第4話

 結局のところ、事態について行けず流されるままになっている百合子にとって積極的に接触を図ってくる者を拒む理由はなかった。

 田中義久と言えば、やはり百合子の中学校時代の同級生だったが、真鍋由美と違ってそれ以上の情報を記憶から引き出すことが出来ない。それは、そのまま田中と百合子の接点の少なさを何より証明している。

 実際、百合子が田中について覚えていることと言えば、伸びすぎた前髪と日に焼けた裸の文庫本を授業中だろうと休み時間だろうと読んでいたということくらいである。

 歯に衣着せぬ物言いをすることで同級生から畏れられていた真鍋由美に言わせれば田中義久というのは「素直になれないインテリ系根暗ボッチ」らしく、なるほど的を射ていた。

 かつてならば、クラスの中心で輝くことを良しとしていた百合子が、クラスの端っこを定位置とするような田中の如き人間に人気のない場所へ誘われることはなく、たとえ誘われたとしても了承することはなかったが、今ばかりは状況が状況故に、百合子は約束の昼休みになったら一にも二にもなく教室を飛び出して体育館裏へ向かった。

 日影が指し何となくじめじめした体育館の裏側には、すでに素直になれないインテリ系根暗ボッチがポケットに手を突っ込んでいた。

「やっと来た」

 ふてぶてしさを隠そうとせず「やれやれ」と付け足して田中が言った。

 百合子が少し首を傾けて頷くと、田中は続けた。

「さてと、昨日の帰りもちょっと話したと思うんだけどさ、って、おい。吉崎、口開いてるぞ。ちゃんと聞いてんのか?」

「き、聞いてるよ」

 聞いてるけど。

 田中の声には覚えがあった。

 つい最近彼の声を聞いたような気がしたが、田中とは中学卒業以来会っていない。すでに百合子は成人を迎えていたから、成人式やその二次会では中学時代の旧友たちと顔を合わせていたものの、さして仲の良くなかった異性である田中とは、成人式でさえ会っていなかった。

 ではどこで、彼の声を聞いたのだろうと考えて百合子はひらめいた。

「もしかして、朝の男の子って田中?」

「朝の男の子? 何の話だ?」

「え、ほら。朝電車で起こしてくれたでしょ、私のこと」

「さあ、知らんけど。というか、男の子に起こされたんなら俺じゃないだろ」

 百合子の頭にクエスチョンマークが浮かんだ。記憶の中の田中義久は男子生徒のはずだったが、今目の前にいる田中は違うのというのか。不可解だ。

「だって」と田中が続けた。「俺は吉崎より背も高いし成績も良いんだ。「男の子」なんて呼ばれ方はおかしい」

「なにそれ」

 なんだその理論はと思って百合子は少し眉間にしわを寄せた。そして、やはり真鍋由美が田中義久のことを「素直になれないインテリ系根暗ボッチ」と称したことに妙に得心してしまった。

 ふんぞり返って持論を披露した田中に言い返す気力さえ持たない百合子は口を閉ざし、兎も角も田中の用件を聞くことにした。

 田中はわざとらしく咳払いした。

「それで、俺がお前をここに呼んだ理由はほかでもない。体育館の使用権についてきちんと話し合っておきたいんだ」

「はあ?」

「はあ? じゃないよ。昨日もちょっと話したろ? 梅雨に入ってグラウンドが使えないから、体育館の使用について他の部に口を利いてほしいって。ほら、もうすぐ最後の大会も近いだろ。だから俺たちも広いところで練習したいんだよ」

