第10話 安藤博美 ー直哉の母との再会でー

 安藤博美の母、牧子は、病状が徐々に悪化してきたこともあり、博美の説得で入院していた。それでも、母は、家に帰りたいと懇願するのである。今まで、母が自分に何かを頼み事をするなんてことは皆無だった。

 

「博美、お願いだから、家に帰らせておくれよ。もう、こんなところで死ぬなんて嫌だよ。」

 

 牧子は、博美の袖の裾を引っ張って離さなっかった。

 

「そんなこと言ったって、どうやってお母さんを看るのよ。私、そんな事できない。なんかあったらどうするの?」

 

「もう、何もしなくていい。してほしくないの。こんな点滴もいらない。」

 

「お母さんの言いたい事はわかったわ。でも先生に聞いてみないと。私の仕事もあるし。」

 

「絶対に聞いてよ。早くね。」

 

 そんな見たことのない子供のような弱い母の姿に、博美は心苦しい思いで日々を過ごしていた。

 

 しかし、皮肉にも、そうしたやり取りが、自然に博美と牧子の親子の時間を取り戻していった。

 

 そんな中、面会に行った博美は、母から意外なことを聞いたのだった。

 

「博美、美津子さん、えっと直哉さんのお母さん、昨日来てくれたよ。」

 

「えっ、直哉さんのお母さんって、お母さんが入院してるの知ってるの?」

 

「あの事故から、博美の事を心配して、たまに連絡くれてたんだよ。今の博美のこと話したら、嬉しそうだった。それでね、直哉さんの事で話したい事があるからって、都合のいい日時を書いたメモ置いて行ったよ。」

 

「どんな事かは、言ってなかったの?」

 

「直接話したいって。博美、大丈夫?」

 

「うん、大丈夫、行ってみるよ。」

 

 こんな状況でも、娘の事を心配しているなんて…。

 

 

 博美は、『山村』の表札の前にいた。

 

 ここに来るのも久しぶりだな。事故以来だ…。直哉の母とも葬儀場で会った以来。

 

 緊張するな…。

 

 インターホンを押した。

 

 深呼吸をして、その声を待った。

 

「はい。」

 

「博美です。」

 

 玄関のドアが開き、懐かしい優しい笑顔の直哉の母が現れた。

 

 変わってないな。優しくて、いつもニコニコと、それでいてさっぱりした性格。博美の理想の母親像だった。

 

「ご無沙汰しております。」

 

 博美そう言いながら博美は、もう泣いていた。

 

「すみません、色々思い出してしまって。」

 

「いいのよ。よく来てくれたわね。さ、入って。」

 

 リビングに通された博美は、以前にも、よく座っていた硬めのソファに腰掛けた。

 

「良かったわ。元気そうで。でもお母さん大変ね。」

 

 美津子は、お茶をテーブルに置きながらそう言った。

 

「はい、母は…。私がもっとしっかりしていれば。」

 

 また、涙を流す博美に、美津子は、肩を抱いてくれた。

 

「博美さんが、どう頑張っても、変わらなかったと思うわよ。」

 

「でも…。」

 

「おのお母さんの性格から言って、博美さんには、ぎりぎりまで言わなかったと思うの。辛くても病院なんて行く人じゃないでしょ。」

 

「母の事、よくわかってるんですね。」

 

「あら、それも言ってなかったのね。あなたのお母さんと、同級生なのよ。まあ、直哉が亡くなって、分かった事なんだけどね。」

 

「そうだったんですか。母をやっと入院させたのに、家に帰りたいって。あの、母が私にあんな風にすがるなんて、どうしたらいいのか。」

 

「そうね、でも最近、住み慣れた自宅で看取るという選択肢も増えてるわよ。病院だと、どうしても、点滴をして、検査の度に痛い思いをして、モニターをつけて、みたいな、自然じゃないわね。もう最期って分かってるんだったら、家の中で、家族とともに最期を迎えたい。私もお母さんの気持ち、わかるな。」

 

「そういう話は聞いた事はあります。でも、そんな、私、看護師じゃないし。怖いでうす。」

 

「そりゃ家族にしてみたら、嫌でしょうけどね。決して、楽ではないからね。苦しがってたら、どうしていいか分からなくなってしまうでしょ。亡くなった時は、自分が命を縮めたんじゃないかって、責任を感じてしまったり。だから、お互いよく考えて決断する事ね。直哉みたいに、道端で命絶えるなんて人もいるんだし。自分で最期を迎える場所を選べるなんて最高よ。」

