第35話 牧野美香
「これって…終わったってこと?この映像が出たってことは、美香が消えてプログラム終わったんだよね。」
博美は、奈美の方に視線を送った。
「懐かしい…。」
奈美はモニターを見て、無言で、涙を浮かべていた。
「という事は、もうすぐ、隣にいる主人格の方の美香が目覚めるってことだよね。」
高野は、モニターの画像を見てから、隣の部屋を指して言った。
「そうね、私もまだ会った事ないかも。」
赤野は、夢の中の画像を切り、美香が眠っているベッドのモニター画像を、大きなモニターに切り替えた。そして、処置台に向かって補液の準備を始めた。
「赤野さん、美香先生って大丈夫なの?バイタル気にしてたけど。」
輸液のミキシング作業をしている赤野の背中に向かって、博美が聞いた。
「博美さん、あなた本当によく見てるわね。あのね、美香先生の姿が消えかかってた時に、徐脈になったのよ。そのまま、心停止になるんじゃと思ったくらい。でも、今は正常、大丈夫ね。」
「そっか、そう言えば、波形が延びてたな。プログラム中は何が起こるか分かんなかったものね。」
博美たちの会話とは温度差があるらしく、奈美は思いつめた表情をしていた。
「奈美さん、なんか、怖い顔してる…。」
奈美が口を開いた。
「あのね、結局、久住が作った別人格の美香が、犯罪者を利用して、私たちを巻き込みながら自分の研究を極めたってことよね。浜本先生とかも、それを知りながら、傍観していた人たちもいたってことね。こんなもの、見せられても、私の人生が変わるわけでもない、高野さんのお父さんが戻ってくるわけでもない、博美さんの指輪にしても、直哉さんを亡くなった悲しみを癒す時間が戻ってくるわけでもない。もし、久住が何もしなくても、もっと、ひどい人生だったかもしれない。でもね、起こってしまったことをどうにもできなくても、高野さんにお金を返していてくれたら、博美さんの指輪を返していてくれたら、私の母の記憶を返していてくれたら、少しでも、違った気持ちで生きられたかもしれない。」
奈美の頬は徐々に紅潮し、興奮を増し、勢いづいた声に乗せて、一気に吐き出した。
「そうよね。奈美さんは、すごく辛い思いしてるわ。私なんて、指輪が見つからなくても、大した事ではないもの。奈美さんは、自分がどこの誰か分からないなんてね。人生変えられたんだから。」
「ごめん、つい…。何を言ったってしょうがないのは分かってるわ。でも、言いたいのよ。どうしたらいいのか分からないのよ。」
奈美は座り込み、頭を床につけ、両手で床をドンドンと叩いた。
「奈美さん、ずっと辛かったよね。言いたい事、みんな吐き出して…。」
膝をついた博美は、言葉に詰まりながらも涙をこらえ、疲れ果てた奈美の背中を擦りながら、そう言って、言葉を続けた。
「ね、吐き出したら、新しく始めよ。私たちも前を向いて頑張る。ね、高野さんもそうでしょ。」
「そうだよ。自分なんか、こんな歳でも、将来考えてるんだ。奈美さんの明るさが、私たちを助けてくれた。上手く言えないけど、そんな奈美さんが前を向いてないなんて、ダメだよ。」
「ありがとう、みんな。分かってるのよ。分かってるの…。」
「みんな、美香先生が目を覚ましたわ。」
補液の準備が終わり、モニターを見ていた赤野の声に、奈美も立ち上がった。
美香は、ゆっくりと瞼を開け、天井を見つめていた。
「誰か、ここに来て…。」
小さな声を、マイクが拾った。
「身体ってこんなに重たかったけ…なんだか、ずっと眠っていたみたい。」
赤野は、準備した補液をトレーに乗せ、美香の枕元に立った。
「先生…。あの、私の事分かります?」
「分かるわ。でも、話したことは、ほんのわずかね。」
美香が、赤野の方に顔を向け、弱々しく答えた。
「そうですか。他の方たちの事も分かりますか?」
美香は頷いた後、再び天井を見つめながら、話を続けた。
「知ってるわ。もう一人の私の記録から、だいたいは把握はしてる。でも、この目で見たことなのに、覚えてない事がほとんどね。ふう、しばらくぶりに、この世の出てきて浦島太郎の状態って、こういう感じなのね。しっかりと自分の目で見て、こんなに自分の言葉で話したことなんて久しぶりだわ。そんな浦島太郎の私でも、自分がどんな事をしたのかも分かってるわ。他人ではないのよ。私自身だってこと…。」
