第2話
「なあ、おい。気持ちよさそうに寝てるところ悪いけど、もう学校だ。吉崎は遅刻しても気にならないらしいが、そこまで付き合いきれないよ。さあ、どいてくれ。十五分も肩を貸してやったんだ、もう十分だろ」
その声を聞いた百合子は、ゆっくりと瞼を開いてあたりを見回した。しかし、起きたてのように視界は霞んでしまってぼやけている。声を掛けてきたのは少年らしいが、姿はシルエットしか分からない。
寝ている、と言われたがいつの間に寝たのだろう。意識がはっきりしない。
少年は嘆息して百合子に背を向けた。
「やれやれ。やっと起きたか。それじゃ、俺は行くから。吉崎も遅れない方がいいぞ。内申に響くんだから」
ナイシン? ナイシンて、ナイシン?
それに、あなた誰?
何が何やら分からない。
待って、と思って伸ばした手が空を切った。目をこすって目を開いたが、少年の姿はない。
慌てて立ち上がり、電車を飛び出た。プラットホームに声の主の姿を探すが、アリの巣を突いたように、いたるところに学生服姿があって誰が誰やらわからなかった。
「ちょっと、君」
顎に手を当てて考えるポーズをとっていた百合子におじさんが声を掛けてきた。
百合子は、借りてきた猫のように警戒心を隠そうともせず、おじさんをまじまじと見た。
おじさんは、驚いたように目を開いた。そして、少しばつが悪そうにぷいと百合子から目を逸らし、頭を掻いて言った。
「君、カバン。電車の中に置きっぱなしだったでしょ」
「え?」
聞けばこのおじさん、百合子の目の前の席に座っていたサラリーマンらしく、百合子が飛び起きて電車から出て行くのを見ていたのだという。そして、百合子のいた席にポツンと残されたカバンを見つけて百合子を追ってきたらしい。
なんだ、いい人じゃないか。
「はい」
「あ、ありがとうございます」
おじさんは百合子に空色のカバンを渡し、百合子はそれを受け取った。
「あれ?」
しかし。
これ、私のバックじゃない。
おじさんに渡されたのは、なんともいえぬ風合いの空色の大容量カバンだった。都内のオフィスに勤務する百合子が使っているブランドバックとは似ても似つかない。
「あの、これ私のじゃ」
「百合子!」
言いかけた百合子の言葉が最後まで紡がれるのを待たずに割って入る声があった。
今度は何だと思って、顔を向けるとそこにはひざ丈スカートを揺らすおさげ髪の少女がいた。
電車の中で見かけた女学生に負けず劣らず牧歌的な風体の少女は、ぽかんと口を開けている百合子を見ると、びしっと指を立てた。
「まだこんなところでぼやぼやしてたなんて。それに、聞いてたよ。バック電車の中に置きっぱなしにするんなんて。もう、ぼうっとしすぎだよ」
百合子が少女の剣幕に押されてたじたじになっていると、「じゃあ、私はこれで」と言って気のいいおじさんが去ってしまった。
「あ、ちょっと待って」
「百合子、ほら。早くしないと」
少女はそう言って、強引に百合子のバックと手を掴んで歩き出した。
百合子は、もちろんのこと突然現れた少女に並々ならぬ警戒心を寄せていて、たとえ相手が野暮ったい女子学生然としていても、彼女の裏には秘密の麻薬密売組織が潜んでいるのではないかと想像した。
それにも拘らず、百合子が少女になされるがまま、手を引かれていたのは、もちろん寝起きのように頭がぼうっとして考えがまとまらないというのもあったが、それよりも、この少女の容貌と強引さに覚えがあったからだった。
いや、でも、まさか。
少女が彼女のはずがない。そんなわけはないと、霞が掛かった頭で否定を繰り返したが、少女のカバンについている不細工なキャラクターのキーホルダーを見て、思わず口から言葉が出ていた。
「もしかして、由美? 真鍋由美?」
百合子がそう言うと、突然少女が立ち止まって百合子の手を離した。
少女は振り向いて、百合子の顔をまじまじと穴が開くほど見つめた。
「百合子、もしかして熱でもあるんじゃないの? カバンを電車に置き忘れたっていうのも、まあ百合子ならあり得るけど、熱のせいっていうことも考えられるし」
少女はそう言って百合子のおでこに手を当てた。少女の顔は百万円を賭けたクイズバトルの挑戦者のように真剣そのもので、真に百合子の身を案じているようだった。
その姿を見て、百合子の心に灯った炎が勢いを増し、記憶の本棚にしまい込まれていた「真鍋由美」の姿が色鮮やかによみがえった。
百合子は言う。
「本当に、由美なの?」
「何言ってるの? 本当にって、どういうこと?」
「え、だって」
しかし、由美は百合子の返事を待たなかった。
「それより、急ぐよ。本当にもう、このままじゃ遅刻する。百合子、この時期に遅刻なんてしたら内申に響くよ」
またナイシンか、と思う百合子をよそに由美は百合子の手を引いて勢いよく駆けだした。
百合子は、仕方なく由美に従って、いつの間にか夜が明けている空のもとを走った。
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