 

「こればっかりは、医者がどんないい薬を処方しても、最期の場所までは、指示できないものね。自分たちが決めないといけないのね。でもお母さん、直哉の事、サラって。受け入れてるんですね。」

 

「そうね、最初は、そりゃ辛かったわよ。時間はかかったけど、電車にも乗るようにしたし、直哉と行った想い出の旅行先にも行ったわ。いっぱい泣いて、いっぱい話すことで、受け入れていくのね。忘れる事なんて出来るわけないじゃない。今でも思い出すと泣いてるわよ。」

 

 美津子は涙ぐんでいた。

 

「そうか、そういう事なのね。なんかわかったような気がする。」

 

 

「よかった。お母さんとよく話して。せっかく時間があるんだから。医者なんて、出来るところまではやるけど、最期は、本人と家族が残された時間をどう過ごすかになるから。」

 

「なんか…怖いけど。母が一番望む形がいいんかな。考えてみる。あ、それで、私に何か話したいって。」

 

「そうなの。本当は、もっと早くに伝えたかったんだけど。これね、直哉が亡くなって、しばらくしてから届いたものなんだけど、指輪を買ってたみたいなの。」

 

「えっ、指輪?私、聞いてなかったです。」

 

「たぶん、直哉がサプライズで、用意したんだと思うよ。近いうちにプロポーズするって言ったし。私がしびれ切らして、問い詰めたらそう言ったのよ。」

 

「直哉…。あの時、電車の中で、直哉は、あとで話があるって言ってた。そういう事だったのね。」

 

 博美はまた涙が溢れてきた。

 

「この手紙、『この度は、ご購入ありがとうございます』って書いてあるでしょ。買った事になってる。でもね、指輪はどこを探しても見当たらなくて。このお店に確認してみたら、渡した日が、あの事故に日だったのよ。ただ、サイズに自信がなかったという事で、後から、どうだったかの返事をする予定だったらしくて、返事もないし、電話も繋がらないし、どうしたのかと、それで、この手紙が来たってことなの。でも見つかった直哉も持ってなかったの。」

 

「えっ、どういう事?」

 

「警察が言うには、どさくさに紛れて、盗られたんじゃないかって。一応、盗難届を出したけど、あんな大きな事故だから、捜索なんて期待はしてないけどね。いまだに何の情報も無いわ。」

 

「ひどい、なんてこと。直哉が可哀そう。」

 

 博美は、ハンカチで目を押さえながら、嗚咽を漏らした。

 

「ごめんね。もっと早くに伝えたかったけど、お母さんから博美さんの様子を聞いていて、この事を話すと、もっと直哉の事を引っ張ってしまって、前に進めないんじゃないかって思ったの。」

 

「ありがとうございます。そうだと思います。あれから、ずっと暗闇でした。自分がなんで生きているのかが分からなかった。でも、ようやく、事故と向き合わないと、直哉も安心できないと思って。」

 

 博美は、鼻をすすり、声をひきつらせ、言葉に詰まりながら美津子に話した。

 

「あと、直哉のスマホなんだけど、ロックがかかってて、お友達とかにも連絡出来なくて。これ、博美さんが持ってて。」

 

「でも…。」

 

「いいのよ、こういうのって、家族より、友達とか博美さんとのやりとりが多いものでしょ。もし、将来、博美さんに好きな人が出来た時には、私に下さいね。それでいいでしょ。まだ、考えられないでしょうけど。」

 

「ありがとうございます。」

 

 博美は、スマホを抱きしめるように、両手で握りしめ、胸に当てた。

 

「博美さん、直哉の部屋、そのままだから、見て行って。」

 

「はい。」

 

 2階にある6畳の部屋は、きれいに整えられた、

 

 直哉らしい…。きっちりしてる。

 

「あ、これ。」

 

 博美は、机の上の写真立てを手に取った。

 

「北海道の旅行へ行った時に二人で撮った写真だわ。」

 

「直哉は、これが一番のお気に入りだって言ってたわね。二人ともいい笑顔ね。この写真も博美さんが持ってた方がいいわ。」

 

「でも、お母さん…。」

 

「他にもたくさんあるから、大丈夫よ。」

 

「ありがとうございます。」

 

 博美は、涙が渇くことなく、直哉の家を後にした。

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