「すみません、先生。お名前確認します。浜本美香先生、でいいですか?今から点滴しまようと思うんでが。」
「私、牧野美香の記憶しかないのよ。でも…そう、浜本美香です。どうぞやって下さい。」
赤野は、処置を進めながら、美香に声を掛けた。
「あの、美香先生、先生は、これからどうするんですか?」
「そうね、医師としてはもう仕事はしない。別人格の私がしたことを整理するわ。赤野さん、そのためにこの研究所をしばらく貸してほしいんだけど。」
美香の声に、少しずつ、力が戻ってきた。
「私はそんな判断する権限はないですよ。美香先生の方が、この場所の責任者になってるんじゃありませんか。」
「先生、私は、もう、そんな権利無いわ。分かるでしょ。」
「相談してみます。でも、美香先生、ここで作業するって言うけど、ご自身の今の病状は大丈夫なんですか?治療はしないんですか?」
「そうね、治療はしない。このままの自然の経過で最期を迎える。これは罪の意識からではなく、治療による身体や気分の変動が、またあの人が出てくる可能性があるのよ。そんな気がする…。あの、ごめん、赤野さん、ちょっといいかしら。奈美さんを呼んで欲しいの。」
モニター越しに、赤野との会話を聞いていた奈美は、眉間にしわを寄せた。
「何言ってるのよ。卑怯よ。私が言いたい事言ったら、またあの鬼が出てくるかもしれないってことじゃないのよ。」
奈美の小言が聴こえたのか、赤野が、モニター越しの奈美に声を掛けた。
「奈美さん、色々思う事あるとは思うけど、こっちに来て欲しいの。」
奈美は、溜め息をついてから、ドアを開けた。
「ありがとう。あなたが奈美さんね。あ、花香ちゃんか。面影があるわ。あなたが心配してるもう一人の私だけど、大丈夫よ。あの人が出るのは、精神的な侵襲と身体的な痛みが重なる事が、別人格が出現するトリガーとなるみたいだから。奈美さんに、色々と言われても問題ないわ。」
明らかに、違う人物である。目つき、物腰、口調、容姿は同じでも、中身が違うと感じる。AIでもこの人が微妙に感じる違いを分かるだろうか。たくさんの多重人格のデーターを経てその変化を察知できるのだろうが…。どう関わったらいいのか教えて欲しいものだ…。
奈美は、数秒の間、こんな事を頭に巡らせながら、目の前の知らない美香との対峙をどうするか考えていた。
「あなたのお母さんの事話しましょうか。妹の里香の事。」
奈美の気持ちを察したのか、美香は話題を変えてきた。
「えっ、えぇ、お願します。」
「里香はね、まぁ、可愛かったわね。妹って、可愛がられるものなのよね。でも彼女は特別だったわ。父も母も、里香はちょっと身体が弱かったのもあるけど、私の方は、放任されて育ったから、ちょっと嫉妬してた。一緒に遊んだりもしたけど、みんな、彼女に寄って行くのを感じてたのよ。でもね、里香が子どもが出来て結婚することになった時は、嬉しかったわ。ほんとに。姉としてね。まあ、正直言えば、久住先生から彼女が離れるんだって事も思ってた。それなのに、そんな幸せなはずの里香は情緒不安定だったのよ。何でって思ったものよ。贅沢だわって。」
時折、奈美の方に顔を向けながらそう話をした。
「あなたは、元々そういう思いが根底にあったのね。多重人格か何か知らないけど、結局は、奥底に思ってた事が、表に出たんでしょ。多重人格は言い訳の道具よ。あなたがしたことに変わりないわ。」
「そうね、私も、そのことを盾に、事を正当化しようなんてこと思わないわ。私がしたことは許されることではない。罪は償うつもりよ。本当にごめんなさい。」
美香の淡々とした喋りに、奈美の口調は強くなった。
「あんたがどうなっても関係ないわ!あんたの罪が、研究として隠蔽されて、何も起こらなかった事になってたでしょ。それに腹が立ってたのよ。あなたの言った事に嘘がないと信じたいけど…。今のあなたを前に、どう気持ちに持っていけばいいのよ!ああ、私ももう一人の奈美が出てこないかしらね!」
「奈美さん、大丈夫?」
