第34話 もう一人の美香。

 美香が見た、父だと言うその男の顔は、目鼻の区別がつかない程にただれ、腫れ上がっていた。

 

「この顔、覚えててくれたかい。美香、美香は酷い事するよね。さあ、早く、こっちへおいで。」

 

 その醜くい顔をした男は、ゆっくりと立ち上がり、美香にその大きな影を被せてきた。

 

「私、知らない、知らないわよ。違う、違う、お父さんじゃない!」

 

 その追って来る黒い影から逃れるように、美香は慌ててバスを飛び降りた。

 

 バスが消え去った後に、美香の前に広がった景色は、雨と風が無秩序に乱れ吹き、一層、美香の心情を波立たせた。

 

 視界もままならない荒れ狂う刺すような雨の中で、美香は、稲妻の閃光が照らした一瞬の光の中に、何かを見た。

 

「あっ、桜の木…。」

 

 美香は、桜の木に向かって、荒れ狂う風雨に逆らいながら前に進んだ。

 

 桜の木の下に誰かいる…。

 

「お母さん…。」

 

 美佐子だった。泣き崩れているのか、吹き荒れる雨で姿が良く見えない。

 

「お母さん…。この嵐、あの時だ…。」

 

 美香は、夢の中の創られた世界でさえも、寒さに震え、雨に打たれた肌は痛みさえ感じた。

 

「この感覚、この風景…。」

 

 桜の木の枝が、美佐子を包むように、そこだけ雨風が止んでいるように見える。

 

 美香は、拳を握りしめ、何かに耐えるように、その母の姿をじっと見つめていた。

 

 

「そう、ようやく、思い出したようね。この場面を忘れるわけがないわよね。だって、私と入れ替わって、あなたが現れた時なんだから。時間…少し戻すわね。」

 

「何なのよ、姿、現しなさいよ。」

 

 美香は、顔に打ちつける雨風の向こう側から聞こえる声を探った。

 

 

「ねぇ、美香先生、何か変じゃない?」

 

 博美は、美香の違和感を口にした。

 

「いつもの強気の感じに見えるけど。」

 

「高野さん、違うのよ。強気だけど、何ていうか、そう、小さいのよ。いつも誰よりも上から物を言う人が、何か、怯えてるようにさえ見えるのよ。」

 

「そうね、博美さん、そうかもしれない。いつもの先生のようだけど、確かに違うね。よく見ると、身体ごと小刻みに震えてるよ。」

 

 浜本も、美香の変調を感じていた。

 

「たぶん、ここで極度の危機感から、自分を守ろうと、もう一人の美香が生まれたはず。ほら、場面が変わったわよ。」

 

 赤野は、美香の感情の変わり様を、そう考察した。

 

「ねぇ、これって、鬼美香が出てきたきっかけが分かるのね。でも、私たちって、ここに来た目的は、何だっけ。」

 

 背後の聞き覚えのある声に、博美と高野は2人同時に、振り返った。

 

「奈美さんだ!良かったあ、ホントに良かったあ。」

 

 博美は、涙声になって奈美に飛びついた。

 

「おっと、博美さん、そんなに泣かないで。」

 

 

 博美は、抱きついた腕をほどき、嬉しそうに指を見せた。

 

「奈美さん、ほら、見て。」

 

「あ、指輪してる。いいじゃん。」

 

 奈美は、博美の手を取り、心から喜んだ。

 

「高野さんからもらったの。奈美さんが言ってくれたんだね。ありがとう。この指輪はめた時、直哉の顔が見えたのよ。一緒に奈美さんの顔も浮かんだの。だから、奈美さんに何かあったらどうしようって。ほんとに、ほんとに…良かった…。」

 

 博美の目はまた涙で溢れていた。

 

「ありがとうね。博美さん、私は素晴らしい友人を持って幸せよ。でも、人生で初めてこんな事言うわね。」

 

 奈美は、照れ笑いしながら、モニターの映像に視線を戻した。

 

「あ、ミイばあちゃんの家の中だ…。」

 

 祖父母がいつも過ごしていた牧野家の茶の間だった。

 

 座卓の横で、ある男が、顔を押さえ、苦しみながら倒れている。

 

「熱い、熱い、くそっ、コノヤロー!」

 

 男の傍では美佐子が、疲れ果てた様子で座り込んでいた。

 

