第12話

 結局、その日まりあが教室へ戻ってくることはなかった。

 体調がすぐれないと言って、早退したのだ。

 まりあの顔面にボールをぶつけた折戸は、青い顔をして俯いていたが、彼が罪悪感に胸を焦がすほど、百合子は一層深く、憂いに沈んだ。

 放課後になっても百合子の気持ちは晴れ逝かず、部活に行こうと誘いに来た由美から心配された。

「大丈夫? 顔色悪いけど。今日は部活休んだら」

 百合子は由美の言葉に従って部活を休むことにした。無論のこと、まりあの一件が尾を引いているのは明らかだった。

 しかし、尾を引いているのはまりあの一件だけではなく、サルっぽいクラスメイトが流布した卑猥なうわさ話もまた広がりを見せていた。

 百合子が田中と付き合っているなどという天と地がひっくり返り、海の水がすべて空に還ってもあり得ないような噂が口から口へと伝播していた。

 それはまあ、別にいい。

 人のうわさも七十五日というくらいだから、そのうち収まるだろうと言う程度である。

 しかし、この根も葉もないうわさ話は人づてに朝倉に聞かれるだろう、まりあにも聞かれるだろう。そう思うと気が重かった。

 百合子は、気を取り直して帰路についた。

 いつもより早い帰り道を一人で歩いた。

 一時雨は止んでいたが、のしかかるように垂れこめた分厚い雲から、今にも再び雨粒がこぼれそうだった。しかし、生憎、百合子は傘を持っていなかった。

 自然と早足になる。

 百合子は、校門を出て道なりに進み、家の角を右へ曲がって信号を一つ越えた先にある坂道へと差し掛かった。急こう配な坂道を超えると視界が開け、行く手に茶畑が見えた。まるで緑色のかまぼこのようだと思っていると、かまぼこの間を縫うようにして歩いている人がいた。

 見覚えのある後ろ姿。

 一瞬のうちに百合子は気が付いた。

 朝倉だ。

 声を掛ければ気が付くほどの距離だった。百合子は少しためらったが、結局、右手を挙げて口を開いた。しかし、声を出さずにしばらく立ち止まって腕を下ろした。

 朝倉の隣を歩く、ひとりの女子生徒を見つけた。

 彼女は、肩先まで伸びる綺麗な黒髪を靡かせながら朝倉の方を向いた。朝倉も彼女を見返した。二人の表情はまるで鏡写しのようだった。梅雨空を吹き飛ばす太陽のような満面の笑みだった。

 そうしているうちに、二人は背後に百合子がいることも知らず、自然と手を繋いだ。

 そうか、と百合子は口内で独り言ちてすべてを悟ったような気がした。

 当然と言えば、当然であったが、校内でも随一のイケメンであるところの朝倉に彼女がいたとしても何ら不思議ではない。相手の女子生徒は石丸恵理だろう。百合子は馬が合わず、石丸とあまり話したことはなかったが、美人として男子生徒から支持を集めていることは知っていた。

 つまり、百合子は、朝倉に告白しなかったのではなく、出来なかったのだ。



 駅に着く前に、雨が降り始めた。

 ただでさえじめじめとしたと言うのに、さらに蒸し暑くなったような気がした。もはや家に帰るだけだったから、百合子は雨の中を駆けようかとも考えたが、何となくまだ帰りたくなかった。

 帰り道の途中にある公民館のエントランスの雨除けの下を間借りして、ぼうっと立ち尽くす。あまりに手持無沙汰なので雨粒を目で追っていると、ふいに、白雨に友人の顔が浮かんだ。

 森口まりあだ。

 まりあとの軋轢の原因は、百合子にあった。

 そのことについて、百合子は、今日の今日まで知らなかった。

 しかし、今さらそれを知ったところでどうなると言うのか。自分にはどうすることも出来ないと、百合子は思った。それが少しおかしかった。

 ここは百合子にとって未来となった過去。百合子の行動によって、より良い未来を選択することが出来るはずだ。まりあとの関係を修復することも、不可能ではあるまい。

 朝倉のことを思い出す。

 彼の隣には、彼女がいた。しかし、そうかと言って朝倉が手の届かないところにいるわけではない。二十五歳の知略を駆使して石丸を蹴落とし、朝倉を手中に収めることも不可能ではあるまい。

