第3話

 何が何やら分からなくて混乱していても、パニックに陥り叫ばないのは吉崎百合子の吉崎百合子たるゆえんだったが、あるいはただ状況について行けず叫ぶべき言葉すら頭に浮かばなかっただけでもあった。

「それでは、今日は教科書の四十ページ、二次方程式の続きからやります」

 百合子は、中学校にいた。

 妹や姪っ子の授業参観に来たのではない。百合子自身が学生として着席し、教壇に立った先生の講義を受けていたのだ。

 すでに成人して久しい百合子が十四、五才の子供たちと肩を並べて勉学に励んでいるというのは想像するに滑稽だったが、それはあまり問題にならない。

 百合子を中学校に連れてきた真鍋由美にしろ、ほかの学生たちにしろ、教諭たちにしろ、誰一人として百合子がこの場にいることに疑問を覚えないらしく、廊下ですれ違えば挨拶をしてくる者さえいた。まるで、こここそが百合子の居場所であるかのように。

 いや、実際この中学校には百合子の居場所があったのだ。

 三年三組。

 そう掲げられた教室の窓側後ろから三列目には百合子の席がきちんと用意されていた。

 いたずらにしても手が込みすぎている。

 これだけでも、もはや十分に常軌を逸した事態だったが、輪をかけて百合子の頭を混乱の渦に叩き落していたのは、真鍋由美らの存在だった。

 真鍋由美は、百合子の同級生だった。家が近所という理由から親しくなり、小学校、中学校と多くの時間を共に過ごした無二の友人だった。

 その真鍋由美が今まさに、十四、五才の姿で、ダサい制服に袖を通して座っているのだ。これはどういうことか。よくよく見てみれば、見覚えのある顔は由美に限ったものではなく、百合子の隣の席に座るポニーテールの発育の良い女の子は記憶の中の森口まりあと重なるし、教諭から居眠りを注意された男子生徒も名前こそ出てこないがよく知っていた。

 しかし、誰も彼もが百合子の同級生であって、言い換えればすでに成人して久しく、彼らのうち多くは社会に出て働いているはずだった。少なくとも、子供の姿になって中学校に再度通っている暇はないはず。

 この状況は何か。

 どうなっているのか。

 そもそもいつの間に夜が明けたのか。

 なぜ中学校に連れてこられたのか。

 というか会社に欠勤の連絡を入れなければ。

 ああでも何といって言い訳をすればいいのか。

「吉崎、ちょっといいか?」

 頭を抱えていた百合子が声につられて顔を上げると、そこには伸びすぎた前髪から鋭い眼光を覗かせる不健康そうな男子生徒が立っていた。いかにも武骨と不愛想を絵にかいた様相で、友好さのかけらもない。モテない男を具現化したかのようだった。

 百合子が悶々と頭を抱えているうちにすでに授業は終わっていた。

 勉強からしばし解放された学生たちは短い休み時間を思い思いに過ごし始めていた。あるものは友人と語らい、あるものはプロレス技をかけあっていた。

 その中にあって、ひとりの男子生徒が百合子の机に手を置き、不躾に声を掛けてきたのだ。

 百合子は眉をひそめて男子生徒を訝しんだ。

 彼は、慌てて百合子から目を逸らす。

「な、なんだよ。何見てんだよ」

「え、あ。ごめん」

「いや、別にいいけどさ。それより、吉崎。昼休みちょっと時間あるか? 校舎裏まで来てほしいんだけど」

 百合子は、少年の問いに対してうーんと頭を悩ませたが、頭をよぎっていたのは昼休みの予定ではなく、この少年についてだった。

 そして間もなく、百合子の頭にひらめきの電球が灯った。

「あ、田中。田中だよね。うん、田中義久」

 名前を呼ばれた少年改め田中義久は、驚いて半歩後ろに下がり瞬きを繰り返した。

何となく偉そうで、ふてぶてしい様子をしているくせに小心者の雰囲気がにじみ出る田中は、唇を尖らせて言った。

「な、なんだよいきなり。あ、言っとくけど、勘違いするなよ。別に、そういう、あれじゃないからな。昼休みに校舎裏とか言っても、全然、違うから。ほんとにちょっと事務的な話をするだけって言うか」

「うん? ちょっと事務的な話をするだけならここでもいいんじゃないの?」

「よくないの。まったく、これだから吉崎は」

 何やらあきれたように田中は言ったが、百合子は釈然としない。

ただ田中は有無を言わせず一方的に約束を叩きつけると、もう百合子に用はないというように、立ち去って行った。

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