スーパームーンと皆既月食
「林先輩見てください! スーパームーンっすよ!」
梅雨に入ったばかりで蒸し暑い、五月下旬の帰り道。学年がまた一つ上がって、私の隣を歩くのは、先輩から後輩に変わっていた。
はしゃいでいるのか、大きくなった声が静かな住宅街に響いた。部活終わりなのに元気だなと、入学したばかりの一年生のパワフルさが羨ましい。
「うん、そうだね」
受験生という肩書きと先生からの無言の圧力に日々精神をすり減らす私は、適当に相槌を打った。驚くほど平坦で、興味のなさそうな声だった。
「月、綺麗っすね〜」
そんな私の様子は気にも止めず、後輩は空を見上げていた。「月」「綺麗」という二つのワードに反応した私の耳が、ぴくりと動いた。
あれからもう一年半も経つなんて、時が過ぎるのは早いな。あのとき持ち合わせていた元気さも怖いもの知らずさも、先輩への想いと一緒にどこかに置いてきてしまったみたいだ。
「普段よりちょっと大きいだけでしょ」
そうだね、なんて誰かさんみたいに曖昧な返しはしない。先輩が乗ってくれたんじゃないかって一瞬だけ期待したあのとき。先輩の表情があまりにもいつも通りだったから、夢見る気持ちは瞬く間に萎んでいった。
「なんでそんなにひねくれてるんすか?」
誰も知らないんだから。「月が綺麗ですね」の意味なんて。あの日の先輩とおんなじように、焦りも緊張もしてない後輩の表情。そんな言葉、素で言うなんて逆にすごいよ。
「いつもよりすっげぇ明るい気しません? 月明かりなんて普段は気にも留めないのに」
赤みを帯びた月の光は私たちの足元を照らしてくれている。いつも、太陽からもらった輝きを私たちにも分けてくれるんだ。そう、いつも通りだよ。月はいつも明るくて、太陽よりもよほど存在感が強い。
「今日皆既月食でしょう? 見えなくなったら、偉大さが分かるよ」
「そうっすか? ……俺は月なんかよりも雪の方が風情があって好きっすけどね」
さっきまでの元気はどこへいったのか、後輩は急に声のトーンを落とした。月光に当たったその言葉は私の耳に届いて、私はその真意を測りかねていた。
「どうして急に雪の話? 花鳥風月にも入ってないのに」
ほんとは分かっていた。どうしても言いたいことを遠回しに伝えようとして、伝わらなくて、もどかしいということ。
「存在感が強くても、月は見上げないと視界にすら入らないじゃないですか。でも雪は、空も世界も心も美しく覆い尽くすじゃないっすか?」
だけど、私は分かっていることを教えてあげようとは思えなかった。
「うーん、何の話?」
そういえば、今日は一度も空を見上げていないということに気づいた。ううん、今日だけじゃなくて最近はずっと。毎日の月の変化には、誰よりも敏感だったのに。見ないようにしようって、いつの間にか俯いてばかりだった。
「あー、もう。先輩クイ研も入ってるんすよね?」
痺れを切らしたように頭をぐしゃぐしゃと掻き回して、歩みを止めた後輩。それにつられて私も立ち止まって、真っ直ぐに見つめられる目を見つめ返した。
「うん? そうだよ」
赤白い月の光を纏った後輩の瞳は、宝石みたいに綺麗だった。ほんとは、胸の中は大きく乱れ始めていたのに、私はまた知らんぷりをした。
だって、鈍感系ヒロインの方が需要は高いんでしょ?
「月が綺麗ですね、の意味くらい知らないんですか?」
さっきまではあんなにすましていたくせに、今は緊張で表情が崩れている。言いながら目を逸らした仕草が可愛くて、なんだか笑いそうになってしまった。
「なにそれ?」
小さく首を傾げながら、少しだけ眉を寄せる。先輩に見せるために、ありとあらゆるあざとい表情を練習しといてよかった。
「やっぱいいです」
あと一歩の勇気が足りないのは、私も後輩も同じ。黒歴史を増やすだけだと分かっていながら、溢れ出した想いが口からこぼれ落ちてしまう。
「知りたいなら勝手に調べてください」
それなのに、はっきり好きだとは言えないんだよね。歳の差と恥ずかしさとほんの少しの恐怖が邪魔をして、回り道をしてしまう。
投げやりに言って歩き出した後輩の足元は、さっきよりもちょっとばかり暗かった。
だけど、意気地なしの私よりも一歩踏み込んだ後輩を褒めてあげたい。一瞬だけでも先輩のことを忘れ去ってしまったくらいには、心が揺れ動いている。私もあと一歩踏み出せたなら、違う未来があったのかな、なんて考える余裕もないや。
全部知ってるよ。私も同じことをしたから。
そう言ったら、後輩はどんな表情をするんだろう。からかい上手のあざとい先輩に、本当に需要はありますか?
「めんどくさいからいいや」
にやりと口元を上げてから、私も歩き出す。久々に顔を上げると、月は少しずつ姿を隠し始めていた。
「月、確かに綺麗だね」
今日はきっとこれでいい。月が隠れたらもっと真っ暗になると思っていたのに、案外明るさは変わらないものなんだと気づけただけでも。
「はぁ」
まだ何も知らない後輩はため息を吐いた。そんな後輩に、なんと声をかけてあげようかと考えるだけで心が浮き立っていく。俯くだけだった帰り道は、今日からまた輝き始めるんだ。
肩を並べて歩く二人を照らすスーパームーンは、私の頬をほのかに赤く染めるのだった。
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