第7話
一時間目の授業は数学だった。
教壇に上ったのは、鼻の下に大きなほくろがある熊のように巨大な大男で、刈り上げた襟足が目を引く中年教師だった。
かの教師の姿を見た瞬間に、百合子はまた一つ古い記憶の扉を叩かれ、「ああ、そういえばこんな先生もいたなあ」と頬杖を突きながら思った。
数学の授業開始直後は、中学生の勉強なぞ楽勝と息巻いていた百合子だったが、十五分を過ぎるころには授業について行けなくなり、あくび交じりに窓の外を窺うようになるのにさほど時間はかからなかった。
そうして、百合子は次第にこれからのことを考え始めた。
窓から見える風景をはじめ登場人物に至るまで、すべてが百合子の記憶にあるこの場所、この時間は、やはり十年前の世界なのだろう。
それは、いい。
この際、どうして十年前の世界に来てしまったのかというところも一旦おいておこう。
現状が夢か真かという答えの見えない論争についても、すぐに答えを求めたりはしない謙虚さを示しつつ、百合子は考えた。
今自分が渇望しているのは、今後どのように行動すれば元の世界に戻れるかということに尽きる。社会人となってすでに三年を経る百合子のもとには、日夜厄介な仕事が舞い込み、処理に紛糾していた。一日休めば次の日に仕事量は倍になり、二日休めば十倍になることを考えれば、一刻も早く元の世界へ帰還したいと思うのは当然だろう。
しかし、一方で田中義久の言った言葉がにわかに胸をかすめる。
「楽しめばいいんじゃないの?」
確かに、田中の言には一理ある。
ネットニュースや同僚とのうわさ話でも過去の世界に言ったという話を聞かないことからしても、十年前の世界にいるというのは特異なことであって、この機会を逃せば二度と再び同じ状況に置かれることはあるまいと思う。
ゆえにこそ、一生に一度の世界一周旅行に来たような心づもりで十年前の世界を楽しむというのは、あながち間違っていることとも思えない。
が、しかし。
そもそも、と百合子は思った。
いくら楽しむと言ったって、自分はもはや中学生とは違う。オトナなのだから、彼らと共に楽しく過ごすことは出来ないのだ。これは侮蔑ではない。嘲りとも違う。
オトナになってしまった者は二度と純粋だったころには戻れず、風が吹けば笑い、友と枕を並べて純愛を語り合ったあの日々の自分に成れぬことは必定。ゆえに、いくら百合子が中学生時代に戻っても、楽しむことなどできるわけもないのだ。
百合子の胸を過ぎ去るのは、まさしく寂しさ。圧倒的な青春の残り香を感じ、百合子は今まさに机を並べる学友たちがセピア色に見え始め、気が付けば夢の中をまどろんでいて授業終了のチャイムの音と共に起こされた。
「百合子、授業中寝てたでしょ」
その言葉と仁王立ちを携え、一時間目の休み時間になると同時に百合子の席の前に立ったのは、真鍋由美だった。彼女は、にわかに青筋を浮かべ、どのような釈明も受け入れぬと決意しているデカ長の顔をして百合子を見ていた。
「う、ま、まあ。寝てたけど」
「全くもう、まだ一時間目じゃない。寝てたの百合子だけだよ。あの吉田だって起きてたし」
「あはは、なんだろ。成長期なのかなあ」
「何のんきなこと言ってるの。授業中に寝たりしたら、モロ内申に響くじゃない。というか、最近の百合子は、ぼうっとしすぎ。昨日だって電車にカバン置き忘れてたし、先週だって」
そうして、由美が百合子の身に覚えのない、先週の失態の話をし始めたあたりで、花の香りが宙を舞った。何かと思って顔を横に向けると、由美の傍らに背が高く、野暮ったい制服の上からでも分かるほど豊胸なポニーテール少女がいた。
少女は笑う。
「まあまあ。由美、落ち着いて。ほら、百合子もこんなにしゅんとしてるし、もういいんじゃない?」
