第9話
百合子たちの有意義な放課後は、校内の見回りをしていた先生に帰宅を促されるまで続いた。百合子たちが、放課後の教室でだべっているところを目撃したのは、妙年の眼鏡をかけた女の先生だった。
彼女は、百合子と由美が未だ体育着のままで帰り支度も済んでいないところを見ると、肩を上下に動かし大げさに呆れて見せた。
そのわざとらしい態度に若干むっとした百合子たちだったが、女性教師の「こんところでこんなことしてたら、内申に響きますよ」という言葉を耳にして、脱兎のごとく学校を飛び出すこととなった。
放課後の会合のお開きはあっという間で、校門を出た後すぐに、三人は手を振って別れ、それぞれの帰路についた。この出がらしの煎茶のようなすっきりとした後味の別れ方は、明日も明後日も同じ毎日が訪れることを知っているが故なのだろうと、百合子は遠ざかる友人たちの背中を見てぼんやりと考えた。
彼女たちにとって、今という瞬間は何ら特別なものではないのだろう。
いつもと同じ、日常の一ページ。太陽が西へ沈むのと何らの変わりもない。
では、百合子にとっては?
放課後の空は梅雨らしい鈍色の雲に阻まれていた。
形を成さないふわふわとした感情が百合子の胸の中で渦巻いた。何となく生理中のような不快感を覚えた百合子がえいやと気合を入れ直して、校門に背を向け歩きはじめると、すぐ目の前を歩いている一人の男子生徒が目に留まった。
後姿からも分かるすらりとした長身と纏うオーラから滲む垢ぬけた雰囲気から、彼の周りだけ梅雨空のじめじめとした空気が吹き飛んでいるような気がした。
いったい、何やつと、百合子が警戒して目を細めていると、ふいに風が吹いた。
東から西へと向かう突然の風に低空を旋回していた雀が流されているのが見えた。百合子は雀の行方を目で追っていたが、目の前を歩く男子生徒もそうらしい。歩くスピードを緩めて顔を空に向け、そしてふと、偶然に、全く予期せず、百合子の方へ振り向いた。
少年の端正な顔があらわになり、そしてまたさらさらとした前髪から覗く、少年の美しい双眸が百合子を捉え、百合子もまた少年を見返した。
二人はしばし、雀の行方も忘れて見つめ合った。百合子は祭囃子のような太鼓の音を聞いたような気がしたが、なんだ自分の心音ではないかとすぐに気が付いた。
百合子は肩に担いでいたカバンの持ち手をぎゅっと握った。
少年が柔らかな唇を開く。
「あれ、吉崎? もしかして、今帰り?」
百合子は二十四年の人生で培った平静を装う仮面を大慌てで引っ張り出して、応えた。
「え、あ、うん。朝倉君も?」
「そうだよ。さっきまで顧問と話しててさ、終わってみたらみんな先に帰ってて。ほんと、薄情な奴ら」
朝倉孝之は、そう言いながら、百合子が隣に並ぶのを待っていた。
百合子は内心の動揺を強く感じ、まともに朝倉の顔さえ見ることが出来なかったが、当の朝倉はどこ吹く風というように、笑みを浮かべていた。
二人は連れ立って帰路を歩き始めた。
「そ、そうなんだ。ええと、朝倉君て、確か野球部だよね」
「うん、そう。部長だからさ、顧問と今度の試合のオーダーの相談とかしてたわけ。フツー友達なら終わるの待っててくれるもんでしょ。田中の奴まで帰ってるし」
唇を尖らせて言う朝倉に、百合子は「あはは」と笑って答えた。
それと同時に、先日、田中が野球部部長に代わって体育館の使用権のことについて相談しに来たことを思い出した。本来ならば、あの場にいるのは田中ではなく野球部部長である朝倉だったのだろう。あの時の田中の恨み節が頭を過り、百合子はさりげなく言った。
「そう言えば、この前、田中が体育館使いたいって、話に来たよ」
「うん、知ってる。どうにかなりそうだって、聞いてる。吉崎には感謝してるよ、ありがと」
「あ、うん」
ふいに百合子は顔が熱くなるのを感じた。いや、これはいかん。相手は十も年下の中学生だ。何を照れているのかと思ったところで、朝倉が百合子を見た。
「よしざ――あれ、顔少し赤いけど、大丈夫?」
「き、気のせい、気のせいだから」
そうして、百合子と朝倉は肩を並べて下校した。
溌剌とした朝倉の声を聞いていると、百合子は初日の朝、電車の中で百合子を起こした少年が朝倉だったのではないかと思った。それとなく朝倉に聞いてみたが「さあ、どうかなー。覚えてないなー」などと柔和な笑顔を向けられ、のらりくらりと躱されてしまった。
百合子は、家の手前の交差点で朝倉と別れた。
自宅についた百合子は、ただいまというのも忘れて、玄関に座り込み深呼吸を繰り返した。そして、朝倉のことを思い出す。
朝倉孝之。
彼は、すらりとした長身とさわやかな雰囲気を特徴とした同級生で、なおかつ野球部部長と生徒会長を兼任し、学内でトップの成績を有するという文武両道のイケメンだった。
にわかに、「今を楽しめ」と言った田中の言葉が頭を過った。
百合子は朝倉孝之が初恋の相手だったことを思い出すとともに、心音の高鳴りを感じた。
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