第5話
田中からは楽しめと言われたものの。
そう簡単に割り切ることの出来ない百合子は、蜘蛛の巣のように警戒網を張り巡らせ、目を見開いて周囲を窺って一日を過ごした。どこかに自分を監視している人間はいないか、ドッキリのプラカードが隠れていないか、変なタイツを着た宇宙人はいないか。
しかし、百合子の努力は実を結ばず、体力を無駄に消費しているうちに、その日の授業は終わり、生徒たちは放課後を迎えた。
「百合子、部活行こ」
軽い調子で百合子に声を掛けてきた由美は、すでに体操服に着替えていた。
いつの間にと百合子が視線を投げると、由美は嘆息して肩を落とした。
「ちょっと、まだ着替えてなかったの。またぼうっとして、ほら早く」
由美に尻を叩かれた百合子は体操服を片手に体育館へと向かった。
それにしても、部活動。
百合子にとって、中学生と部活動はほとんどセットと言ってよく、一方を語る時必然的にもう一方も語っているような、いわば表と裏、塩辛さと青春、男と女のようなものだった。それというのも、中学三年間のうち、百合子は女子バスケット部の部長を務め、青春の多くの時間を体育館とバスケットボールと共に過ごしたのである。今思えば汗臭いばかりの青春であったと思うが、同時にいい思い出でもあった。
そう、本来ならばいい思い出であったと、冷房の利いたバーでグラスを片手に嘆息しながら思うだけで済むのだが。
百合子の現状は異なる。
辛いけれどもいい思い出であった、と締めくくるべき過去が目の前に立ちはだかっているのだ。思い出になる前の現実は、言ってみれば「辛いけれどもいい思い出」のうち、「良い思い出」の部分を取り除いて残ったものを指す。有体に言えば「辛い現実」ということだ。
部活動は辛い。特に、最近仕事にかまけてろくに運動してこなかった百合子にとっては、特に避けたいイベントだった。中学生に交じって部活動に興じようものなら、翌日筋肉痛になることは、約束されているようなもの。全身を痛めて布団の中で呻く自分を想像してなお、嬉々としてバスケットボールを放れるわけもない。明日は、デスクワークをしながら鬼神の如き表情を浮かべざるを得ないこと請け合いだった。
そんなことはごめんだった。
田中に楽しめと言われたにもかかわらず、早速楽しめなさそうな事態に追い込まれつつあった。中学時代当時は、女子バスケット部部長としてレギュラーの座を堅持していたが、今となっては昔の話。二十五歳の百合子では、由美の矢のようなパスを受け止めることも叶わないだろう。
「百合子、いくよ」
などと思い浮かべていると、当の由美から鋭いパスが投げられた。
一瞬身をこわばらせるが、すとんとバスケットボールは吸い込まれるように百合子の掌に納まった。何のことはない、慣れ親しんだ感覚だった。
百合子の心配はすべて杞憂に過ぎなかった。
当然と言えば当然だ。今の百合子は二十五歳のOLではなく、十五歳の中学生だ。
つまり、と由美へボールを返しつつ、百合子は考えた。
今の自分は、二十五歳の頭脳と若く健康な体を有している。言ってしまえば、頭脳はオトナ、体は何とやらというやつだ。今ならば、この学校を手中に収めることも夢ではない。
ぬはははは。
百合子は言葉にならない笑い声を心の中で上げた。
しかし、百合子がそうして、若干邪悪な色に染まった心でバスケットボールを弄んでいられたのは、ウォーミングアップまでだった。
パス回しが済んだ後の模擬戦の最中で次第に息が上がり始めた。時間の感覚が間延びしていき、幾度デジタル時計に目を向けても全然時間が経過していない。体が熱を帯びて全身から汗が噴いた。肩から引っさげたスポーツタオルで汗を拭うも、あとからあとから止めどなく汗が流れる。体育館にキュッキュという音が鳴った。
「はあ、はあ」
百合子はもはや限界だった。
それなのに、由美から回って来るパスは未だ勢い衰えず矢のようで、受け止めるたびにひりひりと掌が痛んだ。百合子が恨めし気に由美に視線を送ると、彼女はただ「ダッシュ!」と言って応じた。これではどちらが部長か分からないが、それはいつものことのような気がした。
