第14話 母、由美子 父、雅之。
「リカさんって人知らないわよ。急に何を言うのかと思ったら。」
洗い物をしている背後から奈美に声をかけられ、母の由美子は、そう返事をした。
「今日、旦那さんは?」
「仕事よ?何で?」
「聞きづらい事も聞くから。」
「何よ、それ。」
由美子は一瞬洗い物の手を止めたが、またすぐ続けた。
「私の記憶に、リカさんって人がいるのよ。でも、私の周りには、リカって名前の人は、誰もいないから、お母さんが、何か知ってるかなって思ったの。」
奈美は、湯飲みをくゆらせながら、由美子の背中に向かって、そう言った。
「変な子ね。知らないわよ、そんな人。」
「ね、母子手帳ってあったわよね。見せて欲しいの。」
「良いわよ。なんなら、奈美、持ってて。」
由美子は、そう言いながら濡れた手を拭き、奥の部屋から母子手帳を持ってきた。
由美子から手渡された母子手帳には、父親の名前は空欄だった。
久住産婦人科、医師は久住宗一郎。平成3年7月7日
「私、富山で生まれたんだ。」
「あ、あれ、言わなかったっけ?」
「うん、お母さんからは、初めて聞いた。」
「どういうこと?誰かから聞いたの?」
夕食の準備を始めようと、一旦はキッチンに戻った由美子だったが、エプロンを外し、奈美と向かい合うように座った。
「ね、お母さん、さくら商店街って知ってる?」
「えっ、知ってるわよ。でも何故、奈美が知ってるのよ?」
「桜専門の写真家がいてね。その人が写真見せてくれたの。思い入れがある商店街だったから、富山まで見に行ってきたわ。」
「へえ、それで?」
だんだん強張ってきた自分の声に、由美子が動揺を悟られないように感情を抑えているのが、奈美にはわかった。
「桜の木は朽ちて根元の方しか無かったわ。商店街の店も数件しか残ってなくて。でも、桜の木の隣の岩はあった。やっぱり、見たことある景色だったのよ。」
「気のせいじゃないの?奈美を連れて行った覚えなんてないわよ。」
「ね、私の生まれた頃の写真って見た事ないんだけど。」
奈美のいつもとは違う、冷ややかな口調と威圧感に、由美子の声も固く震えた。
「それは…カメラなんて持って無かったからよ。」
由美子はそう言いながら、エプロンを取り、キッチンに戻った。
「ふーん。」
「何、何なのよ。」
「私、お母さんの連れ子だったんでしょ。」
「誰に聞いたの?」
「戸籍で調べた。」
「戸籍まで…なんで?」
「自分が誰なのか分からなくなったからよ。」
「そう、それで、どうっだたの?」
張り詰めた空気の中、由美子が奈美に背を向けたままのやりとりは続いた。
「それ以上、何もわからなかったわ。本当のお父さんの事も何もね。お父さんってどんな人だったの?名前とか。」
「お父さん?お父さん…。認知もしてくれなかったから、あまり言いたくはないわ。忘れたわよ、もう。」
「そう…。」
奈美は、想定通りの返事と母の動揺した様子に、ここへ来た意味を肯定した。
「帰るわ。だいたいわかったから。」
「夕食食べていかない…よね。」
「ありがとう。今度またね。」
もう少し、演技が上手いと思ったけど…。
さて、次行くか。
「お、久しぶりだな。どうした?」
「ちょっとね。お母さんの事聞きたくて。」
「私、買い物に行ってくるわ。パパ、珈琲淹れたから、奈美さんに出してあげて。」
「あ、麻衣さん、気を遣わなくてもいいんです。」
「奈美さん、ありがとね。ほんとに、買うものあるから。行ってきますね。どうぞごゆっくり。」
父、雅之の再婚した妻の麻衣は、再婚後に生まれた、小さな男の子を連れて、出かけた。
「悠真くん、大きくなったわね。麻衣さんもいい人。若いくて優しくて、良かったわね。パパ?」
「奈美も冷やかすのかい。」
雅之は、大きなピンクのハート柄のマグカップに、珈琲をたっぷり注いで奈美の前に出した。
「ありがと。まだ、新婚さんみたいね。20歳以上は離れてる?」
「そうだよ。麻衣は32歳、父さんは先月、55歳になったよ。はは、23歳差か。同僚には冷やかされぱなしだよ。」
「でもいい家族だと思うな。」
雅之は、穏やかな笑顔を奈美に向けた。
「ありがとな。で、お母さんの事って、なんだ。なんかあったのか?」
「うん、私のお母さんと結婚した時に、どんな感じだったの?お母さんは私をどんな風に紹介したの?」
「あれ、知ってたのか。由美子からは言わない方がいいって言われてたから、口にはしなかったけど、どうせわかるのにと思ったけどな。あの時は、奈美に好かれたかったからね。それにしても、ずいぶん前の事だな。どんなって。まあ、娘さんがいるっていうのは聞いてて、一緒になる直前だったかな。初めて会わせてもらったの。ファミレスだったと思う。」
「直前?」
「確か、風邪かなんか、あんまり具合が良くなくって、付き合って一年近くだったかな。
会わせてくれたの。」
