I love you なんて言えない

朝田さやか

I love you なんて言えない

「月が綺麗ですね」


 林さんは僕の隣でそう言った。中秋の名月は空の中で存在感を醸し出していて、淡く光る月の白い光は、僕たちを照らしていた。


「そうだね」


 部活の帰り道、同じ中学校出身の僕らは駅から家への道の途中までを一緒に歩いていた。林さんは僕の後輩で、家も割と近いらしい。


「先輩は、博識な方ですか?」


 月が綺麗な話から随分と飛躍したな、また。博識……うーん。クイズ番組はよく見るけれど、僕はそれで知識を得ようとか、自分も物知りになりたいとか、そういう感情は芽生えたことがなかった。


「いいや、違うと思う」


 そういえば、林さんはうちの学校のクイズ研究会にも所属していたな。好きなクイズタレントがいて、その人の話をよくしているのも聞く。だからそんな林さんの言う博識は、本当の博識という意味なんだろう。


「あー、そうなんですね」


 うんうんと頷いて、俯いた林さん。その表情は電灯が無いゾーンに入ったためか夜の闇に飲み込まれた。


「なんかあったの?」


 こっちとしては「あーそうか」で自己完結してもらっちゃ困るんだけど。僕が博識だったら、何かあったんだろうか。


「え、えーっとですね、えっと、月に関する雑学を仕入れたいかなと思いまして」

「そうだったんだ。なんかごめん」


 雑学か。僕は何の雑学も持っていないな。月、月……。本当にごめん、何もないや。林さん達はこうやっていろんなところに興味を持って一つずつ知識をつけていってるんだろうな。感心するよ。


「先輩が謝る必要はないですよ」


 そう言う林さんは俯いたままで、綺麗だと言う月を全然見ていなかった。やっぱりなんか、いつもと違う感じがする。


「林さん、」

「はい」

『ブー、ブー』


 林さんに大丈夫か質問しようとしたとき、タイミング悪く電話がかかってきた。その表示を見ると、「綾」という文字が浮かんでいて、切れないことがわかった。


「ごめん、ちょっとでるね」

「あ、はい」

「もしもし?」


 「綾」というのはもう交際し始めて一年が経つ僕の彼女だ。ごくたまに電話が掛かってくるんだけど、出ないと凄く怒られる。相手も僕の行動パターンは理解していて、大体僕が出られる状況の時に掛かってくるからタチが悪い。


 今日は出られない理由が確かに存在していたけれど、一緒に帰ってるのが女の子っていうのはなんか後ろめたい気がして、仕方なく出た。


 しかし、面倒くさいと言いつつも、なんだかんだ言って綾の声が聞きたいし、出ると大体いい事が多いから別に問題ない。


「たつ、あのさ……」


 綾の声を聞いた途端、僕の表情筋は筋肉という筋肉が全て緩んで、声もいつもとは違って甘くて、後輩が目の前にいるのにそれはもうだらしなかったと思う。


 ✴︎


 電話に出た先輩はいつもの格好良さに加えて、「甘さ」という乙女心をくすぐる要素がさらに追加されていた。


 電話口から時折漏れる声は女の子の声で、話し方から判断するに、さばさばした性格のようだった。そして先輩のことを「たつ」と愛称で呼んで、先輩も「綾」と呼び捨てにしていた。


 たったこれだけのことで、彼女なんだろうなという事は推測できた。きっと綾さんという人は、「死んでもいいわ」なんて冗談に言って先輩を脅せるような人なんだろう。


 先輩は、結局折れてなんでも綾さんの思い通りに動かされてしまう。甘さが足された先輩は、そういう人になるんだ。


 先輩が私を忘れて夢中で電話をする時間、先輩の心は綾さんに温められて熱くなって、私の心は夜風に冷やされて冷たくなっていく。


「くしゅん」


 くしゃみが出て、スカートのポケットからティッシュを取り出して鼻をかんだ。夜の闇に紛れ込んで、先輩から私の不細工な顔が見えないように。


 先輩をチラ見すると、くしゃみのおかげで私がいるのを思い出したようで、先輩は苦虫を噛み潰したような顔になった。


 大丈夫ですよ、先輩。このまま明日風邪を引いたら、先輩のせいだってお見舞いしてもらいますから。


「ごめんね」


 それからまた三分ほど電話をしていた先輩は、電話を切るとまた私に謝った。


「彼女さんですか?」

「あー……。うん」


 そうやって恥ずかしそうに微笑む先輩はずるい。そんな表情いつもはしないのに。でも、ちょっと可愛くて、また私をキュンとさせたんだ。


「あんまり言ってないから、みんなには内緒で」

「分かりました」


 誰にも言うもんか。誰かに言ったら、先輩がその綾さんって人のものだって証明してしまうようなものじゃない。


「可愛いくしゃみの仕方するね。さっきの相手、綾っていうんだけど、綾のくしゃみは男っぽいから」


 そう言って真似をした先輩。それ、私には笑えないですからね。私は面白かったとでもいうようにお淑やかに、愛想笑いを浮かべていた。


 先輩のタイプは可愛い小動物っぽさがウリの私とは対極の、男子の中に溶け込んでいけるタイプの元気な子だったんだ。


 可愛いって、先輩のタイプからは外れてて、褒め言葉にならないんですね。分かりました。勘違いしなくて良かったです。


「あ、もう分かれ道ですね」

「うん。じゃあまた明日」

「はい、また明日です」


 そう言って私の家とは違う道を進んでいく先輩は私のことを一度も振り返らない。それはいつものことで、私がただ一方的に先輩が闇に紛れて見えなくなるまで見つめているだけ。


「さっき、言わないで良かった」


 「月が綺麗ですね」という言葉には別の意味があるってこと、言わないで正解だった。結構有名な話だと思っていたんだけど、先輩は知らなくてよかった。


 この気持ちは先輩にとって迷惑なだけ。そう分かったから、もう伝えようとするのはやめよう。


 回りくどいって分かってた。けど、もし先輩がその言葉の本当の意味を知っていたらと思って。私は臆病で、気持ちを素直に伝えられなかったから。ああ、また先輩の好きなタイプに当てはまらない。


 一人で歩く道は昨日の帰りよりも暗くて、寒くて、少し怖くて。ついつい俯きがちに歩いてしまっていたことに気づいて、顔を上げた。


 いつのまにか空には薄い雲が広がっていて、それは月全体を包み込んでいた。美しい朧月。靄がかかっているようでいて、それでも月は雲を纏うようにして神秘的な輝きに変えていた。


「月が綺麗ですね」


 ポツリと呟いた私の言葉は月の光に当たることなくその辺に落ちて、深くなっていく夜の闇に呑まれていった。

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