「うーん、いまいちぴんと来ないんだけど」

「ぴんとこないって、お前ね、一応女子バスケット部の部長だろ。も少ししっかりしないと、また真鍋にどやされるぞ」

 女子バスケット部の部長と言われ、百合子はポンと手を叩いた。

「ああ、そう言えばそうだった」

 百合子にとって青春真っただ中だった中学生の頃は、確かに女子バスケット部に入部し、二年生の後半から引退までは部員たちの推薦によって部長の肩書を有していた。

 なるほど、そう考えると「体育館の使用権について話したい」という田中の言葉も朧気ながら概要が掴めるというもの。

 百合子は、記憶をたどりながらぽつぽつと言った。

「ええと、たしか、体育館の使用権は各部の部長たちで話し合って決めてるんだよね。それで、田中の部も体育館を使いたいからっていうんで、私に話を通しに来たってこと?」

「まあ、大体そうだな」

「ちなみに、田中ってどこの部活だったっけ?」

「野球部だけど」

 野球部と聞いて胸がチクリと痛んだが、百合子は気づかないふりをして続けた。

「そう、なんだ。ふうん。でも、田中って部長じゃないよね、何で田中が話に来たの?」

 田中は手をふらふらさせて言った。

「ま、うちの部にもいろいろあるっていうことだよ。だいたい、今さら体育館を使おうとすること自体、全部遅いんだよなあ。体育館の使用権は一月も前から部長たちで話し合われて決まってるんだろ? そこに割って入ろうっていうんだから、全く俺も貧乏くじを引いた」

 田中は不平不満を口にし始めたが、そんなことを言われたところで、百合子にはとんと関係がない。

 それよりも、百合子の頭を支配していたのは、このイベントについてだ。

 いくら百合子が頭をひねろうとも、体育館の使用権について話すため田中から体育館裏に呼び出されたなどという記憶は見当たらなかった。

 そもそも百合子にとっての田中は、日常の一部と化した名もなきクラスメイトAに等しく、クラスメイトAがクラスメイトA足り得たのは、彼との間に何らの印象的な出来事も生じなかったゆえだ。

 しかし、田中は今まさに体育館裏の日陰に居て、零れ落ちそうな曇天を睨んでいる。

 もしも、中学時代に「田中が百合子を呼び出す」というイベントが在ったのならば、これほどインパクトの強い出来事を忘れるということは考え難い。

 真鍋由美や田中義久をはじめとした学友たちの存在が記憶の通りにも拘らず、生じる出来事と百合子の記憶との間に齟齬が見られる。

 これはどういうことか。

 一連の異常事態を夢の中で中学時代の記憶を辿っているだけなのだろうと得心していた百合子にとって、記憶と出来事の差異というのは見逃せない。

 もしも、今百合子が立っているこの体育館裏や教室にいる人々やそのほかすべてが、百合子の頭の中で再構成された記憶でないのだとしたら、ここはどこだろう?

 まさか、本当に。

「なんだよ、死にそうな顔して。悩み事か? ま、体育館の件もあるし、聞いてやってもいいけど」

 田中が偉そうに言った。百合子は少し腹が立った。

 腹は立ったが、しかしひとりで考えていたところで埒が開きそうになかったし、何より田中義久は「素直になれないインテリ系根暗ボッチ」と称されるだけあって打ち解けている友人も少ないだろう。ここで百合子がこの異常事態を説明しても面白半分に吹聴する相手もいまい。

 いや、それよりも何よりも。

 大方、今生じている事態はすべて夢なのだか気を揉むこともあるまい。

 そうして、吉崎百合子は持ち前の楽天的性格を改めて自認したのち、目の前で腕を組んでちらちらこちらを窺う少年に向かって、今朝から生じている不可思議な出来事について包み隠さず話した。

「うん、実は――」


「はあ、なんだよそれ」

 田中義久が、想定される答えの中でも最もテンプレートな反応を見せたのを最後に、百合子は口を閉ざしてブレザーの裾をキュッと握った。

 百合子は田中にすべてを話した。

 自分が本当は二十五歳になった大人の吉崎百合子であり、昨夜の誕生日に彼氏とデートする予定だったが喧嘩してしまい、その帰りに電車に乗っていると、気が付けば夜が明けていて、少年に起こされ、真鍋由美出会い、彼女に手を引かれるまま学校へやってきた、と。

 今思えば、彼氏と喧嘩して、などということは、話す必要がなかったんじゃないかと思ったが、すでに話してしまったのだから仕方がない。やってしまったのはやってしまったのだ。

 田中がもろ手を挙げた。

「ま、正直言って、大丈夫かお前っていうのが本音だな。ふざけてるんだとしたら小説家になれるし、本気なんだとしたら病院行けよ」

 存外まともなことを言うやつだった。腹を抱えて笑っていないあたり、田中に人の好さを感じてしまった。

 しかし、もちろん百合子は真実をそのまま語っているのであって一欠けらの嘘も交えていないうえ、病院に行って解決できるような問題でもないような気がした。

 百合子はただ口をつぐんで渋面を作るしかなかった。

「そんなに顔のパーツを中心に集めるなよ」田中はそう言うと、縁石に腰を下ろした。「まあ、まだ休み時間あるから、もう少しその話、聞いてやってもいいけど。その、未来の話っていうやつ」

