第32話 美香と奈美。
夢の中の風景は、白い闇から、徐々にその輪郭を現した。
そして、三人は、いつか見た診療所の薬棚の前に、横たわった久住を囲むように、立っていた。
「さぁ、やっと始まるわね。で、赤野さん、この子が私に言いたい事があるんでしょ。」
夢の中でも、その威圧感を放っている美香にも、動じない赤野は、冷静な口調で答えた。
「美香先生、そう焦らないで下さい。体力消耗しますよ。」
「この子の目で、刺されそうなんだもの。」
「あのね、さっきから、この子って、何よ。全部聞こえてたんだからね。私の名前知ってるんでしょ!あなたがしてきた事、全部暴いてやる!」
奈美は、自分と似ている美香という夢の中の人物に、溢れ出る感情を抑えきれなかった。そして感情とは比例しない、浮遊したような感覚にも苛立っていた。
「何なのよ、こんな奴、殴ってやりたいのに、身体が思うように動かない。」
「あら、ごめんなさいね。頭が悪くって。奈美さんって呼べばいいのかしら。それに、明晰夢をあまり見てないようね。いつまで持つかしらね。ま、せいぜい頑張ってね。」
「悔しい!」
「奈美さん、落ち着いて、ほら、聞きたい事言わないと。」
「赤野さん、ありがとう。そうね。」
赤野の声に、奈美は、ばたつかせていた手足を収めた。
「あなたね、母の由美子とは、どんな関係なのよ。」
「あぁ、あの女ね。久住先生から頼まれたことがあったのよ。治療をね。」
「治療?違うでしょ。その時に、私の記憶を消したんでしょ。」
「誤解しないで、あなたが見た恐怖だった体験を取り除いただけよ。口をきかなくなったって由美子が相談しに来たのよ。ちゃんとした治療よ。」
「友達だったの?それだけで、そんな簡単に引き受ける事なの?それに、私は、奈美ではない。花香と言う名だった記憶も、消したんでしょ。」
「そうね。あなたのためよ。あなたの記憶に必要なかった事よ。由美子は知ってはいたけど、そんなに仲が良かったわけではないわ。あなたの記憶が久住をダメにすると思ったのよ。」
「久住に聞いたわ。里香を…私の母を引いたのは、自分だって。私がそれを見てたかもしれない。そして本当の奈美ちゃんの遺体を見てる。二人が埋められているところも!」
叫びに近い声でも、生ぬるい感触に吸収されてしまう夢の中で、奈美は伝わらない感情に、必死に藻掻いていた。
しかし、そんな苦悶の表情の奈美が、見えてないかのように、美香は冷淡だった。
「またずいぶんと正直にあの人は喋ったのね。そうよ。子どもなんて、何を話すか分からないからね。正しい判断よ。久住先生は、かなり動揺しいていて、あなたに目隠しをするのを忘れていたって。そのことを、あなたを渡す時に、由美子に話したのね。それで子供の記憶を消してほしいと言って来たのよ。協力関係がないと成り立たない子供の記憶は操作したことがなかったから、手間取ったわね。何しろ、ずいぶん怯えていたものね。まだ前処置が確立してなかったから、あの時は、確か、笑気でも吸わせたかしらね。」
「でも、なんで、そこで、母を由美子を警察に突き出さなかったの。どう考えても、おかしいでしょ!」
「どこがおかしいのよ。私の研究材料が飛び込んできたのよ。こんな質のいい材料は滅多に出ないわ。警察に上げるなんてもったいない事出来るわけないじゃない。」
「それがおかしいって言ってるの!あなたは、この久住を救いたかった。いや、それも違うわね。どんなに追いかけても触れることが出来なかった久住を、そうよ、自分の傘下において思い通りにしたかった。そういう事なんじゃないの。結局は、自分の物にしたかった。研究材料ってことだけじゃないでしょ。どっちにしても、人にすることではない。やっぱり鬼よ。あなたは!」
「ふんっ、知ったような事を言って、私はね、研究がすべてなのよ。そのためだったら何でもするわ。でもね、私は誰も殺してないし、それどころか人を救ってるのよ。人類の精神平和のためになってるのよ。あなただって、あの記憶のまま生きていたら、トラウマ酷かったでしょうね。きっと。もっと感謝して欲しいくらいよ。」
「救ってる?分かる?愛のない母と、事実と違う記憶で、私がどんなに苦しんだか。あなたに分かるわけがない!」
「私もそうよ。」
赤野も、響かない声で叫んだ。
「私の母はあなたの治療で殺されたのよ。」
「あぁ、あれ?あれは私のせいでも何でもないわ。あなたのお母さんは、すでに脳委縮も進んでいて、元々の器質的な変化もあったからよ。あの時の気分の変動は抑制できたじゃないの。それで、治療目的は達成できてるのに。あなた、看護師なのに、そういう事も分からないの。」
