第5話
雨。
この地域では珍しいほどまとまった雨が降っていた。
木々に降り注ぐ雨。
心なしか緑の色が濃くなったように見える。
その様子を窓越しに見ながら、ハイスクールのカフェテリアにバーンはいた。
一番奥にある席にぽつんとひとり座って、ただ外を眺めていた。
彼の周りには誰もいなかった。
次から次から水滴が窓ガラスを伝って流れていく。
透明な水滴が何もかもきれいに浄化して洗い流していくように。
「……」
どのくらいそこから外を眺めていただろうか。入り口にラティが立っていた。
雨に濡れた傘を畳みながら、彼女はカフェテリアの中をぐるりと見渡した。いつもよく話す同じクラスの友達の姿が目に付いた。ちょうどカフェテリアの中央に陣取っていた。
一番奥にいるバーンには気がつかなかった。傘立てに水色の傘を立て掛けると彼女らのそばへと歩み寄った。
「Hi!マリア、スーザン。一緒にいいかしら?」
「あら、ラティ。実行委員の仕事はもう終わり?」
「ええ」
そう言いながら、荷物を置き、腰を下ろした。
「よく、あなたも次から次へと仕事をこなすもんね」
「本当にね。大変じゃない?」
「あら、やってみると結構楽しいものよ。これも性分だから」
ラティは笑ってバッグから財布を取り出すと再び立ち上がった。
「ちょっと、ジュースを買ってくるわ」
ドリンク・バーの方へ歩いていこうとした時、彼女はようやくこの場所にバーンがいることに気がついた。それを知ると表情が明るくなった。まだバーンの方は彼女の存在を認識していなかった。外を眺めたままだ。ラティは彼のいる方へ近づいていった。
そして、彼の正面に立つと静かに声をかけた。
「バーン」
その声にようやくバーンは窓の方からカフェテリアの中へ視線を戻した。
そして驚いた顔をした。
「ラティ……」
そんな顔を彼女に見られるのはいやだった。無表情の彼に戻った。いつものバーンに。
「ごめん。ここにいるって気がつかなかった。わかってたらこっちに来たのに」
ちょっと残念そうにラティは言った。
バーンは何も言わなかった。彼女がそばに来ても関心がなさそうな素振りを見せた。
と、急にバーンは椅子から立ち上がった。その拍子にテーブルの上に置いてあった紙コップに入った飲みかけのコーヒーがひっくり返ってしまった。
「?」
ラティはそのバーンの様子に驚いた。彼の顔色がみるみる青ざめていく。視線は彼女の後ろを見ていた。ある一点を。
何が起こったのか飲み込めないまま、ラティは彼の名を呼ぶしかなかった。
「バーン?」
バーンはうつむいて、前髪で両眼を隠すと唇を噛み締めた。腕も肩も、体も小刻みに震えていた。様子のおかしい彼に、ラティはもっとそばへ行こうとした。その時。
「!」
バーンはすごい勢いで、ラティの横を走り抜けるようにして立ち去った。
「ちょ、ちょっとバーン!? バーンったら?」
振り返りながら彼の背中をただ見送るしかなかった。バーンは何も持たずに雨の降りしきる中を走って出て入ってしまった。
ただ事ではない様子にラティはその原因を探した。今まで普通だった彼を変えたものとは?
カフェテリアの中を見回す。バーンは自分の背後に視線を向けたあとおかしくなった。
後ろにあるもの、それは。テーブルの3列先にあるカフェテリア専用のテレビが高い台座の上に置かれてある。CNN放送が24時間ニュースを流している。今、流れているニュースは中東で爆弾テロがあったというニュースだった。
「まさか…」
ラティもあることに気がついた。バーンがあれだけ取り乱した理由を。
彼女はテーブルに残されたバーンのバックを抱えると大急ぎで自分の席へ戻り、荷物をまとめた。
「ラティ、どうしちゃったのよ。
一部始終を見ていたスーザンは何事かという感じだった。
「ごめん、スーザン。私、彼のあとを追うわ」
「ほっときなさいよ。関わりあってるとロクなことないわよ」
「そうよ」
マリアも同じ意見だった。バーンに関わらない。これはこの学校では暗黙の了解。何人これで怪我をしたり、死んでしまったのか。
それを聞いて、ラティは如実に不愉快な顔をした。
だが、反論する時間も惜しかったので何も答えないで彼女もカフェテリアをあとにした。
白い壁と青い屋根の二階建ての家。ここがバーンに自宅。とりあえずこの場所から探し始めようと彼女は思っていた。学校から飛び出していった彼が行く場所は限られている。
(バーン……)
ラティは確信していた。バーンはあのニュースで兄アレックスの『死』を予感してしまったのだということが。今、彼は中東へ取材に行っている。もしかしたら、彼は。
彼女のそんな考えを追い払うかのように、どんどん歩いていった。ラティは差していた傘を畳んだ。玄関の周りはテラスになっていて幅は狭いが屋根がかかっている。
その木のテラスの上をよく見ると玄関ドアに向かって濡れたあとが続いていた。
(よかった。戻ってきてる)
半分ほっとしながらも、彼の顔を見るまでは安心できなかった。傘を壁際に立て掛けると、ドアをノックした。
「バーン。私よ。ラシス」
中からの返事はなかった。もう一度、気を取り直してノックする。
