第11話

 体育の授業後、教室に戻って着替えをしていても百合子の頭に上るのは、田中に言われた答えの見えぬ問いについてと、朝倉に対する処遇についてだった。

 なぜ十年前に来たのかなどと問われたところで、別に来たいと思ったわけではないから応えようがない。

 いや、これは嘘だ。

 百合子は彼氏と喧嘩別れした電車の中で中学時代のことを思い出し、昔に戻りたいと願ったのだ。百合子にとって、中学時代は絵も言えぬ宝物で、青春そのものと言って差し支えなく、有り体に言って最も楽しい時間だった。だから、落ち込んだ時は戻りたいと思う。

 なぜ戻りたくなったのか、と身の内から声がするような気がした。

 百合子は考えがまとまらぬまま、着替えを終えて席に着いた。

「吉崎ぃ、ちょっといい?」

 頬杖を突きながら、窓ガラスを打ち付け始めた雨粒を眺めていると、体操服姿の男子生徒が百合子に声を掛けた。顔を向けると、そこには全身からひょうきんさを滲みださせる、耳の大きなサルっぽい少年が半笑いでいた。

 クラスメイト達の中には、すでに制服へ着替えるのを諦め、体操服姿のまま授業を受けることにした怠け者の姿もあって、彼もまたそう言った一団の一人なのだろう。

 名前は、なんと言ったか。

 百合子が少年に既視感を覚えながらも名前を探せずにいると、少年が勝手に話を始めた。

「こんなこと聞くのもあれだけどさぁ、吉崎と田中って付き合ってるの?」

 その瞬間、喧騒に包まれていたはずの教室が水を打ったように静まり返った。

 なぜかと言うのは、すぐに分かった。

 どうやら、このサルのようなクラスメイトは、男子生徒たちに焚きつけられて、百合子のもとまで下らない妄言を吐きに来たらしい。

 その証拠に、体操服姿の男子生徒の一団が、半月の眼をこちらに向けて下卑た笑いを浮かべている。彼らのほとんどは短髪で、百合子はすぐに彼らが野球部であると分かった。

 野球部たちの雰囲気に感化された他のクラスメイト達も、出し物に期待する観客のように、百合子とサルのような少年に注目していた。

 田中と百合子が付き合っているなどと、あり得ない話だった。

 大方のところ、体育の授業中に二人で話しているのを目撃されたのであろうが、その程度で付き合っていると言うなら、百合子はこれまで何股をかけてきたのか知れない。

 否定するのもバカらしかったが、ここできちんと態度を示しておかねば沽券にかかわると思い、百合子はきっぱりと言った。

「何言ってるの、そんなわけないじゃん」

 しかし、サルのような少年は引き下がらない。

「ええ、本当ぅ? 怪しぃ」

「本当だって。もう」

「でもさあ、吉崎と田中が体育館裏にいるのを見たってやつもいるんだよぅ?」

 なんだと、と思って一瞬ぎくりとした百合子だったが、あの時は別に何もやましい話はしていない。クールに、理知的に否定するだけだ。

「だから違うって」

 しかし、そもそも百合子は間違っていた。

 猿のような少年をはじめ、クラスメイト達が求めていたのは確固とした事実ではなく、日々を彩るうわさ話だ。誰かと誰かが付き合っているといううわさ話で他人を揶揄うことに無上の喜びを見出しているのであって、真に付き合っているかどうかは些細な問題だった。

 一度火の付いたうわさ話が広がるのは、火事の炎よりも早い。

 百合子がいくら否定しようが、ムキになってると言って都合よく解釈され、そうかといって、我関せずと沈黙を保っていも、無言の態度が噂の肯定として受け止められてしまう。八方ふさがりの手詰まりだった。

 百合子が内心で悪態をついていると助け船が現れた。

「百合子、まりあ迎えに行こ」

 真鍋由美だ。

「うん」

 由美は、百合子を揶揄う男子生徒へきつい視線を向けつつ、百合子の手を引いて教室を後にした。由美は保健室へ向かう途中でいらいらしながら言った。

「ほんと、何なのあいつら。あり得ない」

 どういう訳か、由美はすこぶる腹を立てているようだった。

 その理由が胸に引っかかった。

 まさか由美は田中のことが、などというあり得ない妄想が百合子の頭を過った。

 いずれにしても、余計な口を利くと由美の矛先が自分にも向きかねないと思った百合子は、相槌を打つにとどめて保健室へ向かった。



 アルコール臭漂う保健室にいたのは、まりあだけだった。

 まりあは保健室の丸椅子にちょこんと腰掛け手持無沙汰な様子で降り始めた雨粒を目で追っていた。百合子たちがやってきたことにも気が付かなかった。どことなく哀愁漂うその背中にいつものたおやかな雰囲気は微塵もない。