「あなたを見ていると、純粋な悪というか、悪気がないと言うか…。他人の人生を変えることも、最悪の末路であっても、自分の行為は、本気で正義だと思っている。」
「赤野さん、さすがね。私をよく知っているわ。最高の誉め言葉ね。私の研究は人類を救うのよ。知ってる?10代から30代の死因の1位は自殺なのよ。どんな研究研究でも、期待した結果が出て、治療法の土台が確立するまでの過程の中では、犠牲はつきものなの。」
「でも、あなたのやり方は、間違ってる。美香先生、あなたの側で見ていて思うことがあるの。元々の『灯しや診療所』のスタンツや、名称に込められた思いは、冷酷非情な鬼のあなたとは真逆の思想を感じるのよ。」
「何を言ってるの?私の全ては、私よ。誰でもないわ!優しい言葉を放ったとしても、愚かな者たちのエサにしかすぎないのよ。そうよ、それに食いついてきた、あなたたちがいい例でしょ!」
美香のヒートアップした声を、赤野が止めた。
「久住先生!」
久住宗一郎の姿が、静かに消えていた。
「今…久住先生が亡くなりました。」
赤野が伝えた。
しばらくの沈黙のあと、美香が言った。
「さ、どうすんの?処方箋切らないの?準備してるんでしょ。楽しみだわ。」
「なんの余韻も無いのね。この人に、私は憎しみしかないけど、あなたにとっては、愛した人なんじゃなかったの?」
「そうだとしても、今の私には関係ないわ。身をもって、この研究の被験者として、自分自身が体験できるなんて、こんな日が来るなんてね。それに命をかけてくれた久住先生には感謝するわね。」
「あなたには、人の血が通ってないみたいね…。」
いくら憎んだ人であっても、人の死は、さすがに奈美の気持ちを沈みこませた。
「ありがとう。そんなもの私には必要ない。そうやって生きてきたの。早く、処方箋切ってよ、奈美先生。それとも赤野先生かしら。」
「奈美さん、お願します。」
「分かったわ。」
奈美は、深いため息をつき、薬棚の引き出しは開けずに、一枚の板を差し出した。
「これよ。0番。あなたに番号を与える価値もないから。」
奈美は板を、放り投げた。
「あなたには、こんなパフォーマンス要らないでしょ。」
「なるほどね。どうでもいいけど、バスは?」
「バス、あるわよ…。」
「えっ大丈夫。奈美さん?」
「そうね、なんだか疲れたわ…。」
「奈美さん、奈美さん。」
赤野の揺れた声をまといながら、奈美は、その曖昧な影を残した。
「このプログラム、エネルギー使うからね。こんなにエキサイティングしたたら、そりゃそうなるわね。自業自得ね。あなたこの子に伝えてなかったの?」
「伝えたところで、奈美さんの強い思いは、変わらなかったと思うわ。奈美さん、退出させます。」
「そう、ま、どうでもいいけど。早く次のセッション進みましょ。」
「奈美さん、大丈夫なんですか?苦しそうでしたが。」
博美がガラス越しの奈美を心配そうに見ていた。
「問題はないですが、体力の消耗は激しいようですね。補液を始めます。浜本先生お願いできますか?私、美香先生の対応あるので。」
「了解。そうだ、久住先生はどうするんだ。」
「霊安室はないので、慎さん、慎さんのお店に連れて行ってもらっていいですか?」
「あぁ、そうだったな。わかった。この研究所を知られるわけにはいかないから、私の店の裏の自宅で療養してることになってたんだな。富山の親戚に連絡するよ。」
「お願いします。」
しばらくして、いつかフルールで見た青年が、寝台車らしき車で迎えに来ていた。久住の顔には、すでに布がかけられ、慎とその青年とともに、車に乗せられて、研究所を出て行った。
「病院って、人がたくさん亡くなるからかな。なんか無駄な動きが無いって言うか、事務的というか、涙も何もないね。その人を惜しむ時間も。」
加藤は、この流れの速さに、ただ、その様子を茫然と見ながら、高野の耳元でそう言った。
「そうだね、自分もちょっと、こんな殺伐としたものなのかって。なんか変な感じだけど。」
高野も同じような違和感を感じていた。
「あ、すみません。奈美さん点滴するんですね。点滴しながら、プログラムを実施できなかったのですか?」
加藤は、自分たちの挙動不審な動きを悟られないように、思いついた質問で、ごまかした。
「プログラム中は体動が激しくなることもあるので、緊急時以外はしてません。でもルート確保してあるので、いつでも処置は出来るようにしてます。奈美さん、しばらくしたら、覚醒しますよ。」
「そうなんですね。安心しました。」
「みんな、これからよ。美香先生、バスに乗るわよ。」
赤野の声が飛んだ。
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