第22話 鬼の焦り。

「博美さん、気分はどう?」


「あ、奈美さん…。大丈夫。どうしたんだろ。頭が重い。ここどこ?なんかよく覚えてない。」


 目を覚ました博美は、閉じようとする重い瞼と脱力感が抜けない身体に逆らいながら、ゆっくりと身体を起こした。


「そうだ…あの先生、美香先生は?」


「あなた美香先生に催眠かけられてたのよ。覚えてる?そこを浜本先生が助けてくれたの。ここは、浜本先生のマンション。奥さんに内緒で借りてるらしいから、美香先生は、ここには、いないわよ。」


「良かった…。何となく何かされたのはわかるけど…。」


 博美は深く息を吐き、胸を撫でおろした。


「それで浜本先生は?」


「浜本先生は仕事に行ったから、今誰もいないわよ。オートロックだから、出るときは鍵も要らないし、好きな時に出て行っていいよって。」


 奈美は、そう言って、冷たいお茶を博美に差し出した。


「ありがとう。」


「冷たいでしょ。これで、目が覚めるといいけど。」


 博美は、舌から伝わった冷たさを、身体にしみ込ませた。


「うん、少し、ハッキリしてきた。それにしても、ここ、すごい部屋ね。」


 博美は、部屋の中を見渡した。


「やっと、目が覚めた感じね。」


「奈美さん、私、仕事行かないといけない。」


「博美さん、真面目過ぎるわよ。あんな目に遭ったのに。でもそれね、浜本先生が言っておくって。でも良かった。私の事も記憶消されてしまってかと思ったわ。」


「覚えてるわよ。でも、まだ頭の中、まだ霞がかかったようになってるけど。あの時、美香先生が呼んでるからって、恐るおそる先生の部屋行ったのよ。それで、入った時に、なんか薬っぽい匂いがして、ぼーっとしてきて、そこからよく覚えてないのよ。気が付いたら、ここに居て、奈美さんの顔でしょ。訳が分からなくて。」


「薬っぽい?何だろうね。浜本先生が言ってたわ。何か薬剤使ったかもって。博美さん、灯しや診療所の事は覚えている?」


「そこへ行ったのはわかるんだけど、映像が思い浮かばない。」


「神代先生っていたでしょ?」


「それがね、名前はわかるんだけど、姿が思い出せなくて。」


「その人に似てる人が、博美さんが勤めてる病院に入院してて、美香先生も関わってるてとは?」


「何となく…漠然と。」


「霞がかかったように、と言うのは、そういう事なのね。あ、そうだ、博美さん、高野さんが心配してたから、高野さんちに行く?あなた一人だと、また何かあったらって、心配よ。私も一緒に行くから。」


「いいの?高野さんは?」


「高野さんもそうしてほしいって。心配で眠れないって言ってた。加藤さん兄弟も出入りしてくれるから安心じゃない。」


「加藤さん?」


 そういう事か…ところどころ記憶飛んでる。


「高野さんの友達で、弁護士さんと、刑事さんの兄弟がいるの。この前、私たち会ってるわよ。」


「うーん、少し、思い出したわ。ケーキ持ってきてた人たちね。」


「やだ、博美さん、そういうワードは覚えてるのね。」


「それで、今晩ね、その加藤さんも、富山に行ってきた報告があるらしいわ。」


「じゃ、行かないと。自分の家に寄っていい?髪も洗いたいし。なんか、髪に変なものくっついてるのよ。」


 博美は、そう言って冷たいお茶を飲み干し立ち上がった。ふらつきながらも、ゆっくりと、弛緩した博美の身体は気を取り戻していった。


「博美さん、良いわよ。私も一緒に行くわ。」


 浜本からの電話が鳴った。


「まだ、マンションか?」


「ちょうど今出るところよ。何?声が変よ。」


「すまない。美香に居場所バレた。30分は経ってるかも。おそらく、そっちに向かった。とにかくそこから逃げてくれ。エレベーターでかち合う可能性もあるから、非常口で3階降りてくれ。3階の302だ。母がいる。連絡してあるから、急いで。」


「なんで、どうしたの?」

 