「あまーい。まりあがそうやって甘やかすから、百合子はいつまでもしゃんとしないんだよ」
由美が、まりあと少女の名を呼んだ瞬間に、百合子は記憶のアルバムに仕舞われた一枚の写真を思い出した。
ああ、そうだった。
中学三年当時、百合子は、真鍋由美と森口まりあと徒党を組んでいた。どういういきさつで三人が仲良くなったかは朧気にせよ、意気投合した百合子たち三人は休み時間から放課後、体育の準備運動まで一緒に過ごしていたのだった。
しかし、中学三年を境に、仲良し三人組は別々の航路へ向けて出港することになった。その後、百合子と由美は時々連絡を取り、高校、大学、社会人となった今でも交流は続いていた。
しかし、と思いながら百合子はまりあの顔を盗み見た。
森口まりあとは、中学を卒業後、顔を合わせることはなかった。なぜまりあと疎遠になってしまったのかは、分からなかったが、こうして十年前に戻り彼女のたおやかな雰囲気の中に包まれていると、是が非でも再び会いたいと百合子は思った。
百合子が、もとの世界に戻ったら必ずまりあに会いに行こうと固く決意した矢先、休み時間終了を告げる予鈴が鳴り響いた。
三日三晩続く夜祭の中日のような乱痴気騒ぎがあちこちで起こっていた教室も、にわかに静寂を取り戻し始め、生徒たちは自席へと帰って行った。
由美とまりあも百合子に背を向けたが、由美は立ち去り際に百合子の机に一冊のノートを置いた。
「はい、これ。次は百合子の番だったでしょ」
「え、なにこれ?」
百合子がそう言うと、由美が眉間にしわを寄せた。
由美に先んじて、まりあが言った。
「なにって、百合子、さてはまだ少し寝ぼけてる? でも次の時間は英語なんだからしゃんとしないとだめだよ」
「ほんとほんと。冗談はやめてよ。じゃあね」
由美から渡されたのは、空色の表紙と藍色の背表紙をした一冊のキャンバスノートだった。一見すると、何の変哲もないノートだったが、百合子はこのノートを見ていると尻がむずがゆくなった。
なんだろうと思って好奇心が刺激されたが、一方でこのノートは開けてはならないパンドラの箱のような気もした。
しかし、いずれにしてもこのノートの正体を確かめるには中身を改めるしかほかになく、百合子は、君子危うきによらず、しかして虎穴に入らずんば虎子を得ず、などと古い言葉で自分を納得させて空色のノートを開いた。
英語の授業が始まる中、教科書に隠れてノートに目を通すと、おおよそこのようなことが書いてあった。
*
このようにして終わった世紀末戦争だったが、戦闘機乗りの折戸光一郎は、未だ故郷へ帰れずにいた。それというのも、折戸の飛行機が不時着した街にいた佐島孝明に思いを寄せたためだった。
折戸は故郷のことを思いながら、今日も佐島が営むパン屋へ行く。
パン屋行くと、そこには佐島と愛を囁き合う見知らぬ男(吉田)がいた。
折戸は叫んだ。
「私とのことは、遊びだったのね」
「ち、違うんだ。誤解だ。これは」
「ちょっと、どういうことだよ。誰だよ、こいつ。佐島、お前彼氏はいないって、言ったじゃないか」
吉田は言った。
三人の争いが激化したその時だった。突如パン屋の戸が開いた。
「そこまでだ!」
現れたのは、折戸の上官である村田だった。
「村田、なぜここに?」
折戸は言った。
「折戸、貴様は脱走兵として指名手配されているのだ。死ね」
鳴り響く銃声、その時、佐島がとっさに村田へパンを投げつけた。
「なにを」
「折戸、逃げろ!」
折戸は佐島の言葉にうなずいて駆けだした。
しかし、すでにパン屋は敵に囲まれていた。
逃げ場はなく、折戸たちは絶体絶命だった。
その時、折戸光一郎はベッドの中で目を覚ました。
すべては夢だったのだ。
ええ、ここまで来て夢おち?
