第6話  序章 ーこれから始まるー

 駅前のその喫茶店は、ひっそりと路地の角に建っていた。


 赤茶色のレンガ調の外壁に、百合の花のステンドグラスの丸窓、アーチ形のドアが昭和レトロな外観を醸し出している。


 花や、ベンチなどが置かれた店先では、「喫茶フルール」という青い看板が、大きな顔で主張していた。


 内装は、深藍色の光沢のあるタイル張り。珈琲の薫りがしみ込んだような紫檀色を基調とした家具、深紅色のビロード生地を張った椅子に、銀色の縁取りが昭和感を醸し出すテーブル。使い込まれたくすんだ色合いが何とも言えず落ち着く空間である。


 三人は、昭和感あふれる景色の中に身を置いた。


「あの、私、水口奈美と言います。こういうのって、純喫茶って言うんですよね。私、初めて入りました。ここもタイムスリップしたみたいですけど、でも、あそこの人、マスターかしら、あの人は昭和じゃないわね。」

 

 周囲を見渡す水口を見て、高野が優しい笑顔で答えた。


「そうですね。こういうお店は、口髭で、ロマンスグレーのマスターを想像してしまいますね。たぶん、あの方はマスターではないと思いますよ。自分の学生時代には、こういう喫茶店がたくさんありましたよ。あ、すみません、私、高野広志と言います。今の若い人達にとっては、こういうのが新鮮に映るみたいですね。」


「私も初めてです。安藤博美と言います。ほんとに、この暗さが良いですね。大人って感じで。」


「いらっしゃいませ。」


 短髪で、色黒、白のTシャツが良く似合う青年が、薄い水色を曇らせたような色合いのコップに入れた水を運んで来た。


「珈琲とケーキのセットが良いかな。」


 シンプルなメニュー表に目を通し、水口がまとめて注文した。


「ショートケーキ2つとチーズケーキを1つお願いします。」


「畏まりました。」


 青年が、注文を受け向かった先には、ベストと蝶ネクタイ、白髪の中年男性が。


「あの人がマスターだ。わあ、ドラマみたい。」


「想像通り、それ以上にそのまんま。」


 水口と安藤の声に気付いたのか、マスターが珈琲とケーキを運んできた。


「いらっしゃいませ。楽しそうですね。」


「はい、こんなところ初めてで、ちょっと浮かれてしまって。すみません。うるさかったですね。」


 水口は立ち上がって謝った。


「いいえ、良いんですよ。気になさらないで下さい。最近は物珍しさで、若いお客さまもチラホラお見えになります。いつ廃業してもいい状態でしたので、おかげで持ちこたえています。あり難い事です。」


「ここは、もうどれくらいになるのですか?」


 高野が聞いた。


「もう、40年になります。」


「こういうのは無くならないで欲しいですね。実は、自分も若い頃は、喫茶店を自分でやりたいと思っていましたが、大学卒業してから、世間の流れに乗って就職をして、毎日同じ繰り返しの生活をして何十年、気が付けば、もうすぐ定年ですよ。」


 高野は渋い珈琲を口にした。


「色々な人生がおありですね。それでは、ごゆっくりどうぞ。」


 マスターは丁寧なお辞儀をして、カウンターの中へ戻って行った。


「マスターの後ろ姿も絵になるわね。」


 水口はそう言って、大胆にフォークでケーキのイチゴを刺し、高野に問いかけた。


「でも、ある意味すごいですよ。今なんて嫌ならすぐ転職ですし、正社員もなかなか困難な世の中でしょ。辞めたいとは思わなかったの?」



「それを思うほどの野心も無かったですし。楽だったんですよ。自分を変えないのがね。でも、これまでそういう生き方をしてきて、何か置いて来たような気がしていたんです。」


「それが、あの夢で、分かったってことですか?」


 安藤も、チーズケーキを口に入れながら高野に聞いた。


「そうですね。そのまま、何も変わらない自分で終わると思ってました。でも、忘れ物が何なのかが、分かったんです。」


「何だったんですかそれ。」

 

 高野は、深い溜め息をつき、少しの間をおいて、ずっと蓋をしてきた自分の過去を語り始めた。


「兄の存在をずっと忘れてたんです。忘れてはならない事なのに、墓参りにも行ってなくて。自分のせいだったから、行きづらくてね。酷い弟だよ。夢の中の兄は言ったんです。自分の分も生きてくれって言ってただろって。でも兄が死ぬ前に、そんな事言ってたかなって。気が付いたらもう死んでいたのに。なんでだろうって思ったら、生きてる時に言ってたの思い出したんだ。自分に何かあったらって。確か、肺炎かなんかで入院した時に、言ったことがあった。その時は大げさだと思って笑ってやったよ。今思うと、自分が死ぬの分かてったのかな。そしてね、小さい頃に、自分が大きくなったら美味しいものを作って、みんなに食べさせたいって、兄に話したことがあったんだ。夢の中で言われるまでは忘れてたけどね。実は、数年前に趣味で作った料理を友人が褒めてくれてね。それで和食の店をやらないかとその友人から誘われてたんだ。ただ、海外なんだ。病弱な母親を置いて行けない。それに調理師の免許も持っていない。だから、あり得ないと思っていた。でも、子供のころに、親に卵焼きを作ってあげた時の嬉しかった気持ちを夢の中で思い出したよ。このままでいいんだと妥協しながらも、心のどこかで、今からでも遅くないのかなって思ったような気がする。それに気が付いたんだ。」