「いるんでしょう?」
やはり返事はない。ノブを回すと鍵はかけられていなかった。そうっとドアを開けて、家の中に入った。人がいる気配はしなかった。あたりをキョロキョロしながら、静かにドアを閉めた。ようやくラティは安堵のため息をついた。
入って左手の書棚の前で彼は床に座り込んで、突っ伏していた。やわらかい金髪や濡れた衣類から水滴がポタポタと落ち、床に水溜まりを作っていた。
「バーン」
「来るなっ!!」
彼女がドアの前から一歩を踏みだそうとした瞬間、バーンの叫びにも似た声が部屋の中に響いた。ラティは一瞬、身体をこわばらせた。
「俺に…構うな!」
「ん。すぐ、帰る」
そう言うと持っていた彼のバッグをソファの上に置いた。
「でも、その前にタオルくらいかけさせて。」
ラシスはダイニングの奥にあるバスルームに向かった。彼女の足音がまた近づいてくる。バーンの前にしゃがみ込んだ。ふわっとやわらかいものが彼の頭から背中を覆った。バスタオルが彼の身体を包んだ。ラティの想いがうれしい反面、恐怖の思いも芽生えつつあった。バーンはあの思いに支配された。
『自分に関わった人間は死んでしまう』という思いに。
このまま彼女と関わっていたら、次に死ぬのは彼女ではないか!?という思いに。
「このままでいたら、風邪ひくわ」
「……」
「ね、バーン?」
「……」
何も答えられなかった。バーンは兄の『死』を予感していた。
兄が長期滞在をしていた取材拠点のホテルで自爆テロがあったというニュース。それを見てしまった自分。そのことを知ってしまった自分。これをどう解釈したらいいのだろう?
(兄さん。俺が死ねば、兄さんは帰ってくるのか…?死ぬ…。誰も彼もみんな。
俺は何のために生きてる? 何のために…生かされている!?なぜ?)
いつもいつも、『死』は突然彼の前に現れ、自分の愛するものを奪っていった。なぜか『死』は自分と共にあるのだ。自分のすぐそばに。有無を言わさず。
(次は、もし、このままいったら次は本当に……君かもしれない。俺は?一体どうしたら…)
だが、彼女だけはどうしても『死の翼』から護りたかった。例え自分が嫌われようとなんだろうと。ずっと黙り込むバーンにラティは意を決したように話しかけた。
「信じようよ、バーン。アレックスがあなたとの『約束』をやぶるわけないもの」
「!?」
バーンはその言葉に思わず顔を上げてしまった。
「『絶対に死なない』ってそう『約束』したんでしょう?」
ちょっと悲しそうな何とも言えない憂えを帯びた目で彼女はバーンを見ていた。
『約束』
(どうして、君が俺と兄さんの『約束』を?)
驚いた顔のまま言葉が出てこなかった。ラティはバーンを元気づけるかのように笑顔を見せた。
「大丈夫。必ず帰ってくるわ」
彼は唇を噛み締めたまま、そんな彼女の顔を見ていた。その笑顔が急に曇った。
うつむきながら、ラティはアレックスと交わした会話を思い出していた。
「今まで黙ってて、ごめんね。私、」
「……」
「アレックスと会ってた」
ラティは着けていた銀のネックレスを手で押さえながら言った。バーンもそれを見てすべてを悟った。
「会って、話をしたことがあるの」
「……」
バーンは急に立ち上がった。
「バーン!?」
かけていたバスタオルが床に飛ぶように落ちた。彼女は後ろからすがるように、止めるように彼の両肩に手をかけようとした。が、その手をバーンは乱暴に振り払った。
「ラティ、帰ってくれ。そして、もうここには来るな」
そして、ドアのところへ行って、扉を開けた。外の雨はさらに強さを増していた。
「バーン」
「もうこれ以上…俺に関わらないでくれ」
(君だけは死なせたくなかった……)
「どうして?」
ラティは信じられないといった表情で彼を見ていた。なぜ彼がそんなことを言うのか理解できなかった。
「あなたが悪いんじゃない。あなたが苦しむことじゃないわ!」
(悪いのはきっと…俺。君を苦しめたくなかった…)
叫ぶように話すラティの顔をバーンは表情を変えずに見つめていた。
「どうして?そんな顔をするの?感情を押し殺す必要なんてないのよっ」
(君を傷つけることしか…できなかった…)
「つらかったら泣けばいい!苦しかったら誰かを頼っていいのよ!」
(君を巻き込みたく……なかったんだ)
「人はひとりで生きていくんじゃないわ」
(君を離さなかったら……俺は!?)
長い長い沈黙を破って、バーンはぽつりと言葉を口にした。無表情のままで、じっと彼女の顔を見据えたまま。平然とした口調で。
「ひとりでいることには慣れてる……」
そう言うと彼女から視線を外した。
「バーン!」
無理矢理力尽くでラティを外に押し出して、ドアを閉めた。バーンはドアにもたれかかりながら、ズルズルとまた力無く床に腰を下ろした。そのままひざを抱え、うつ伏した。ラティはそんな様子を知っているのか、ドアを見つめたままただ心配そうにそこに立ちつくしていた。
降り続く雨の音が一層強くなっていた。
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