第9話 高野広志 ー親父の死の真相ー
「高野さん。」
高野が母のいる病室へ入ろうとした時、背後から声をかけられた。
「あ、結城さん、来てたんですね。」
「ええ、今日は早めに。それで、高野さんのお母さん、さっき看護師さんが食事介助してたんですけど、あまり食べれなかったようですよ。すみません。隣なんで、聞こえてしまって。」
「ありがとうございます。この前もそんな感じでした。最近、食べれなくなってきてるみたいで。そろそろ親父のお迎えがあるのかもと思ってます。」
「あの、こんな事聞くのも失礼かと思うんですが、奥様って見たことないですね。」
「今、離婚調停中だよ。母さんの見舞いには一度も来てないと思う。」
「あの、この前、私とこの病院に来る途中に見られて、突っ込まれたって言ってたじゃないですか。なんか気になって。」
「あれは、結城さんもこの病院にお父さんが入院してるから、たまたま会社帰りに、面会のために、一緒に病院向かってただけであって、それも言ったけど、なんかバカバカしくなって、もうそれ以上の事は言わなかったよ。向こうも不倫してたしね。調停でハッキリさせるよ。ごちゃごちゃ言う無駄なエネルギーは使いたくないし。」
「そうなの。なんだか、大変ね。」
「でないと、退職金どころか、母さんが、もし、亡くなりでもしたら、保険金まで、持ってかれそうだから、それだけは許せなくて。」
「そうなんですか。私、思ったんですけど、高野さん、いろいろ大変なのに、なんか最近元気だなって。」
「そう見えますか?そうですね、これまでの事を思い出すことがあってね。今まで、自分がちゃんと生きてこなかったなと思ったんです。家族への反省ばかりで。感謝もしてなかったなって。なんか吹っ切れたのかな。」
「そうなんですね。高野さんは気をしっかり持ってて、羨ましいです。うちも、父はもう長くないって言われてて、母もだいぶ前に亡くなってるから、兄弟もいないし、父が亡くなったら、これからの事どうしたらいいのかって、考えていかないとと思ってます。」
看護師の声で、結城は振り向いた。
「すみません、これから、父の事で、主治医と面談なんです。」
「私、母の顔見たら、すぐ帰ります。それじゃ、また。」
高野は、誰もいない実家に帰った。離婚調停が始まったので、ここに帰って来ることにした。職場へは遠くなるが、病院も近く、母の荷物などを整理するために都合が良かったのもある。何よりも、この歳になって、心が落ち着くことが最近になってわかったのだった。
もう、母さんは、ここへは戻れないだろうな…。
実家は祖父から相続した、純和風の古い家屋である。
広いスペースにもかかわらず、靴がほとんど出ていない。きれいに掃除され、スッキリした玄関である。
下足箱の上には、鮭をくわえた、木彫りの熊が置いてある。北海道の修学旅行で自分が買ってきたものだった。当時は定番のお土産だった。
何も変わっていないや。この古い家の匂いは、やっぱりいいね。
上り框を上がり、右へ進むと、こたつが置かれた居間がある。こたつ布団のカバーは、母が編んだ物だ。小さくなって着れなくなったセーターを解いて、毛糸玉を作り、時間をかけて編んでたのを覚えている。そして、父が愛用していた座椅子が、いまだ親父の定位置として、テレビと向かい合うように鎮座している。
母さんと親父の声が聴こえそうだ。返って寂しさを感じるな。親父がいなくなって母さんも寂しかっただろうな。
自分がそこに座ると、おまえには、まだ早いって親父に怒られるかな。
母さんのもの整理するから、いいよな親父。
広志は、両親が寝ていた和室の箪笥の引き出しから、蕎麦ぼうろの長方形の缶を取り出し、こたつの上に置いた。座椅子にあぐらをかいて座り、リクライニングをサイドのレバーで調整した。
座椅子って、こんな硬かったんだ。そういえば座布団を何枚か重ねてたな。
広志は、隣の部屋から、座布団を2枚持ってきて、敷いて座りなおした。
これで、いい感じだ。さて、中を見るか。
広志は、母から、もし自分に何かあったらこれを見るようにと、言われていたのを思い出したのだった。
缶の中には、この家の家と土地の登記簿や、生命保険書類、通帳などが入っていた。自分が亡くなった時に連絡する人。お葬式は、親戚、友人はどこまで声をかけるか。だいたいの予算などが書かれたノートがあった。
なるほどね。そういう事ね。今で言う、エンディングなんとかと言うやつか。
さらに書類の下には一冊のノートが入っていた。母の日記のようだった。日付を見ると、毎日ではなかったが、大学ノートに、小学校の入学、卒業の日など大事な日、兄が亡くなった日、自分が結婚した日。父が亡くなった日、旅行など、特別な日の事が、家族に問いかけるように綴られていた。
『昭和37年4月9日、浩二はもう小学生、小さいのに、いつも広志の面倒をよく見てくれて、ありがとうね。友達ともっと遊んでもいいんだよ。でも、お母さんは助かってますよ。1年生おめでとう。』
『昭和41年4月8日 広志。1年生おめでとう。広志はやんちゃで元気だけど、ケガが心配ね。でもよく、小さな手で、母さんの肩揉んでくれるね。言う事聞かないこともあるけど、家族思いのいい子だね。いつもありがとう。』
そして、読み進めた広志は、母の文調が変わったところで、動けなくなった。
そこには、これまで、広志が知らなかった父の死に関する事が綴られていた。
『昭和46年 9月 16日 お父さんは、今日も、こんな時化の日に漁に出ました。最近、無理してるのがわかります。毎日生きた心地がしません。お父さんは人がいいから、こんな目の遭っても文句も言わずに、今日も海に行きました。借金の保証人なんて。いつになったら終わるのでしょうか。』
「借金の保証人?それで、時化でも海に?」
「昭和50年 12月 22日 あれから3か月、やっと、これを書くことが出来ます。真司さん、あなたが本当にいなくなったなんて、まだ信じられません。あなたは、文句を一つも言わなかったけど、私には、仏のような気持ちには到底なれません。あの男は、借金を残して、どこかに逃げた。なぜ、あなたがこんな目に合わなければならないのか。毎日辛いです。」
そうだったのか…。自分は何も知らずに。母さんは自分たちの前では、不満をこぼすことも無かったし、優しい笑顔しか浮かばないよ…。
高野が落とした涙で、母が綴った優しい文字が滲んだ。
借金は父の保険金で支払ったのか。親父、そこまで、命かけてどうするんだよ。
800万も…。
親父も、母さんも辛かったんだな…。広志は、大きな溜め息とともに涙を拭いた。
そして、ノートと一緒に、ある書類に目が留まった。
借金の保証人の書類だった。父は久住宗一郎と言う男の保証人になっていた。
久住宗一郎か、知らない名だな…。
広志は、ノートに挟まっていた一枚の写真を手に取った。
「だんだん、腹が立ってきた。俺も、仏や神になんてなれないよ。母さん、この男を見つけ出して、親父の墓の前で、土下座させてやるよ。」
広志は、自分の小学校の入学式の時に、校門の前で親子4人で撮った写真を見ながら、そうつぶやいた。
人の怒りは、生きるエネルギーにもなるんだな。
こんな感情を持つという事は、自分がやっと、人間らしくなったってことか。
長くかかったな…。
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