第10話

 そもそも、吉崎百合子が数多ある学生時代のうち中学時代を青春と位置付けるのは、あの時間が特別な思い出と感情に彩られているからに他ならない。

 なるほど、確かに学生の各段階にはそれぞれ面白みがあって甲乙つけがたく、例えるのなら中華とイタリアンのようなものだ。気分によって食べたい方が変わるように、見方によって高校が好きか、大学が良いかというのは変わってくるだろう。

 しかし、百合子にとっての中学校生活というのは、いつ何時「好きな料理は何か」と聞かれても、必ず「和食」と答えるようなもので、他の追随を許さぬお気に入りの記憶だった。辛いことがあると、中学時代は一層輝いて見えて、あの頃に戻れたらと思ったのは一度や二度ではなかった。

 しかしこれまで百合子は、何をして中学時代が自分の中で「和食」の立ち位置を得られているのか理解できていなかった。それは、特定の何かがあった故に中学時代が特別な存在と化しているのではなく、中学時代が全体として特別であるため、捉えづらかったのだ。

 いわばこういうことだろう。

 百合子は「みそしる」が好きだが、「みそしる」があるから「和食」が好きなのではなく、「みそしる」をはじめ、「ごはん」や「おひたし」、「ホッケの開き」らが醸し出すハーモニーを総じて愛し、結果として「和食」が百合子の中で不動の地位にいるのだ。

 ここにこそ、青春の正体があった。

 百合子が愛してやまない中学時代には、部活があったし、親友がいたし、好きな人もいた。そのほか中学時代を形成するすべての要素がいい塩梅に組み合わさったからこそ、中学時代が百合子の青春になったのだ。何か一つが為でなく、すべてが在った為に、そしてすべてが在って、何一つ欠けていなかった為に、ここは青春であったのだ。

 そして吉崎百合子は、青春の直中に舞い戻ってきた。

 なぜ十年前にやって来てしまったのか、原因にしろ原理にしろ未だ不明だったが、この状況の意味するところを百合子は察していた。

 つまり、過去が未来となった今、百合子の手の届くところに彼はいるのだ。

「なんだそれ」

 いや、だから、と百合子が勇んで言うと田中が手で制した。

「あのな、今の説明で分かることと言ったら吉崎がどんだけ和食が好きかっていうことくらいだぞ。何が言いたいんだよ」

「何がって、それは」

 なんだろう。

 改めて詰め寄られると、百合子は押し黙るしかなかった。

 十年前の過去にやって来てから数日が経過し、ダサい制服とすっぴん登校も慣れてきたが、日増しに一人のシルエットが百合子の中で存在感を増していた。思い余って誰かに相談をしたい、と思ったときに思い浮かんだのが、田中だった。

 「インテリ系根暗ボッチ」と揶揄される田中ならば多少妙な話をしたところで吹聴する先を持たず、そうかといって壁に話すよりもましな気分になれる。十年前は歯牙にもかけなかった前髪の邪魔なクラスメイトAだったが、こうしてみると存外悪い奴ではなかった。

 なかったのだがしかし。

 体育の時間に開催されたドッチボールで早々のうちに退場となった百合子は、野球部のくせにいまいち体力に自信がなさそうな田中が、百合子の次にボールを当てられたのを見て、ちょっと相談に乗ってくれないかと持ち掛けた。

 そして、つかず離れずの距離で隣り合って話をすると、退屈そうに相槌を打った挙句に「だからなに」と言ったのだ。

 この瞬間に、にわかに向上していた百合子の中での田中株が暴落した。いい奴と田中を認定していたのは、百合子の幻想であって蓋を開けてみれば見てくれ通りの「インテリ系根暗ボッチ」だったと判明した。

「何を迷ってるのか知らないけど、別にやりたいようにやればいいんじゃないの」

「やりたいようにって」

 そもそも、そのやりたい事がいまいち百合子の中で判然としないからこそ、田中に相談を持ち掛けたのだが、この男子学生はそこのところに気が付いていないらしい。

 百合子の頭を悩ませるのは、もちろんのこと朝倉の存在である。

 かつての思い人と急接近し、百合子の胸は高鳴っている。

 中学生当時は、思いのたけをぶつけることも出来ず淡い初恋を散らしたが、二十五になった今の自分ならば、告白を実行し、しかる後に結果を得ることが出来るだろう。

 しかし、いいのだろうか、本当に。

 長じて後に年齢の差からくる優劣というものは小さくなる。たとえば、三十と三十五、五十と六十の間に、二十五と中三ほど大きな海溝があるだろうか。

 否、断じて否である。

 子供の頃にこそ、年齢差が顕著に表れるのは必定。故にこそ、二十五の百合子と十四の同級生との間にはアマチュア小説家とプロ作家ほどの違いがあると言って差し支えなく、これを利用すれば百合子が中学校を掌握することも不可能ではない。学内でも有名なイケメン男子生徒を自らの騎士として足元に侍らせ高笑いを決め込むことが出来るのだ。

