第6話

 そもそも、現実世界の吉崎百合子はもはや二十五歳のオトナの女であり、都内のオフィスでバリバリ働くキャリアウーマンである。住まいを東京は練馬に構え、一人暮らしを始めて早三年が過ぎる。

 独り暮らしを始めてからというもの、百合子はほとんど実家に帰っていなかった。

 オトナ百合子が中学生百合子の中に入るという珍妙な事態が生じたその日、部活動を終えてくたくたに疲れた百合子が帰宅したのは、未だ着工さえ済んでいないであろう練馬のマンションではなく、小川の傍らにひっそりとたたずむ「吉崎」と表札のかかった赤い屋根の一軒家だった。

 その奥ゆかしいほどこじんまりした家屋こそ自分の実家だったが、百合子は実家に入るのをためらい、ぎこちなく玄関の戸を開けて控えめに「た、ただいま」と言った。

 しかし、玄関からキッチンへと続く廊下や、二階へ伸びる階段を眺めていると懐かしさばかりが胸の中を埋めていった。

 百合子には、実家が二年前の正月に帰った時と何ら変わっていないように感じた。この家だけは、十年も時をさかのぼっていることを感じさせなかった。下駄箱の上に置かれたへんてこな海外土産も、百合子が小学生の時に行った家族旅行の時に撮った写真もそのままだった。

 それでも、何もかもが百合子の知っている通りの実家だったわけではない。

 百合子がにわかにほっと胸を撫で下ろしているところに、「おかえりなさい」と言って、キッチンからエプロン姿で現れた母親は、控えめに言ってもすごく若かった。顔のしわや肌つやに始まり、全体的に何となく背筋が伸びていてしゃんとしている。もちろん、十年後の母親もしっかりとした人であることに変わりなかったが、それでも目の前にいる母親と比べると、さすがに歳月を感じざるを得ない。

 母親の姿に見る十年の歳月と共に、最近ろくに実家に顔を見せていなかった自分の身を顧みた百合子が居た堪れない気持ちになって、罪悪感に胸をざわめかせていると、若い母親が言った。

「何してるの。早く、あがりなさいよ」

 母親は至極自然に言ったが、百合子は少し居心地が悪く、なんと答えればよいのか分からなかった。百合子は、あいまいに口をもごもご動かした。

「ちょっと、百合子。どうしたの、ぼうっとして」母親はぴしゃりと言って続けた。「というか、今日は晩御飯手伝ってくれるんじゃなかったっけ。早く手洗ってきなさいよ」

「え、晩御飯?」

 百合子はそう言って、母親を顧みたが、そこにすでに母親の姿はなく、遥かなキッチンを目指して歩み去る母の背中が遠くに見えるだけだった。

 百合子は喉を絞るような声で「ええー」と言ったが、母親は許してくれなかった。

 百合子は、それが少し嬉しかった。



 さて。

 楽天的を絵にかいたような百合子は、どうせ一晩寝れば元に戻っているだろう、という期待を眠りに落ちるまで持ち続けていたが、次の日の朝が来ても目覚める場所は実家の自分の部屋だった。

 流石の百合子もどうしようと焦燥感にかられたものの、実効的な手段を思いつけるわけでもなく、朝になれば中学生という身分上当然に登校の必要に迫られた。

 再び中学校へ行くにあたって、すっぴんで出かけることに少なくない抵抗を覚えた百合子だったが、母親の化粧道具をくすねるわけにもいかず、そもそも女子バスケット部の朝練があったから朝食をたらふく食べてそそくさと家をあとにした。

 梅雨という時期に似合わず涼やかに晴れた青空が、玄関の戸を開けた百合子を出迎えたが、天気のことなど百合子の頭にはなかった。

 このまま元に戻れなかったらどうしようという焦りが今さらながらに百合子の胸を焦がし、登校中はもとより女子バスケット部の朝練中さえぼうっとしていて、二度もパスミスをやらかして由美に手ひどく叱られた。

 落ち込む暇もなく、朝練を終えてそそくさと教室へ戻ると、そこは朝練を終えた学生たちで煮えくり返っていた。まさしく、教室は火にかけた鍋に等しくあちらこちらで嬌声が上がり、汗が飛び散り泥が跳ね、体操着が宙を舞う。そうかと思えば男女混合で着替えを行っている始末。なんと破廉恥な!

 由美をはじめとした女子バスケット部の面々も器用に肌を晒すことなく体操着から制服へと変貌せしめていて、百合子を驚愕させた。そんなことしなくても、更衣室使えばいいのに。素肌を見せなければ異性と同室で着替えても問題ないということなのだろうか。

 二十五歳にもなって大勢の人がいるところで着替えることに少なくない羞恥心が刺激された百合子は、ひとり制服を持ってトイレに駆け込み、そこで着替えを完遂し、晴れて激動の朝練を終えた。

百合子がこの日、ようやく一息付けたのは、一時間目の開始を告げるチャイムが鳴った後だった。

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