夢おちなのであった。
続くのであった。
*
なんだこれは!
百合子は喉の奥で叫んだ。思いがけず飲み込んだつばが器官に入って咽っ返し、板書をしていた教師に睨まれた。
百合子は教科書に顔を沈め、再びキャンパスノートを見た。
何度読み直しても異様な内容の手書きの小説は、所々で筆跡が変わっていた。作者が複数にわたることは明らかだった。そして、小説に出てくる折戸、佐島、吉田、村田という名前に、百合子は聞き覚えがあった。
英語教師が言う。
「それでは、次の問題をミスター、折戸。前に来てやってくれる?」
教師に名を呼ばれた折戸という男子生徒は、教科書を片手に黒板の前に立つと、眼鏡のブリッジを中指で押し、手際よく答えを記述して自席へ戻った。流れる川のようによどみない動きと、一切言葉を発さずに淡々として必要なことを行う折戸は、中学生にあるまじき雰囲気を身に着けていた。
百合子は、彼が折戸光一郎であることを思い出した。
「では次を、ミスター佐島」
佐島と呼ばれたのは、ぽっちゃりという言葉を優に超越した横に、縦に巨大な男子生徒で、百合子は彼の姿を見た瞬間に、彼こそが佐島孝明だと思い出した。そうして教室内を改めて見回してみると、なるほど小説に出てきた人物の名前に聞き覚えがあるのも納得できた。
というか、全員がクラスメイトだった。
つまり、こういうことか、と百合子は考えた。
由美から渡されたキャンパスノートは、学友たちをモデルにしたリレー小説なのだ。休み時間の様子からして、筆者は百合子、由美、まりあの三人。順繰りに書いていて、次は百合子が書く番である、と。
百合子は改めてキャンパスノートをぱらぱらとめくり、リレー小説に目を落とした。すると、登場人物のすべてに覚えがあった。小説には、クラスメイトや学友に留まらず教師も登場し、物語未満のめちゃくちゃな様相を呈している。
「ぶふ」
百合子は思わず噴き出して、ああそういえばこんなこともやっていたなあ、とにわかに思い出した。
リレー小説の内容は、学校の人たちをモデルにした愛憎離別の物語だった。要するに、なんでもありの展開で、学校を舞台に青春ポイことを書いてみたりもするが、『戦闘機乗りの折戸光一郎』のような特殊な設定で書くこともあった。
いずれにせよ、ひどい内容であることは疑いようがない。
男子生徒と男子生徒が付き合っていたり、教師と生徒で愛し合っていたり、絶対にありえない二人が、実は腹違いの兄弟だったりしながら、時に宇宙人が襲来してそれと戦い、時にメロドラマを繰り広げるのだ。
百合子の記憶では、リレー小説は中学卒業までにキャンパスノート三冊にわたり、筆者たち三人がそれぞれ気に入った一冊を持ち帰ることになった。しかし、百合子はとんと、自分の貰ったリレー小説をどこにしまい込んだのか思い出せなかった。
しかし、いずれにせよいつまでもリレー小説を読んでいるわけにはいかない。
由美が言った通り、次は百合子が書く番なのだ。
百合子は、さてどんな風に小説の続きを紡ごうかと考えた。
そこでふと、田中義久のことが頭をよぎった。
リレー小説を見返していても、田中の名を見つけることは出来ず、彼は未だ百合子たちのリレー小説には登場していないらしかった。
「インテリ系根暗ボッチ」の名を冠する田中も小説の中でくらいは、まともに描いてやってもいいかもしれない。
そうだ、せっかくだから今の体験をもとにしたらどうだろう。つまり、十年後の未来からやってきた未来人田中義久がオトナの色香を武器に中学生たちの中で天下を取るのだ。
そうして。
百合子はイケメンと化した田中義久をリレー小説へ登場させ、授業中執筆活動を大いに楽しんだ。そこに、中学生と共に楽しく過ごすことは出来ないと言っていたオトナの姿はなかった。
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