部活動は控えめに言ってもスパルタで、実際地獄のように辛かった。
全身が沸騰したやかんのように熱くて汗は止まないし、何より体育館はほかの部活の熱気と女子バスケットボール部、主に由美の熱気を加えて掻き回され、サウナでこたつに入りつつ火鍋をつくような暑さを醸成していた。
暑さだけならまだいいが、次第に足がもつれてパスミスをやらかし、その度に檄が飛ぶ。自分のミスから連なって相手チームの得点につながった時は、模擬戦だと言うのに心臓がキュッと締まるような気がした。一刻も早くこの場から逃げ出したいと瞬きを繰り返したが、一向にこの夢から目覚められず、ただ瞼に乗っていた汗が目の中に入るだけだった。
しかし、辛いのは百合子だけではなかった。
誰も彼もが肩で息をして、化粧っ気のない顔を真っ赤に熟れさせる。中には涙目になってボールを必死に追う者もいたし、汗で湿った体育館の床に足を取られて転倒する者もいた。
人一倍声を出している由美とて例外ではない。
彼女は休憩の合間ほとんど口を開くことはなく、スポーツ飲料に口をつけて額の汗を拭った後は、両膝に手をついて大きく息を吸っていた。
そう、皆辛いのだ。
確かに、若い体は無理が利くが、それは若いから辛くないなどということではない。二十五歳の現実の百合子よりも今の百合子の方が体の動きは良かろう。しかし、それだけの違いしかない。
すでに中学の天下統一がどうのなどと身の程知らずを思い浮かべていた百合子の姿は見る影もなかった。むしろ部活動は、精神的に二十五歳の百合子にこそより一層堪える運動だった。百合子は、ほとんどへこたれていた。幾度となく、由美へリタイアを申し出ようかと考えた。
しかし、あと一分、もう少し頑張ろうと思っているうちにデジタル時計へ目を向けるのを忘れるようになった。そうして、宙を飛ぶバスケットボールの行方を目で追い、コートを闊歩するメンバーの存在に意識を集中しているうちに、自分の呼吸が聞こえなくなった。
相手チームのポイントゲッターは決まっている。一番背の高いポニーテールの三年生。ボールを持つ相手チームの二年生は気の弱い性格をしているから、自らシュートを決めに行くとは考えづら。そして、由美が執拗に圧力をかけるものだから、気の弱い二年生はいずれ慌ててパスを出すことになるだろう。
ならば、と百合子は思って誰にも気づかれぬよう、ポニーテールの三年生の背後へ忍び寄りその時を待った。
そして、ついに由美がボールを持った二年生に襲い掛かる。二年生が放物線を描くようにバスケットボールを投げた。落下地点にいるのはポニーテールの三年生。彼女は落ちてくるボールに手を伸ばした。百合子は今だと思って、床を強く蹴って跳んだ。ボールに手を伸ばす。
二人からアプローチを受けたバスケットボールは、納まる先を決められぬというように、二人の手の中から勢いよく跳ねた。そのまま、あらぬ方向へと飛んでいき、場外を転がった。
百合子はボールの奪取に失敗した。
うまくいかなかった。
でも、あと一歩だったような気がする。
百合子は、少し痺れる自分の手を見つめた。
「百合子、ナイスファイト」
由美が言った。
「う、うん」
百合子がそう答えると由美が怪訝そうに眉をひそめた。
「どうしたの、百合子。にやにやして」
にやにや?
それはおかしい。これはつらい苦行なのだから笑うの変だ。
しかし、なるほど体育館の窓ガラスに映る百合子は、確かに怪しげににやにやと笑っていた。百合子は、額ににじむ汗を手の甲で拭いつつ、緩む口元を抑えられなかった。
「真剣にやらないと、舌噛むよ」
そう言って肩で息をする由美へ向かって、百合子は何でもないという風に首を振った。
ただ、と百合子は思った。
毎日デスクでカタカタとキーボードを打ち、面白くもない部長の話に相槌を打っているよりもずっと。
「楽しいなって、思っただけだよ」
吉崎百合子は少女のように笑ってそう答えた。
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