「私、どんな感じだったの?」
「あぁ、喋らない子だったね。自分嫌われたのかと思ったよ。」
「由美子は、無口な子なんだと言ってたけどね。でもそのうち、慣れてくると、懐いてくれたし。風邪もそんなに引かないし全然元気だったよ。」
「母には懐いてた?」
「元気がなかったから、懐いてたって言われてもね。」
「初めて、知らない人に会ったら、子供って、お母さんに甘えるとかあるじゃない。」
「どうだったかな。膝の上に乗るとかはなかった気がするな。なにせ、静かな子だったって印象しかなかった。なんで、こんな事聞くの。」
「ごめんね。私、小さい頃の記憶に、『リカ』って人がお母さんとして残ってるの。でも、戸籍も調べたけど、母から生まれたことになっているし、母子手帳もある。血液型もO型で間違いないし。」
奈美は、戸籍謄本を見せた。
「そんな事があるのか。奈美の記憶だけの話だからなんとも言えないが。」
「お母さんに、今のこと言ったみたの。もちろん、気のせいでしょって。でも、動揺してた。」
「お父さんの話聞いて、やっぱり、私、お母さんの子供でないような気がしてきた。」
「でも、この戸籍では、由美子の子供になってる。由美子が届け出てるし。間違いないんじゃ。」
「富山にも行ってみたのよ。見た景色なのよ。それに、リカって人を知ってる人がわかって、私の記憶に残っている祖父母の存在も。記憶にあることが、みんな現実でないのよ。それが、わからなくて…」
奈美は、話しているうちに、だんだん熱くなり、涙声で話を続けた。
「ただ、リカに姉がいたことは知らなかったけど、その人が、私に良く似てて、最近、それっぽい人がいたの。今、調べてもらってるの。」
「大丈夫か?そうか、辛かったんだな。でも、なんか、すごい広大なミステリーを追ってる感じだな。現実感がない。」
「自分もそう思うよ。でも、少しずつ、パズルがはまっていくの。やめるわけにはいかないわ。」
「でも、気をつけて。人のプライベートに踏み込むと、危険なこともあるからな。」
「わかってる。ね、お父さんって、お母さんとなんで離婚したの?好きな人が出来たから?」
「もう、そのずっと前に壊れてたから。なんかね、そう、富山にも絶対に行こうとしないし、由美子のご両親ももういないっって言ってたけど、墓参りをすることもなかったね。過去に何かあったのかなって。でも言ってはくれなかったよ。家族旅行も行かなかったね。自分は旅行が好きだったから、一人で行ってた。奈美も連れて行った事あったね。大きな隠し事があるようには感じた。そんな風にずっと思って生活してるなんて、持つわけないよな。」
「お父さんとは旅行行ったね。北海道、すごく楽しかった。」
奈美は、父との思い出があることに、改めて母との希薄な関係だった事を振り返った。
「やっぱり、何かあるんだよ。お母さんの様子もおかしかったし。」
「そうだな、なんか、奈美の言ってることがまんざら、思い過ごしでないような気がしてきた。」
「でしょ、お母さんには、ここへ来たこと内緒ね。」
「わかってるよ。奈美、携帯お前のじゃないか。ブーブー鳴ってる。」
「あ、ほんとだ。ありがとう。博美さんだ。」
博美のつんざくような声が、耳元で鳴った。
「奈美さーん、もう嫌だよー。怖かったんだから。あの先生の名前をスタッフに聞いてたらさ、後ろから、『私がどうしたの』って、鬼みたいな顔で、上から見下ろして言われたのよ。」
「それで、?」
「それでって、もう少し何か言ってよ。」
「ごめん、ごめん。大変だったわね。」
「うん、もう、それでね。廊下に出って言われて、『これ以上、探ることは止めておく事ね。危険な目に遭いたい?。』だって。もう、私、仕事行けないよー」
「ねぇ、名前は聞けたの?」
「えっ、あっ、名前?浜本美香だって。心理療法士で、いろいろな先進的は技術で、治療してるらしいわ。」
「ありがと。やっぱり美香だったのね。リカの姉よきっっと。」
「奈美さん、もう嫌だよ、こんな事。」
「わかったわ。もう大丈夫よ。ありがと。よく頑張った。」
奈美は、心理療法士という事が引っかかっていた。
「で、奈美さんの方はどうなの。」
「高野さんの家で詳しく話すわ。」
「なんか、探偵みたいだな。危ないことはするなよ。」
2杯めの珈琲を飲みながら、電話を切った奈美に、雅之はそう声をかけた。
「わかってる。大丈夫よ。」
「奈美、おかわりは?」
「ありがと。もうこんなに飲んだら、お腹いっぱいよ。やっぱり、お母さんより、お父さんの方が話しやすいわ。私。もう帰るね。麻衣さんと悠真にもよろしく。」
「そうか、気をつけろよ。なんかあったら、連絡しろよ。」
「わかった。また来るね。」
奈美は、母と話した時とは違う心の落ち着きに浸っていた。
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