 田中はそう言って、頬を掻いた。

「ほら、吉崎も座れば? ずっと立ってるの疲れるだろ」

 百合子がこの時、田中に抱いたのは、変わったやつだという印象に過ぎない。

 到底信じられないであろう与太話の続きを真剣に促す彼の心情は計り知れなかった。ただ、百合子の胸にろうそくほどの大きさの炎が灯りほんのりと暖かな気持ちになったものも事実だった。

 田中に促され、百合子は彼の隣に腰かけて、高校入学から大学生活、社会人になってからのことなどを主観的な経験則に従って話していった。

 しかし、田中は良い聞き手ではなく、相槌もまばらで何より愛想が良くなかった。自ら百合子の話を聞きたがったくせに、空の様子を覗うように天ばかり仰ぎ「ほー」だの「へー」だのと口にする。何となく偉そうな雰囲気があった。

 ここで社会人経験豊富な百合子の脳裏にひらめきの電球が灯った。

 田中のような態度では社会の荒波を渡ってゆくこと叶わず、いずれ大嵐に見舞われ沈没してしまうかもしれぬ。よし、ならばここで学生気分の中学生に少し説教してやろうか、と。

 百合子は自分ですら、自らの高慢ちきな話し方が鼻につくほど偉そうに、十も年下の中学生に働くことの意義や労働の喜びについて熱弁した。そうして、働くことがいかに大変かを語っていると、田中が顎先をつまみながら「へえー。やばーい」と言った。

 自分が空虚で阿保らしいことをしているような気がしてきて、「まあ、そんな感じ」と言って百合子は話を結んだ。

「なるほどね、吉崎も大変なんだな」

「やっぱり、信じられないよね」

 田中はゆっくりとうなずいた。

「そりゃあね、信じろっていう方が無理だと思うぞ。たとえ、吉崎がいつもより俺に偉そうな態度をとっても、やっぱり俺の目に映ってるのはいつもの吉崎だし、正直吉崎が変わってるのはいつものことだし」

 田中はそこで一度言葉を切って百合子の様子を覗った。そして、百合子が肩を落としてしょぼんとしているのを見て、咳払いをした。

「でもさ、百歩譲って今の吉崎が本当に未来の吉崎だっていうんなら、それはそれで楽しめばいいんじゃないの?」

「楽しむ? 楽しむって、この状況を? でも、私にもほら、元の生活があるし、会社に休むって連絡も出来てないのに」

 田中が嘆息した。

「案外たくましいのな、吉崎って。もしもほんとに未来からやって来ちゃったっていうなら、最初に心配するのは会社のことじゃなくね。まあ、仕事が好きならそうなんだろうけど」

 揚げ足を取られた百合子はむっとして田中を睨んだ。

 田中は怯みもせず、もろ手を挙げた。

「楽しむって言ったのはさ、それくらいしか今の吉崎に出来ることがないんじゃないかっていう意味だよ。ちょっと旅行に来たくらいの気持ちでいればいいんじゃないの?」

「ええ、それって楽観的すぎない? 旅行って」

 一応、帰るめども立たない異常事態の直中なのだが。

 田中は「まあ聞けよ」と言って、文句を言おうとする百合子を押しとどめた。

「正直、俺は別に昔に戻りたいとか思ってないし、というかさっさと大人になって自立したいと思ってるんだけど、でも、昔に戻りたいか、戻りたくないかと、そう言うことに関係なくさ、きっと昔に戻れることなんてことないだろ。だから、もしも本当に昔に戻れたんなら、もちろん戻り方を探すのもそうだろうけど、少しは楽しんでもいいんじゃないのか。こんな機会、めったにないだろし」

「うん、まあ。それは」

 そうかもしれない。

 夢にせよ実際に過去に来てしまっているにせよそうでないにせよ、今の百合子になすすべはない。

 それにしても、と百合子は思った。

「ねえ、田中」

「ん、何?」

「私は、昔に戻りたかったのかな?」

「さあ、知らない」田中は無関心にそう言うと、縁石から立ち上がった。「それより、体育館の使用権の件、ちゃんと頼むぞ。昼休みつぶして相談も乗ってやったんだから」

「あ、うん。分かった」

 百合子はぼんやりとそう言うと、零れ落ちそうな空を睨みつける田中の後を追って校舎へ入って行った。

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