第3話

やわらかな陽射しが差し込む、よく整理された部屋。その入り口のドアにひとりの男が寄りかかっていた。火をつけたLucky Strikeを口にくわえながら、彼の寝顔をまじまじと見つめていた。

遠くで水音が聞こえる。勢いよく出た水がタイルに跳ね返る音。それは階下にあるバスルームからのものだった。

男は煙草を吸いながら、バスルームへ向かうと出しっぱなしになっているシャワーを止めた。白い湯気が次々と煙草の煙と混じって消えていった。

「しようがねえな」

ぼそっとそう言うと、また階段を上り彼のいる部屋へと戻ってきた。くわえていた煙草を右手に持ちかえると、手首を返すように左手でドアを叩いた。

コンコン。

そのノックする音でバーンは目が覚めた。目を開けると、ベッドにうつ伏せになっていた。

まるで何かを離すまいとするように左手がグレイのシーツを握りしめていた。

(夢!? ラティは?)

「おーい、そこの眠り姫さん。」

「!」

驚いて上半身を起こし、声のする方向を見た。

「ったく、うたた寝するくらいなら、シャワー、止めとけよ。」

「兄さん…!?」

バーンは目を疑った。

「急に会いたくなってきてみれば、午睡の真っ最中だったわけだな」

彼の5才年上の兄、アレックスが立っていた。

「なんで、」

「NYにいたんじゃないかってか」

「……」

「かわいい弟に会いに来るのに理由がいるのかよ。」

「……」

バーンは起きあがってベッドに座りなおした。ふっと、アレックスは笑った。弟を見つめる目は、優しかった。

「思ったより元気そうだな。顔色もいいし。何かいいことでもあったか?」

「……」

「……」

「……」

どうもいつもと様子が違うので気になった。

「ん?」

「…そんなに顔に出ているかな?」足元を見ながらバーンが言った。

「モロ。こんな雰囲気今までにないぜ。いい顔つきだ。そんな顔、初めて見たよ、俺は」

ちょっとからかうようにアレックスが言った。が、バーンは真剣な顔で切り出した。

「兄さん、俺、」

「うん?」

長い沈黙の後、なにかを決意したように口を開いた。本当ならアレックスにも話したいくない。それでもそれを話さなければならないような気がしていた。

「……初めて、人を好きになったかもしれない。」

一瞬、言葉を失った。

「お前、」アレックスは、予想はしていたようだが驚いた顔をした。

「彼女、『右眼』のことも知ってるのか?」

バーンはこくっと、うなずいた。

「承知の上。」

アレックスはベッドの横にあるイスに、背もたれに両腕を組むようにして置きながら座った。煙草の火を灰皿で消すと、静かにこう言った。

「そうか。よかったな。これでやっと一人前かな? 」

「……」

「俺も思い残さず仕事に行ける」

「仕事?」

「これから、でかい仕事で本国を離れる予定なんだ。中東…主にパレスチナのあたりを取材してくる。そうだな1年くらいは帰ってこれないかもな」

不安そうな表情で兄をただじっと見つめていた。

「……」

「生活費のことは心配いらないぜ。レニにいってあるから。毎月の給料がそのままお前の口座に転送されるようにしてあるから、今までと同じようにしろ」

「……」

バーンは黙りこくっていた。やはりアレックスには言わない方がよかったのではないかと思いながら。両親を亡くして以来、兄はバーンの学費を稼ぐためにNYでジャーナリストのまねごとをしていた。NYとLA、東海岸と西海岸に分かれて暮らすようになってから5年が経過していた。本当にこうやって思いだしたようにしか会いに来ることのない兄。

昔から自分の秘密を知っていながら、陰になり日なたになりかばってくれた兄。

本当に仲のよい兄弟だった。

(そんな兄さんを……俺は裏切ったんだ。もう、誰も死んでほしくなかったんだ。

俺のために…俺は…?)

「正直な話、驚いた」

安堵のような、何とも言えない表情でバーンを見ていた。

「そうか、好きなやつができたか」

「……」

バーンは前髪で両眼をアレックスから隠していた。

「まだ、本当に好きかどうかは…」

「わからない、か。」

本当のことを言い当てられてまた閉口してしまった。他人を遠ざけるようになって久しいバーンが、自分以外の人間に興味を持ったことをアレックスはちょっと喜んでいた。きっと初めて生まれたこの感情を理解できずにいるのだと思っていた。

「また、拒絶されるのが怖いのか?」

「ちがう」

「何かの拍子に『力』が発動して自分から離れていってしまうんじゃないかと思っているのか?」

「ちがうっ」

さっきよりも大きい声で、バーンは否定した。

「じゃあ何だ?」

アレックスの声も大きくなった。いつものアレックスならここで茶化して彼をいじめるのだが、今日は違っていた。いつになく真剣だった。

「彼女の気持ちが…思いが、怖いんだ。」

バーンはうつむきながら、最後の方の言葉は聞き取れないほどの声で言った。

「怖い?」

アレックスは聞き直した。そして、胸ポケットから再び煙草を取り出すとジッポライターで火をつけた。ひと息吸って、それをゆっくりはき出しながらこう言った。

「違うね、そこまで本気で人と向かい合ったことがないから怖いんだろ。」

バーンは黙るしかなかった。アレックスに言われた通りだったからである。幼い頃から努めて人との関わらないようにして生きてきた。彼を支配する『あの思い』から逃れるように。

「真剣に思いをぶつけてくる彼女に、どうしたら傷つけずに接することができるか、な~んて考えているからだろ」

そう言うと不機嫌そうに、煙草を口にくわえ煙を胸の奥まで吸い込んだ。

そんな兄の顔を黙って見つめるしかなかった。

「バ~カ。人を好きになることは綺麗事じゃ済まない時があるし、理屈じゃないんだぜ」

アレックスはくわえていた煙草を手ではずした。

「でも、それでも人は人を好きになるんだよ。素直になりゃいいじゃねーか。本気の思いには本気で」

アレックスは自分から視線を外そうとしないバーンを見つめながら、まるで確信しているかのように言葉を続けた。

「少なくても彼女は本気でお前のことが好きなんだろ?」

バーンはわからないというように首を振った。

「それとも逆かな?」

自信ありげにニヤリと笑った。

「……」

「お前だって本当は彼女のことが『好き』なくせに。」

「……」

「かわいくねえなぁ。はやいとこ『好き』っていってやりな。余計な理屈ばかりで考えてると伝えたいことも伝えられなくなるぜ。」

自分の経験を物語る兄の顔を何とも言えない顔で見つめていた。

「兄さん、」

「だいたい、俺とはこれくらい話せるくせに何で俺以外になるとまるっきり無口になるんだか。彼女も大変だな、こんなのが彼氏で」

アレックスは煙草の煙を天井に向かって吐き出した。

「名前、なんていうんだよ? 彼女、」

「ラティ。ラシス・シセラ……」


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