高野と、博美が、奈美の傍へ駆けつけた。
「ごめんなさい。なんか、もう疲れた…。」
「そうね、奈美さん、ゆっくり休んだ方がいいわ…。」
「それが良いよ。奈美さんは、いつも無理してしまうから、ここは自分たちのいう事を聞いて欲しいな。」
「博美さん、高野さん、ありがとう。心配かけてごめん。」
奈美は、側にあった椅子に、ぐったりと座り込んだ。
「美香先生も、少し眠って下さい。補液終了したら、採血します。少し検査しますよ。」
「赤野さん、もう、いいわよ。何もしなくても。」
「治療はしなくても、今の状態を知っておかないと、余命知りたいんじゃないんですか?」
「赤野さんってすごいわね。相当勉強したでしょ。」
「そうですよ。美香先生を補助しなくてはいけないんですもの。知識無いと、出来ません。」
「知識だけじゃなくて、対応能力よ。普通は、そこで治療進めるでしょ。」
「そうね、本来ならね。まぁ、美香先生の場合、罪を償うために、余命を伸ばして欲しいって言うわね。でも、またあの美香が出てくるかもしれないと言うのも、分かる気がする。どっちを取るかって、後者ね。」
「なるほどね。私の身体、あなたに任せるわ。あとは、警察にどう話せばいいのか…。」
「加藤さん、出番よ。」
加藤は、博美の声に、慌てて奈美の元へ走り寄った。
「あ、そうだね。周りはもう色々動いてるけど、この場所の事をどう説明すればいいのか。」
「私と浜本先生で説明するわよ。どこまで分かってくれるかどうかわからないけど。」
赤野は、浜本の腕を取って、加藤にそう言った。
「弁護士は加藤さんのお兄さん?」
「いや、博美さん、それはどうかな。兄貴、奈美さんの方に感情が寄ってるからな。冷静には判断できないかも。」
「浜本先生、美香先生は、この研究所にいてもいいの?動かすのはちょっと厳しいです。美香先生ももう一人の美香がしたことを把握したいって言ってるし。」
「院長に相談してみるよ。警察の方で容疑が固まれば、逮捕という事になるが、時間はかかるかもしれないな。それまでは、ここでという事になるが、この研究所での証拠隠滅の可能性もあるとみなされるだろうから、どう判断されるか。」
「加藤さん、頼りにしてるんだから、頼むわよ。」
「責任重大ですね。まだ、ここで見たことが信じられなくて、こっちが夢を見ている感じです。自分も頭整理しないと、署に帰っても、納得できる説明に自信ないです。」
「みんな同じね。そうだ、話変わるけど、ね、奈美さん、温泉にでも行こうよ。高野さんも。」
「えつ、自分も?っていうか、話変わりすぎだよ。」
「そうよ、当たり前でしょ。3人で行きたいの!良いじゃない。頭切り替えないと、私、無理!他の事しようと思っても、身が入らないのよ。」
「分かった、分かった。富山なんていいかもね…。あ、ごめん。奈美さん、やっぱしんどいかな。」
「いえ、大丈夫よ。そうね、博美さん、ありがとう。ミイばあちゃん、タカじいちゃん、お母さん、そして、本当の奈美ちゃんのお墓参りもしなくちゃね。そうよ、もう決めた!行くわよ。富山の温泉!」
奈美がすくっと立ち上がった。
「えっ、奈美さん、大丈夫?」
「何が?ぐずぐずしてるから、色々考えてしまうのよ。」
「やっぱり、奈美さんだな。白か黒だね。」
「奈美さんの中にも誰かいる?何か、急にテンション上がったんけど。怪しくない?」
「いるかもね。鬼奈美が。」
奈美は、そう言って、吹っ切れたかのように、二人の手を取り、研究所を後にした。
駅までの並木道は、風で揺れた木々が葉を鳴らし、ざわざわとしていた。折れた枝からは、いくつもの雫が垂れ落ち、踏みしめる度に跳ね飛ぶ草むらの大粒の露が、進む3人の足元を濡らした。
「大雨でも降ったのかしら。なんだか美香の夢の中の嵐の後みたいね。」
何かが、静かに奈美の肩に、そっと乗った。
うそ、さくら?えっ、もしかして、これも…夢の中?
はらはらと舞い落ちてくる、桜の花びらを目で追いながら、3人は、同じ事を考えた。
顔を見合わせた3人は、来た道を同時に振り返った。
そこには…。
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