑的な光景に男はよだれが止まらない。完全に料理にしか意識が向いていない。
だから料理に必ず肉が入っていることにも疑念を抱かなかったし、カトラリーが一人分しか並べられなかった不自然さにもウェイターに注がれた「赤ワイン」が妙にドロッとしていることにも気づかなかった。
男はナプキンをすると大口を開けて夢中になって肉を頬張り始めた。今までで一番旨い肉だった。この肉に「赤ワイン」が猛烈に合った。肉を食べた後に赤ワインを飲むと、異常な陶酔感に襲われた。
そんな男の様子を眺めてニヤリと笑うと、ウェイターはうやうやしくお辞儀をして一時間後にデザートを持ってくる旨を伝えテーブルを離れた。
もちろん料理に夢中になっている男はそれに気付かない。男は食べに食べて食べ続けた。ひたすら食べた。時折「赤ワイン」を注ぎ足した。彼は窓の外の池に「赤ワイン」が滴る何かの残骸を詰めた袋が投げ込まれたことに気づかなかった。恋人がいつまでたっても戻ってこないことに疑念を抱かなかった。
一時間後、空の皿を前に腹をさすっている彼のもとにウェイターが戻ってきた。手にはドームカバーが被せられた皿を乗せている。彼は男に近づくと、薄ら笑いを浮かべながらドームカバーを取り去った。
本日のデザート、ゼリー寄せでございます。
男は硬直しゼリーに目を釘付けにした。あまりのショックで充血した彼の眼を、澄んだ青い瞳が静かに見つめ返した。
食堂 蛙鳴未明 @ttyy
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