「とってもいい事だと思う。高野さんってご結婚はされてるんですか?」


 水口は思った事を口にするのである。


「あぁ、でも妻からは、こんな自分ですから、とっくに飽きられてます。こっちも色々思うことはありますがね。定年で退職金もらったら離婚することになってて。」


「そうなの?これから、夫婦でゆっくり余生を送るとかではないんですね。」


「それは理想ですよ。この前、初めて妻に怒りました。今までにも妻には色々と言われていたんですがね、反論しないのが、楽で良かったんですが。」


 高野は妻に怒った理由を話した。


「それは、腹が立ちますね。それで、ここに?」


「そう、どうしたら、いいのかと。」


「それで、そのお友達のお誘いには乗るの?」


「前向きに考えようと思う。母親の事もあるし、まずは調理師免許取らないとね。」


「奥さんとはどうするの?」


「妻とは別れるよ。あの人は、退職金しか頭にないからね。仕事も定年待たずに仕事辞めようかなって思ってる。またダラダラとやってると、気持ちが萎えてしまいそうで。それに、妻は都合のいい事言ってたから、ほとんど財産も取られる可能性もある。今までは、別にそれでもいいと思っていたけど、これからお金がかかると思うと、目が覚めた感じだよ。弁護士立てて離婚しようと思っている。」


 高野の眼は少しうるんでいた。


「すごいじゃない、吹っ切れたのね。応援するわ。」


「ありがとう。まずは、墓参りで、兄にしっかり謝るよ。」


「それが良いわね。あら、博美さん、汗かいてないわね。」


 おいしそうにチーズケーキを頬張っている、博美に声をかけた。


 博美は、口の中のケーキを珈琲で流してから、話し始めた。


「そうなの。ほんとは汗っかきでも何でもなくて。私、8年前の電車の脱線事故の時にその電車乗ってたんです。その時のトラウマというか、パニックになって動悸と汗が出てしまって。こんなんで電車に乗るこことも出来ないし、外にも出れないし。仕事もずっとしてなかったの。でも…最近、母が末期の癌って知ったの。自分は家にこもってる場合じゃない事は分かってるのよ。それなのに、動き出すことが出来なくて。」


「あの事故覚えてるわ。酷い事故だったわね。博美さん助かったんだ。」


「安藤さん、よく無事で。」


「でも、一緒に乗っていた恋人を失っているの。」


「えっ、そんな…辛すぎる。」


「うん、でも、その人が夢の中で言ったの。私があの事故の場所から離れていないって。前を向いてないって。こんな感じだから、母とも関係が良くなくて、私、何やってたんだろうって。」


「それで、どうするの?」


「うん、もう遅いかもしれないけど、事故の前に考えてた看護師を目指そうかなと思ってて。もう私には無理って思ったけど。事故の時も、母の事も、何も出来ないなんて悔しくないのかって。夢の中の彼がね。」


「遅くないよ。40歳過ぎても、看護学校行く人いるもの。」


「そうだよ、今気が付いて良かったんだよ。自分みたいに、60近くなって何かしようとするものもいるんだから。」


「そうね、少し、気が楽になったわ。で、奈美さんは、どうだったの?」


 博美は、奈美に話を振った。


「なんかね、まだ、中途半端な感じなのよ。私、仕事で悩んでて、両親もそれぞれ、再婚して、私、天涯孤独のようなもんだし。もう生きる意味がないと思ってたのね。ここに来たってことはまだ、自分の中では、諦めてないってことだけど。私の両親が、本当の両親でなかったってことを教えられたというか、思い出したの。確かに母のイメージが二つあるのよ。それで、本当の母は亡くなっているようなんだけど、父の事が分からない。なんで、そうなったのかを調べないと、仕事で悩んでる場合じゃないと思って。自分の事なのに、全然覚えてないなんて。夢の中の事が本当なのかもわからない。」


「そうなんだ。なんか、すごい過去なのに、奈美さんって冷静ね。でも、解決してないのに戻れたんだ。」


「赤野さんていたでしょ?なんか、私がまたここへ来ることになるって言ってた。だからじゃないかな。」


「どういうことなんだろうね。奈美さん、私も協力するわ。」


「私も、出来る事があれば。」


「ありがとう。でも二人のやらなきゃいけない事をやって。何かあれば連絡するわ。」


「ねえ、定期的に合わない?ここで。半年ごととか、一年でもいいけど。」


「安藤さん、それ良いわね。そうね、とりあえず、半年後に会って、その後は一年後ってどう?」



「あの、盛り上がっているところすみません。ここが、いつまであるか分からないですよ。」


「マスターそれは、分かっています。だから、半年後、とりあえず来てみます。それまでは、やっててくれるといいな。」


「お約束はできませんが、努力はさせていただきますね。」


 三人はフルールを出た。

 

 奈美は振り返って、古い喫茶店を見て思った。


 確かに、半年後あるのかな…

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