恋愛小説

ひょもと

第1話

 その日、吉崎百合子が誕生日にも拘らず終電より三本も早い電車で家路についたのは、付き合って三か月になる彼氏と激しく喧嘩したためだった。

 さもなくば、今頃は彼氏の部屋でしっぽりとアツい夜を過ごしていたはずで、少なくとも独りきりで大学生グループが騒ぐ電車に乗ることもなく、駅前で禿げたオヤジに気安く肩を触られることもなかった。

 百合子は、人知れず「はあ」とため息をついた。

 三歳年上の彼氏とは、友達の紹介で知り合った。名前を山岸恭二と言い、大手広告会社に勤めるサラリーマンだった。身長が高く体つきががっちりしている割に、腹は出ていない。少し褒めると頬を染めて微笑み「ありがと」と素直に言ってくれるところが、百合子は好きだった。

 それなのに。

 百合子は再びため息をつき、電車の窓ガラスに映った自分の姿を見た。

 せっかく買ったワンピースは霞み、髪はぼさぼさ、化粧も取れかかっていた。

 恭二と喧嘩した理由は、今思えば大したことではなかったが、同時に今思い出しても腹の中で蓋をした釜が煮えくり返りそうだった。

 今日、六月十三日は、百合子の誕生日だった。二人はひと月も前からデートの約束をしていた。当日は平日ということもあって、一日遊ぶことは出来ない。だから、ちょっと奮発したいいレストランで夜景でも見ながらディナーを楽しもうという計画だった。

 百合子は今日のためにずっと準備を重ねてきた。この日のためにワンピースも新調したが、結局日の目を見ることはなかった。

 恭二は、待ち合わせの時間になってもやって来なかった。その代わりに、百合子の携帯がバイブレーションで揺れた。百合子は着信したメッセージを開いた。

「ごめん。仕事が入ったから、ちょっと遅れる」

 恭二からのメッセージだった。

 これだけでも十分、百合子が不機嫌を振りまくに十分だった。百合子は、さしずめ奈良は東大寺の門に設えられた阿吽像のごとき形相で恭二を待ち構えた。

 一時間後。

 そこにのこのことやってきた恭二。

 彼氏の姿を双眸に捉えた百合子は、恭二の普段と何ら変わらない穏やかでぼうっとした表情を見て一瞬のうちに、胸の内に雷雲を発生させたが、落雷が生じる前に思い直した。

 こんなことくらいで怒るなんて狭量よ、と。

 まだ少し胸に引っかかりを感じていたものの、この後の時間を目いっぱい楽しもうと思った百合子は無理にも口角を釣り上げて笑顔を作り、軽い足取りで恭二のもとへ歩いて行った。

 しかし、百合子の足は三歩目で静止してしまった。

 恭二の隣に寄り添う、黒髪の女を認めたためだ。

 実際のところ、件の女は百合子の予期したような邪な存在ではなく、ただの恭二の同僚だった。帰り道が同じ方向だったから共に歩いていたに過ぎない。

 しかし、頭に血を昇らせて口火を切ってしまえば、それはあまり関係がなかった。

 そこから先は最悪だった。


 

 電車が跳ねるように揺れた。次の駅が迫っているのだろう。

 手すりにも掴まらずぼうっと突っ立ていた百合子は、思わずよろけてしまい、深く深く埋没していた意識を表層に戻した。

 二日酔いでもしているかのように重たい頭を持ち上げて、鏡のように車内の様子を写す窓ガラスを覗いた。

 やはりそこには疲れた顔の自分がいたが、今度はそれだけではなかった。

 ガタン、ゴトン。

 ふと、目に留まる。

 電車の窓ガラスは、百合子の後ろにいる女学生を写していた。

 少女は、今時珍しくひざ下丈のスカートをきっちりはいていた。手に持った空色のバッグと古岩に生えた苔のような色の制服はいかにも田舎臭い。頭の左右から垂れたおさげ髪もいい塩梅に野暮ったさを演出する。

 常ならば気に留めるような相手でもなかったが、彼女の何とも言えない風合いの田舎臭い制服に、百合子は見覚えがあった。

 それは、ほんの十年前に百合子も袖を通していた制服だった。

 今でこそ百合子は、新進気鋭のエリートサラリーマンと大人の付き合いが出来るような大人の女だったが、せいぜい十年前は、少女のようにダサい制服を着て毎日変わり映えのしない青春を謳歌していた。

 あの頃から今へと至る軌跡に思いを馳せ、色々なことがあったとぼんやり考え始めてみると、付けすぎた洗剤が皿の上で跳ね上がったように、思い出がいくつも浮かんだ。

 あの頃は、女子バスケットボール部で毎日汗を流していた、あの頃は、腹の底から笑い合える友達がいた、あの頃は、大好きな人がいた、あの頃は毎日が途方もなく楽しかった。

 確かに、すべてが楽しかったかと言われるとそうではない。今にしてみれば大したことない出来事で何度も枕を濡らし、人に言えぬ悩みと共に夜を超えた。当時は、とても辛かった。

 けれども、辛かったことや苦しかったことも含めて「楽しかった」と思えた。そして、むしろ辛かった思い出こそ、今では胸の中で確かな輝きを放ち、自らこそが青春の正体であると主張していた。

 ガラス窓に写る制服姿の女学生が揺れた。

 ふいに、在りし日の自分の姿と重なる。

 今とは似ても似つかない、野暮ったい吉崎百合子の幻影が見える。

 その姿に青春の残り香を感じ、一抹の寂しさが百合子の胸を撫でた。二度と戻らない日々への望郷を感じ、出来るならもう一度と思った百合子は、長い瞬きをした。

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