「いいから、早く。」


 いつも冷静な浜本の尋常ではない声色に、奈美の顔が強張った。


「奈美さん、どうしたの?」


「美香がこっちに来る。もう着くって。博美さん、すぐ出るわよ。」


 奈美は、博美に浜本からの話を伝えながら、急いで準備をした。


 二人が廊下に出ると、エレベーターのチャイムが聴こえた。


 緊張が走った。


「ねぇ、どうしよう。エレベーター過ぎないと、非常階段までいけないよ。」


 博美は、奈美の腕にしがみついていた。


「博美さん、大丈夫みたい。誰も、降りてこないよ。」


「閉まったかな。上に行ってまた降りてくるとかないかな。」


「待っててもしょうがないから、走ろう。」


 奈美の一声で、博美の身体も動いた。


 非常階段まで思いっきり走った。


 右手に見えたエレベーターの階数表示が下から上がってくるが見えた。


 もう、着く…。


 背後でエレベータのチャイムが聴こえた。


「ね、来たんじゃない?」


 博美の泣きそうな声に、奈美は言った。


「もし、見られても、後ろ姿じゃ、私たちだと分かるまで時間かかるわ。私が後ろの方に付くから、博美さんがドアを開けて。」


 博美は非常階段のドアのノブを回した。


「開かない。なんで。」


 博美は焦っていた。


「落ち着いて、反対回してみて。」


「あ、ごめん。開いたわ。」


 二人は、振り返らずに、必死に階段を降りた。


「エレベータのあの音、人が降りたよね。足音聴こえたもの。」


「確かに、気配は感じた。紙袋のカサカサした音もあった。」


「見えたかな。」


「分からない。とにかく急ごう。」

 

 2人は、3階に降り、302号室の呼び鈴を鳴らした。


 早く出て。

 

 2人には、ほんの数秒が長く感じた。

 

 そして、部屋のドアが開き、70代くらいの女性が出てきた。

 

 その女性は浜本先生によく似た面長な顔立ちをしていた。髪を結い、そのまま着物を着ていても何の違和感もないような上品さがあった。


「水口さんと、安藤さんね。私、賢の母の浜本美智子です。さ、中入って。無事にここへ来れて良かったわ。窓から美香さんの姿見えたから、心配してたのよ。」


 そう言いながら、美智子は、和室に2人を促した。


「すみません。ご迷惑おかけします。非常階段のドア開けるときに、エレベータから、誰か降りた気がしたけど、怖くて見れなかったわ。見られてないといいけど。」


 奈美は、美智子の柔らかな表情にホッとしながらも、不安を隠せなかった。


「怖い思いをしましたね。ここは美香さんには言ってないから、大丈夫よ。私の住所は他になってるから。ここは、私の友人の名義で、家賃を払って住まわせてもらってるの。美香さん対策ね。とんでもない嫁だよ。賢は、なんで、あんな人と結婚なんてしたんだろうね。」


 美智子は、上品なビジュアルに似合わず、物言いはハッキリしていた。


「お母さんも大変そうですね。何故、あの2人が夫婦なのかが、私たちにも理解できないないです。」


「さっきも、賢から連絡あった時、辛そうな感じだったのよ。あの子、美香さんと何かあったのかしら。心配だわ。」


「確かに、浜本先生、なんか変だった。声やっと出してた感じだったし。それにしても、なんで、バレたんだろ?」


「きっと、私みたいに催眠かけられたのよ。それで、話しちゃったんだと思う。私、催眠かけられてたけど、完全に意識が無くなってなかったの。何を話したかは何となく覚えてる。ただ、過去の記憶が曖昧な感じになって、ごちゃごちゃにされた感じ。でも、たぶん、大丈夫。」


「ごめん、博美さん、あの人記憶を操作できるのよ。今の記憶が正しいのかどうかも分からないってことよ。」


「ちょっと待って。そんな、今、自分が思ってる記憶は嘘かもしれないってこと?何よ、それ、怖すぎる。私が私じゃないみたい。」


「そうでしょ。記憶と実際が違うって、パニックになるのよ。」


「奈美さん、ずっと、こんな怖い不安と闘ってたのね。やっとわかった気がする。」


「でも、だんだん分かってきたから、あの美香にやられる前に、真実をあきらかにしないと。」



「水口さん、あの人、出てったわよ。あの歩き方、感情丸だしね。ほんと、美香さんらしいわ。」


 窓際でカーテンの隙間から見ていた美智子が、そう声を掛けた。


「あ~良かった。」

 

 博美は、そう言って正座をしていた足を崩した。


「でも、これから、どうしよう。博美さんの家も危ないわよ。」


「ねえ、加藤さんに迎えに来てもらうって出来ないの?」


「そうね。高野さんに連絡してみるわ。」


 奈美からの連絡に、高野は待っていたかのように、すぐ反応した。


「どうした?博美さんは大丈夫か?」


 奈美は、賢の母親の部屋にきた経緯などを話した。


「そうか。それは危なかったな。わかった。加藤に連絡してみるよ。」



「ごめんさいね。お茶も出さないで。水口さんも、安藤さんも、大変ね。」


「いえいえ、お構いなく。急に押しかけたのは私たちですから。浜本先生に助けていただいて言うのもなんですが、正直、先生の事、初めは信用していませんでした。ごめんなさい。息子さんの事なのに。」