 でも、そうじゃない。

 百合子にとって、やはりここは、過去のままだった。

 その時、白雨のカーテンにシルエットが浮かんだ。

 何かと思っていると、シルエットの影が濃くなり白雨のカーテンが開いた。百合子の目の前に飛び込んできたのは、全身をびしょ濡れにした田中だった。

 田中は、すぐに百合子に気が付いたようで目を丸くした。それから、濡れそぼった自分の体と体に張り付いたワイシャツを顧みて頬を赤らめた。

「な、なんだ。見るなよ」

 百合子は田中に背を向けた。

 田中はワイシャツの裾をぞうきんのように絞った。水の滴る音が聞こえる。

「吉崎、今帰り?」

「うん」

「部活、休みなんだ」

「今日は、ちょっと体調悪いから休んだ」

「ふうん」

 田中はそっけなくそう言った。

「そう言えば、朝倉のやつ見なかった? 俺、あいつ探してんだよ」

「朝倉君?」

「うん、あいつ最近部活さぼってんの。今日もミーティングなのに帰ったっていうし。で、顧問から探して連れ来いって言われて、ほんと貧乏くじだ」

 百合子が振り返ると、田中が肩を落としていた。濡れそぼった姿と長い前髪が相まって、幽霊に見えた。百合子は「あははは」と笑った。

「見たよ。朝倉君、彼女と一緒だった。邪魔しないであげたら?」

「邪魔って、そんなつもりはない。けどな、もうすぐ最後の大会だし、あいつは部長だし。というか吉崎、知ってたのか」

「ううん、どうだろ。知ってた、のかなあ」

 百合子が曖昧に言うと、田中は嘆息した。

 田中は濡れていない縁石の上に腰を下ろし、百合子もその隣に座った。

「全然驚いてないし、知ってたんだろ」

 田中にそう言われると、知っていたような気がしてきた。

「まあ、本当は知ってたのかな、全部。あ、まりあのことは知らなかったけど」

「まりあ? 森口がどうかしたの?」

 百合子は田中から目を逸らして首を振った。少し黙ってから続けた。

 十年前にやってきた百合子を迎え入れたのは、彼女の思い描いていた通りの輝かしいばかりの青春だけでなく、生々しいものも多かった。好きでもない相手との関係を揶揄されたり、友達との間に軋轢を生じさせたり、好きだった人が彼女といるのを目撃したり。

「――昔は良かったって、よく言うけど、当時の自分は大変だったなあって思いだした。昔の方が楽だったなんて言うのは、そんなことなかった。全部知ってたんだけどね」

 田中は相槌も打たずに百合子の話を聞いていた。百合子の言葉が止めば雨音が聞こえた。

「でもね」と百合子は言う。「辛いことも含めて、ここに来てからのこと全部楽しく思えた。泣いて、笑って、そういうの本気でやってたって思い出したから。だから、上手く言えないけど、すごく楽しかったよ」

 故にこそ、百合子は、ここは自分の居場所ではないと思った。そして、自分は過去に戻りたかったわけではないと気が付いた。

「でも」と田中が言った。「今なら、良くなかったことをもう少し、ましな結果に出来るんじゃないの。やり直したい事とか、出来なかったこととか、そういうこと、何とかできるかもしれない。吉崎は、そのために今に来たんじゃないの?」

 百合子は、まりあと朝倉に思いを馳せてから、ゆっくりと首を振った。

「ううん、違う。未来を変えるために来たんじゃないよ」

 百合子は何一つとして今を変えるつもりはなかった。

 確かに、仲たがいしてしまった友人を思えばこそ彼女と再び手を取り合えるような未来を模索することは悪ではあるまい。しかし、まりあとのことや、朝倉とのことを加えてなお一層、百合子にとって中学時代は青春の輝きを増した。

 ここは、百合子にとってアルバムに納まる写真の中だった。写真に写る人々の笑顔、泣き顔を見て望郷の念に駆られ「懐かしい」と口にするも、その写真に「こうだったらいいのに」と蛇足を付け足そうと思うことはない。

 たとえ、その写真の裏にある悲しい事情を知ってしまったとしても。

「なら、どうして今に来たんだ?」

「ううん、すごく言いにくいんだけど」そう言いながら、百合子は頬を掻いた。「逃げ出しただけだと思う。全部嫌になって、自分が嫌いになって、昔はもっと良かったのになって」

 百合子は、喧嘩した彼氏のことを思い出していた。

 ひどいことをしたし、ひどいことを言った。

 もはや、彼氏との関係は修復不可能かもしれない。そう思うと、胸が張り裂けて死にそうだった。耐えかねる恐怖と自己嫌悪に苛まれ逃避先を探した結果、ここに落ち着いた。大方のところ、そんなところだと百合子は思った。

「その「嫌なこと」っていうのも、今なら変えられるんじゃないの?」

 百合子はゆっくりと首を振った。

「ううん。それはね、変えていけるものなんだよ。今と向き合って大事なことを伝えて、そうやって変えていけるものなんだ。過去に戻っても変えられないし、それに、そんなことしたら、会えなくなっちゃうかもしれないから」

 そう言いながら、百合子は笑った。

「本当にいいの?」

 田中が言った。

「うん。まあ、ここでやりたいことがあるとすれば、今の自分に言ってあげたいだけ。大丈夫だよって。今も昔も、これからも、そんなに悪いものじゃないから、前を向いてって」

 ふいに、田中が縁石から腰を上げた。雨除けの端まで行くと、振り返りもせずに言った。

「そっか。すごいな、吉崎は」

「うん。その、田中も、いろいろありがと」

 田中は、照れ臭そうに一度頭を掻くと、視界が白く霞むほどの雨脚の中に身を投じた。

 百合子はしばらく、田中の遠ざかる足音を聞いていたが、次第に耳鳴りのような雨音だけが辺りを満たした。

 それから、百合子は長い瞬きをした。

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