第13話

 吉崎百合子が徐に目を開けると、見知らぬ天井が彼女の視界に広がっていた。

 梅雨空のような灰色の天井は寒々しく感じられ、百合子は季節外れの羽毛布団で首まですっぽり体を覆って、眉をひそめた。

「百合ちゃん?」

 すると、天井が突然隠れた。代わりに現れたのは、山岸恭二の顔だった。

「大丈夫? もう起きられるの?」

 いつになく真剣な表情でそう言う恭二の様子はおかしかった。事情のつかめぬ百合子が首を傾げて「ここ、どこ」というと恭二が胸をなでおろした。

「東京の病院だよ。百合ちゃん、あの日の帰りの電車で急に倒れたんだ。覚えてない?」

 倒れた、と言われても百合子はピンと来なかった。

 恭二曰く、ひとりきりで電車に揺られていた百合子は、突如としてその場に倒れたのだと言う。そして、同じ車両に居合わせた大学生グループがうまく立ち回って車掌へ連絡し、救急車の手配をして百合子を救ったと言う話だった。

 その後、百合子は、二日間眠り続け、ようやく目を覚ましたということだった。

 未だ現実感を取り戻せずにいる百合子は、まるで雲の上にでも浮いているなふわふわと落ち着かない心持がした。眠り続ける中で見たすべてが、夢に過ぎなかったと思うと切なさが胸を過った。一つ、一つの出来事を思い出そうと眉を寄せるも、夢の記憶は、紅茶に入れた角砂糖のように次第に溶けて見えなくなった。友人たちの顔が一つずつ消えていった。

 そのうちに、百合子は、恭二に言わねばならぬ言葉があったのを思い出した。

 百合子は掛布団の端をぎゅっと掴んだ。

「その、怒ってる、よね。やっぱり」

 百合子の誕生日の夜のこと。百合子は、一方的な誤解から恭二を糾弾し、罵詈雑言を浴びせた。もはや嫌いだから顔を見せるなとまで言ってのけた。

 すでにあの夜から数日が経過したと言うが、百合子にとっては生々しい出来事であり、記憶に新しい。

 恭二は、百合子の言わんとするところを理解したようで、手に持っていた文庫本を棚の上に置いた。そして、「もちろん、怒ってるよ」そう言って、百合子の目を見て頷いた。

 百合子の体が自然と震えはじめた。全身から汗が噴き、なぜ六月も後半に差し掛かっているのに羽毛布団を首までかけているのかと自らを訝しんだ。そうしていると、恭二が百合子の手を取った。

「もしも、あの夜一緒に居られたら、百合ちゃんが倒れた時、傍に居られた。助けられた。ずっと不安だった。目が覚めなかったら、どうしようって」

 百合子は、大げさなことを言い始めた恭二の顔を盗み見た。

 恭二は、いつもと同じく穏やかで、優しい表情をしていたが、百合子の手をしっかりと握るその手は少し汗ばんで、そして震えていた。

「ごめんなさい」

 百合子がしゅんとして首を曲げると、恭二が首を振った。

「ううん、百合ちゃんだけのせいじゃないよ。こっちこそ、ごめん」

 百合子と恭二は、互いに頭を下げあった。しかし、未だあの夜の出来事が清算され切ったわけではない。百合子は、恐る恐る恭二の顔を窺った。

「それに、それだけじゃなくて。すごくひどいことも言ったし」

 そう言いながら、百合子は言葉の先を口に出来なかった。

 もしかしたら、恭二はすでに自分との関係に見切りをつけているのではあるまいか。その可能性を否定できるだろうか。恭二は、義理故に百合子の病室を訪い、そして偶然故に百合子の目覚めに立ち会っているだけではなかろうか。

 私のことはもう、と思って百合子は顔を青ざめさせた。

 恭二は、笑って応えた。

「そんなこと、ちっとも気にしてない。そんなに簡単に人を好きになったり、好きじゃなくなったり出来ない。百合ちゃん、好きだよ」

 恭二の言葉は、百合子の顔を一瞬で主に染めた。百合子はあまり熱さに鏡も要さず自分の顔が火を噴いていることを察し、すぐに傍らのクッションに顔をうずめた。

 百合子がおずおずと顔を上げると、恭二が笑った。

 百合子は恥ずかしさのあまり目を回した。そうしているうちに、棚の上に恭二が置いた文庫本が目に留まった。どことなく、見覚えのある、日に焼けた裸の文庫本が気になった。百合子は、恭二が本を読むのを知らなかった。

「ああ、これ?」

 百合子の視線に気が付いた恭二が言う。

「彼女のお見舞いに行くって言ったら、長丁場になるだろうからって言って、会社の後輩が貸してくれたんだ。結構面白かったよ。百合ちゃんも読む?」

 そう言って差し出された文庫本を百合子は手に取った。タイトルは、「草枕」。夏目漱石の「草枕」だった。

「む、難しそう」

 百合子は文庫本の話をいったん脇に置いて、恭二の顔を見た。

「その」

 そう言いながら、百合子は布団の中で体を動かした。

 今はまだ、気恥ずかしさが拭えない。

 しかし、過去を変えるのではなく、未来を創るためには、大切なことを伝えねばならぬ時があると、吉崎百合子は知っていた。

 コホンと、百合子は、わざとらしい咳払い一つ。

「恭二、私も、好きだよ」

 百合子がそう言うと、恭二は頬を染め「ありがと」と言ってはにかんだ。

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