「安藤さん、いいのよ。そう思って当然よ。私でも、時々、息子は何を考えてるんだろうって思うもの。」


「美香先生とは、何で結婚したのか分かりますか?」


「何でって…。事後報告なのよ。」


「そんな…。」


「安藤さんだって、おかしいと思うでしょ。最初からこうなのよ。なんでも、好きで結婚したんではなくて、見張り役なんだって。訳が分からなくてね。同郷だって言ってたけど。」


「もしかして、富山なんですか?」


 奈美が、反応した。


「ええ、そうですよ。あの子は、高校までは富山でした。立山連峰が見えるきれいな田舎町でしたよ。私も5年前に夫が亡くなったもので、賢は私を一人では置いておけないからって、こっちに呼んだんですよ。でも、一緒に住んでるわけではないから、一人みたいなもんだけど。」


「でも、近くにいるから、何かあれば、すぐ来れるから良いですね。別の住所って富山なんですか?」


「いいえ、さすがに歳をとると、社会保障のお世話になることも多くなるからね。私の姉が同じ区内にいるから、住所はそこにしてるの。このマンションは、姉の友人で、今海外にいる方がいて、あと何年も戻ってこないから、誰も住まないのは良くないからって、使わせてもらってるのよ。賢も自宅とは別に部屋を探してて、ちょうど、ここに空きがあって購入したって事なんだけどね。バレちゃったし部屋どうするのかね。」


「お母さんは、美香先生とは会ったことあるのですか?」


「ほんの2.3回ね。そういえば、水口さんて、美香さんに似てるわね。」


 美智子は、奈美の顔を覗き込むように見て言った。


「そうなんです。たぶん血のつながりあります。」


「たぶん、って。」


「私の母のお姉さんらしいんですけど。戸籍が違うんです。」


「そんな、おかしなことがあるんだね。」


「だから、私も富山で生まれたらしいんです。記憶がはっきりしなくて。お母さん、佐々木由美子って知ってますか?」


「さあ、知らないね。」


「じゃあ、まさかとは思うんですが、久住産婦人科は?」


「久住産婦人科?それは知ってますよ。久住宗一郎さんは、私と高校だけでしたけど、同級生でしたから。」


「うそ、すごい。ダメ元で聞いててみたんですけど。じゃ、息子さんの浜本先生も、知ってるんじゃ?」


 奈美は、思いもよらない情報に前のめりになっていた。


「それはないわよ。話したことなんてないもの。」


「その久住って人、美香先生の患者さんかもしれないんです。あの、写真ってありますか?」


「あるけど、ずいぶん前の写真よ。」


 美智子は、A5サイズほどの大きさの少しシワのかかった古い写真を持ってきた。


「これなんだけど、アルバムに貼ってあったのが取れちゃって。きれいな写真ではないけど。分かるかな。」


「これが、セピア色って言うんですね。高校の集合写真ですか。あれ、ミイばあちゃん?すみません、この一番前に座っている女性の名前は分かりますか?」


「確か…み、み、美佐ちゃん、そう美佐子さんね。上の名前までは覚えてないけど。」


「やっぱり。私の祖母かもしれません。」


「よくわかるわね。この目元がよく似てたの。みいばあちゃんって、割りとクリってしてて。」


「学校の先生も着物なのね。ね、久住先生は、どこ?」


 博美も、そう言いながら、セピア色が珍しいのか、隅から隅まで見入っていた。


「えっとね、美佐子さんの隣よ。背はそんなに高くはなかったわね。だから、いつも、前に座ってたわ。」


 きちっと背を伸ばした端正な顔立ちの眼鏡をかけた青年が写っていた。


「これは、分からないな。面影が無い。」


「そうだ、まだ、同一人物かは分からないけど、高野さんのお父さんの親戚が知ってるんじゃない?ほら、話に出てきたじゃない。その頃なら、この写真に近いんじゃないかな。」


「博美さん。よく思い出したじゃない。ほんとだ、唯一知ってる人物になるかもね。」


 高野から、連絡が来た。


「加藤さん来てくれるって。1時間ほど後だって。博美さんの家と私のアパート経由してもらって、高野さんのとこ行こう。」


「良かったわね。もう行くのかい。なんだか寂しいね。こんなお若い方とお喋りできて、楽しかったわ。また来てちょうだいって言いたいけど。そうはいかないわね。」


 やはり不慣れな土地での一人暮らしは寂しいのだろう。奈美はそんな美智子を思いやった。


「私も、お母さんとの話、興味深かったわ。もっと聞かせてほしいから、ボディーガードつけて、また、来れたら来るわ。」


 加藤に迎えが来て、2人は、博美の自宅へ向かった。

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