 そして、その場面を見ていた小学生の美香が、やかんを手に持ち、しゃくりあげながら泣いている姿が映し出された。

 

「私は、3歳のころ、この男から暴力を受けていた母親を見ていたのよ。その記憶を消したくて、母は久住を頼った。でも、その後、その暴力は母から私に移ったのよ。そう、小学生の私に続いた性暴力…。この日も、止めに入った母をあの男は、力任せに殴っていた。もう限界だった。」

 

 もう一人の美香の声がそう語ったナレーションに沿うように、小学生の美香の映像はその瞬間を示していた。

 

 泣いていた美香の表情が、スローモーションのように不敵な笑みに変わっていったのである。

 

「痛いでしょ、悔しいでしょ。私は、あなたのその何倍も、辛い思いをしたのよ。当然の報いね。」

 

 そう言った美香は、助けを求めながら、もがいている男の頭に、残っていた、やかんの熱湯をかけた。

 

「もっと叫ぶがいいわ。康行おじさん。この嵐と雷で、聴こえやしないんだから。お父さんの長い入院を利用して、この家に住み着いて、したい放題やってくれたわね。」

 

「美香、どうしたんだい。可愛がってやったじゃないか!」

 

 男はもがき苦しみながら叫んだ。

 

「うるせぇんだよ。」

 

 美香は、助けを乞う康之の身体を蹴とばした。

 

 美香の声が、続いた。

 

「そう、思い出したわ。この時、ストーブの上にかけてあったを、おじさんにかけたのよ。そのあと、私は…気を失ったと思っていたけど、あなたが現れたのね。気がついた時には、あの桜の木の下で泣いてた母の姿を見てた。あれ以来、おじさんは来なかったわね。」

 

「ふんっ、あなたの方が酷い事してたのよね。」

 

「えっ、赤野さん、どういう事?良い子の美香が、火傷させたってこと?」

 

「博美さん、そう言う事だと思うわ。その自分のしたことの大きさに、パニックになって気を失った。自己の精神を保つため、行き場のない感情の受け皿として、悪い子の美香が出てきた。という事ですかね。浜本先生?」

 

「そうだろうね。もう一人の美香を出すことで、バランスを取ったんだろうね。」

 

「でも、赤野さん、多重人格って、記憶を共有しないんでしょ。なんで、乱暴されてたのを知ってるの?」

 

「別人格の自分の記憶でなくても、同じ身体の中で、客観的に見ているってこともあるの。だから、これまでハッキリと別人格が出てきてなくても、存在はしてたのかもしれないわね。」

 

 

「そうなんだ。ね、なんか、美香が薄くなっている気がしない?その代わり、姿のない美香の声がハッキリしてきたみたい。」


「博美さんはよく観察してるね。もう少し聴こう。声、まだ続いてるよ。」


 浜本は、口に指を立てに当ててそう言った。

 

 落ち着いた優しい美香の声が続いた。

 

「そうね。この時は、自分をコントロールできなかった。今もその時の感情が蘇るのよ。でも、あなたのお陰かしら、私の感情を抑えてくれたわね。あのままだったら、私、あの男を殺してた。あなたを私は利用したのかもしれない。それに気が付いたの。でも、もうあなたは必要ないわ。あなたがいなくても、私だけの中で消化できるのよ。あなたの行動や考えは、理解できるの。私だもの。でも、ちょっと暴走したわね。私との乖離が大きくなってきた上に、あなたが感情的になってくると収拾がつかなくなるよ。あなたを切り離すことが難しくなってきていたの。だから、私自身を消すしかないと思ったの。」

 

「そう、私は…、私…。」

 

「すごい美香が消えそう。神の美香が勝ったの?」

 


 美香の途切れ途切れの声に、博美の声が弾んだ。

 

「あの…、そしたら、美香に私たちがされたことを、誰に謝ってもらえばいいのよ。」

 

 奈美の声に、赤野が振り返り答えた。

 

「そうね、どっちでもいいんじゃない?元々の美香から生まれた美香だから。」

 

「若い久住先生が出てきたわよ。」

 

 博美が指をさした映像には、家の中の惨状を見て、大きく溜め息をついた、若く細身の久住が映っていた。

 

 康行が、久住の方に手を伸ばしてきた。

 