 さすがに、人前で鼻血を晒したことが堪えたのだろうと思っていると、由美が控えめに声を掛けた。

「まりあ、大丈夫?」

 名前を呼ばれたまりあは、はっとした様子で百合子たちを振り返った。

 百合子は、露になったまりあの鼻にガーゼが二本突き刺さっているのを見つけて居た堪れない気持ちになった。腕を抱いて、まりあから顔を逸らした。

「あ、うん。大丈夫」

 心ここにあらずと言った感じで応えるまりあの声は鼻声だった。

 百合子は自分も何か声を掛けねばと思って、折戸を非難する言葉を閃き、口を開いた。しかし、まりあの顔を見た途端に口を閉ざしてしまった。

 まりあが、一心不乱に百合子を見ていたのだ。まさしく穴が開くほどに見つめられ、百合子は悪さを見とがめられた子供のような心持になった。

「ま、まりあ? どうしたの?」

 百合子が落ち着かない様子でそう言うが、まりあからの返答はない。

 無我夢中というように、百合子の言葉など耳に入っていないように、恋する乙女のように、まりあは百合子を見つめ続けた。

 むず痒い思いをする百合子は、思わず由美の陰に入るように一歩下がった。由美もまりあの異変を感じ取ったらしく、百合子と顔を見合わせて瞬きをした。

 ふと、まりあの眉間にしわが寄る。

「百合子」

「うん」

「田中くんと、何話してたの?」

「え、田中? 田中って、え、どうしたの。急に」

「さっき、二人で話してたよね、体育の授業中」

「うん、話してたけど」

「何話してたの?」

「な、何って。別に大したことじゃないよ」

「ふうん。言いたくないってこと?」

「そ、そんことないけど」

「百合子、田中くんと仲いいんだね、知らなかった」

「仲いいってわけじゃないよ。ちょっと話すくらいだし」

「でも、あんな風に話す田中くん、見たことなかったな」

「まりあ?」

 百合子は、大丈夫、と声を掛けようとした。

 しかし、由美が百合子の腕を掴んで制した。百合子は黙って由美の顔を窺った。彼女の顔は巌のように固くなり、眉を八の字に寄せていた。

「まりあ、私たち、そろそろ教室に戻るけど、どうする? 一緒にこれそう?」

 まりあはようやく百合子から目を離すと、徐に首を振った。

「ごめん、先に戻ってて。もう少ししたら戻るから」

 百合子と由美は、まりあに別れを告げて保健室をあとにした。

 しかし、保健室の扉を出てからもしばらく、百合子はまりあの刺すような視線を背後に感じ続け、季節外れに身震いした。

 教室への道すがら、由美が肩を落としながら嘆息した。

 由美の額には、うっすらと汗がにじんでいた。

「ほんと、どうなるかと思った」

 いまいち状況の察せていない百合子は、曖昧に頷いた。

「百合子、ほんと、いい加減に、あんまりぼうっとしてたらだめだよ」

「うん。分かった。それで、まりあどうしたの?」

「どうしたのって」そう言いながら、由美は再びため息をついた。

「あのね、百合子。気づいてないかもしれないけど、まりあはね、田中のことが好きなの」

 うん、何だって。

「え? 誰が田中のこと好きなの」

「まりあ」

 百合子の足が自然と止まった。

 しばらくの間、黙して由美の言葉の意味を咀嚼した。それからぽつりとこぼす。

「知らなかった」

「でしょうね。知ってたら、リレー小説に出したり、二人きりで話したりしなかっただろうし」

 百合子は、あんな朴念仁のどこに惚れる要素があるのかと思ったが、他人の恋愛を茶化している余裕はなかった。百合子の頭の中で、いくつかの点と点が線で結ばれ、一つの仮説を打ち立てた。

 思い返せば、森口まりあとの疎遠の発端はここにあったのではあるまいか。

 百合子は、中学卒業後、急速にまりあとの関係が冷え込んだと錯覚していたが、実際には中学時代のうちに二人の関係は終焉を迎えていたのではないか。ただ表面上だけを友達として取り繕い、卒業までの時を共に過ごしたに過ぎなかったのではないか。

 理由はもちろん、田中義久にある。

 百合子にとって田中は、単なる壁以上知り合い未満のクラスメイトAであるが、そのようなシビアな認識はついぞ他人の知るところではない。人からすれば、男女二人が仲良く隣り合ってお喋りしてるように見えれば誤解するには十分である。

 この誤解は、当の百合子や田中かからすれば、全くはた迷惑なだけであったが、田中を好いているまりあからすれば、よほど面白くないであろうと安易に想像できる。元来穏やかな性格をしているまりあは、たとえ憤ったところで声を荒らげて百合子を糾弾することはない。しかし、一度胸に宿した不審は、まりあの心を冷凍庫に入れた水のように急速に、そしてしっかりと凍らせていったことのだろう。

 そうして、誤解の末に訪れたのは百合子とまりあの信頼関係の瓦解だった。

 百合子は今日までついぞ気が付くことがなかったが、まりあはとっくに百合子との友人関係に見切りをつけていたのだ。それゆえに、まりあは中学を卒業以降、百合子と二度と顔を合わせることはなく、成人式の折もどことなく百合子を避けたのだ。

 百合子は、今まで何も知らなかった。

 まりあが鼻血を出したのは、百合子のせいだった。

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