 しかし、実際そんなことに興味はないが。

 百合子の頭の中にあったのは、つかず離れずの距離を保って歩いた帰り道のこと。あの日の朝倉孝之の柔和な笑顔を思い出し、百合子は胸をざわつかせた。

 もちろんのこと、性癖から男の趣味からノーマルを自認する吉崎百合子にとって十も年下の中学生に手を出すなどということは、言語道断、おてんとうさまが許して法律が許さぬ外道の所業とよく心得る。

 それに。

 それ以前に、もしも百合子が朝倉を手玉に取ってしまったら、それは未来が書き換わるのではないかとも思う。今さらながらに、百合子はそのことが不安になった。

 時にバタフライエフェクトという言葉をご存じだろうか。中国で蝶が羽ばたくとアメリカでハリケーンが起こる、田中のくしゃみがオゾン層を破壊する、気象庁の天気予報はいつまでたっても百パーセントの的中率にならない等々、すべては「バタフライエフェクト」の一言で説明がつくのである。なんと便利な言葉! 

 兎も角も、百合子が朝倉に急接近するなどという史実と異なる重大な行動に出たら、百合子の今後の人生が大きく塗り替えられることは避けられない。いうなれば、本能寺の変にタイムスリップして織田信長を救うようなものだ。信長の生存は、秀吉の出世を阻み、江戸幕府を幻の夢と消すこと請け合いだ。

 今が十年前だと認定するのであれば、百合子の言動が未来の百合子や未来の世界に影響を及ぼすことになる。

 それはつまり。

 百合子が顎に手を当て、いつになく真剣に考えていると、コートの両陣営を行き交うボールが強かに一人の女子生徒の顔に打ち付けられた。

 女子生徒はまりあだった。

 一時、場は騒然となって誰しもが口をつぐんだ。まりあの鼻からつうっと赤い線が伸びた。すると、彼女は顔を腫らして泣き始め、まりあの顔面にボールを当ててしまった折戸光一郎が柄にもなく挙動不審に慌てていた。

「あーあ、何やってんだか」

 田中が他人ごとのように頬杖を突きながら退屈そうに言った。

 ドッチボールの試合は一時中断となり、保健委員がまりあに付き添って体育館をあとにした。体育教師が、折戸に注意をした。折戸は普段の平静さを失って上ずった声で教師に謝罪し、ドッチボールのコートをあとにした。それから試合が再開された。

「でもさ」田中が言う。「吉崎は未来を変えたかったんじゃないの。だから、今に来たんだろ」

「変えたかった?」

 田中は百合子を見ない。再びコートを行き交い始めたボールをぼんやりと目で追っている。

「うん、たとえばだけどさ、さっき森口が顔面にボール当てられて、鼻血出して泣いてたじゃん。吉崎が未来から来たんなら、試合が始まる前に折戸にそれとなく声を掛けたり、森口の盾になったりすれば、今のも止められたってことだよな。それって、いけないことなのか」

 百合子は、この日のドッチボールの試合でまりあが顔面に被弾して公然と鼻血を晒すことを知らなかった。あるいは、覚えていなかったから止めようがなかった。

 しかし、もしもまりあの鼻血事件を脳裏に焼き付けていて、颯爽とまりあの前に立ち、ボールを受け止めていたら、それはまりあにとっても、折戸にとっても良いことだったのではないか。

「未来を変えることは、悪いことじゃないってこと?」

「変えることにも、もちろんよるとは思うんだけどさ。過去に戻って、良くなかったことをもう少しましな結末に落ちつけて、それは別に悪いことじゃないと思う」

 そう言われて、にわかに百合子は自らの歩んできた過去を俯瞰した。

 いかに百合子が楽天的な性格をして、過去に捉われず歩み続けてきたと言っても、やはり後悔や、やり残したこと、残尿感の残る思いをしたことはあった。

 高校時代に振ってしまった三宅や友人関係をこじらせてしまった明美のこと、突休の後に電話一本でやめてしまったパン屋のバイト、大学生の時に付き合った年上のくだらない男のこと。もう少しどうにかならなかったのかと思い出したらきりがない。

 それにこれもだ。

 届かなかった、中学時代の淡い初恋は、百合子の胸を縫い針のような小さな針でチクリと刺す。

 そう、届かなかった、届かなかったのだ。

 しかし、過去は未来となった。

 今ならば結果を書き換えることが出来る。

 百合子の体を北風が通過した。芯から凍るような季節外れの寒さを感じて身を縮め込めた。百合子はぽつりと言った。

「ううん、違う、違うと、思う。変えたかったわけじゃない、気がする」

「ふうん」田中は相変わらず興味のなさそうな顔でそう言って、長い前髪から試合風景を見ていた。ついに最後の一人がコートを後にし、試合に決着がついた。百合子のチームが敗北し、田中のチームが勝利を収めた。

 教師が全員に向かって整列を呼び掛けた。それまで座り込んで話していた生徒たちは、一斉に立ち上がった。百合子と田中もまた、尻についた砂を落として教師の下へ向かった。

 田中は、背を向けたまま、百合子に問うた。

「じゃあさ、吉崎はなんで今に来たの?」

 百合子が応えられぬまま、体育の授業は終わった。

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