「あんたを助けてやるから。二度とここへは来るな。」

 

 久住はしゃがむと、足元にすがる康行に、そう言った。

 

 

「この時、この親子を守らなくてはいけないと思った。

 

 自分の子供だと、分かっていながら、ひどい目に合っていると知りながら、世間体を気にしてしまった。こんな事になる前に。なんとかしなければいけなかった。すまなかった。」

 

 

 姿の無い声が、夢の中に響いた。

 

「これ、もしかして久住の声?」

 

「そう、奈美さん、先生はここで、自分の言葉を残したかったのよ。久住先生に頼まれて、プログラムにこの声を挿入したの。」

 

 

「先生、こんな男、助ける事なんてないよ。」

 

 そう言って、画像の美香は、嵐の中を出て行った美佐子を、追いかけて行った。

 

 「さっきの、桜の木の下のようね。大丈夫かな。」

 

 赤野は、モニターを見ながら、美香のバイタルを気にしていた。

 

 美佐子を見つめている美香が、崩れ落ちるように倒れた。

 

 気が付いて振り向いた美佐子は、打ちつける雨の中、美香を抱きあげ、声をあげて泣いていた。

 

 

 画像の美香の姿の影が薄くなっていた。声も止まっていた。

 

 

 そして…神代白一郎の姿をした久住が現れた。

 

 暗闇の中の微かな灯りのもとで、椅子に座った神代が語り始めた。

 

「これは、もう一人の美香を消すためのプログラムだ。

 

 この事件の後に、美佐子は、美香のこの時の記憶を消してほしいと頼んできたんだが、美香の中には二人いる。この状態で記憶を消すことは、あの小さな美香にとっては、あまりにも負荷が大きく、もう一人の美香を強くしてしまうリスクがあった。だから、完全に消すのではなく、思い出しにくくすることで納めたんだ。美香が大人になって、この時の感情を思い出し、その抑えきれなかった感情を処理できた時に、もう一人の美香は消える。そうなるように、小学生の美香に催眠療法をかけた。だが、私や由美子の犯罪が、もう一人の美香を強くしてしまった。それで、この灯しやを利用したんだ。ここで、もう一人の美香を消すためにね。

 

 成功するといいんだが…。

 

 あとは、この灯しや診療所は、もう実行させないようにするように、赤野さんに依頼した。

 

 もちろん、これで、自分の罪が消えるとは思っていないが、私が最後に出来ることは、これくらいしかない。

 

 嘘の記憶は、人を破滅に導く。おそらく3歳の美香の記憶を操作した時、美香の脳は、辛い記憶を自ら処理できない脳になってしまったんだと思う。トラウマを経験することで自らを強くする。しかし、美香は、もう一人の自分を作る事で自分を守った。あの非情冷酷な美香を出現させてしまったのは私の安易な正義感からだった。

 私は、人としてやってはいけない事をした。それを美香に教えたこともだ。どんなに辛い記憶も、何もしなくても忘れるように出来ている。元々備わっている生体の防御反応だ。人生のすべてを記憶していたら、人は生きてはいけない。

 それを、無理矢理コントロールしようと言うのが間違っていた。勝手な正義のつもりだった。自分の犯してきた愚かな罪を、それで相殺できた気になっていたんだ。美香にも、偽りの正義をかざす事で研究目的を正当化する術を伝えてしまったようだ。悪いお手本だったよ。

 

 最後に、桜の木と隆行さん、美佐子、美香、里香、花香が、この画面がでたら、このプログラムは成功だ。最後はちょっとしゃれた演出をさせてもらったよ。」

 

 久住はそう語り終えたあと、白々と夜が明けるように、朝の澄んだ光のような凛とした空気感が画面を覆った。

 

 「何にも映ってないわよ。音も何も無い。真っ白じゃない。これ、終わったの?」


 奈美の声を最後に、誰一人と、一言も発せずにモニターの画面を見守った。

 

 数分後…。


 薄っすらと、画面にその姿を現し始めた。

 

 

 満開の桜の木の下で、車いすの父、隆行と美佐子、そして笑顔の大人になった美香が映し出されていた。

 

 そして…里香が花香と隣の大岩の上で遊んでいる姿が映し出された。

 

 

 

 。

 

 

 もう一人の美香の姿はどこにもなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る