第4話 安藤博美の処方箋

それでは、安藤さん、処方箋をお願いします。

 

「はい、お願いします。」

 

「87番ですね。」

 

「お顔、映して下さい。」

 

 ボックスの中を覗きこんだあと、安藤は両手で顔を覆った。

 

「やっぱり、傷だらけの顔だわ。あの先生、この傷は、傷ついた時から私が止まっているんだと言っていたわ。」

 

「そうね、きっと、先生の選んだこの処方箋で、きれいなお顔になるわよ。」

 

 安藤の腕にはコスモスの花が刻まれた。

 

「そうなるといいけど…。」

 

 安藤は、コスモスのマークを見て、深い溜め息をついた。

 

「さ、安藤博美さん、もう間もなく着きますよ。」

 

「はい。」

 

 安藤は、緊張で、その細い身体を震わせ、再び汗をかきだした。

 

 奈美は、安藤の背中を擦りながら、

 

「きっと、いい結果が出るわ。」

 

「ありがとう。水口さん。」

 

 安藤はそう言って、バスを降りた。

 

 安藤博美は32歳独身。 引きこもりに近い生活をしていた。両親は安藤が小学生の時に離婚。

 

 今は、母との二人暮らしである。

 

 博美が、引きこもったのには、悲しい理由があった。

 

 博美は、24歳の時、電車の脱線事故に遭っていた。たくさんの死傷者が出た大惨事だった。その事故で、一緒に乗っていた恋人の直哉を失っていた。

 

 

 事故直前、博美は車両の一番端の座席に座り、すぐ前の手すりに掴まり立っていた直哉と話をしていた。

 

「博美、あとで、話あるんだ。」

 

「えっ何?」

 

「後でね。お楽しみ。」

 

 つり革につかまり、直哉は満面の笑みを、私に向けてくれていた。


 それは…、突然だった。

 

 ものすごい全身を揺さぶるような金属音が脳を突いた。

 

 その衝撃とともに、自分は何人もの乗客と絡みながら、車内の自分が座っていた座席と対角線の角の方に向かって転落した。天地が分からず、何が起こったのか分からず、博美はパニックになった。

 

 そして、気が付いた時には、たくさんの折り重なる人たちの山の上に、自分は横たわっていた。

 

 自分が転落した衝撃で、負傷したのか、下になった女性が自分の耳元で唸っているのが聴こえた。あちこちからも呻きや、泣き声が聴こえる。

 

 直哉がいない。どこにも姿がなかった。

 

 必死に名前を呼んだ。身体が痛い。焦げるような臭いもする。ここを降りなければ、下になった人が助からない。

 

 そう思った博美は、ガラスの破片を被った蠢く人たちの上を踏み登った。足裏に感じる人間の柔らかい弾力にバランスを崩しながら、「ごめんなさい」と何度も繰り返し謝り、血の臭いが漂う人の山を泣きながら登った。

 

 出入口のドア付近にある縦の手すりに手が届き、鉄棒にぶら下がるように足が空中を掻いていた。直哉の名前を呼んだ。だが、たくさんの悲鳴や、泣き声で、自分の声は消された。座席に足をかけながら、ドアの手すりの下の座席との仕切り板に身体を乗せた。そしてドアの隙間から、身体を出し見た光景に、泣いていたことも忘れ、血の気が引き、ただ、茫然としてしまった。

 

 一両先の車両の先端が、陸橋からはみ出し、宙に浮いていたのだった。

 博美は、ドアから上半身を出したが、地面までの高さがあり、滑り台のような急な勾配に躊躇していた。博美は、自分の足元で聞こえた「早くして」の声に意を決し、窓を足掛かりとして、ガラスに傷つけられながらも、地に降りることができた。外には、投げ出された人なのか、ぐったりと血だらけで、横たわっている姿が目に入った。悪夢を見ているかのようだった。直哉の名をを叫びながら、探したが見つからなかった。途中、救助された博美は、すぐ直哉の家族に連絡を入れた。

 

 ずっと泣きながら、ごめんなさい、ごめんなさいと直哉の母親に何度も謝った。

 

 あとから、母親より、直哉は電車の外で発見されたと聞いた。手すりに掴まっていた直哉は、割れた窓ガラスから外に投げだされたと思われた。

 

 私が座ってたからだ。私が早く探し出せていれば助かったかもしれないのに。私の下になったたくさんの人たちも、私のせいで…。ずっと自分を責めていた。自分だけが何故助かったのか…。

 

 安藤は、今でも電車には乗れず、人込みの中にも入れず、自宅から出る事に抵抗を感じていた。人と話すことは出来るのだが、5.6人の人がいると、もう逃げたくなるのである。

 心療内科へも通ったが、改善することは無かった。

 

 そんな中、自分の母親が癌を患い、余命半年という宣告を受けながらも、仕事へ行く姿を見て、自分もなんとかしなくてはと思うのだが、外へ出る事が出来なかった。足がすくんでしまうのである。そんな自分に母は何にも言わずに、仕事へ出かけている。

 

 母は1年前から、体調を崩していたが、自分には何も言わなかった。医師からは、もっと早くに治療していれば、救えたと言われた。


母が言わなかったからだ。私のせいではない…。

 

 そんな母より、この診療所の存在を勧められた。母はどこから、この情報を得たのかは知らないが、自分に時間が残っていない事と、何も進まない娘の状況に、初めて介入してきたのだろう。


 仕方なく、従った。

 

 

 この山の中の駅舎での待合室は、博美は平静でいられた。しかし、電車に乗ると、動悸がし、冷や汗をかき、気が遠くなりそうになった。隣にいた奈美が、そんな自分を落ち着かせてくれたのである。

 

 安藤博美は、バスを降りた。

 

 最初に見た景色は…。


 自分の住んでいる町だ。

 

 誰もいない。コンビニもあるが、店員も客もいない。

 

 なんでだろう。まるで、ゴーストタウンだ。

 

 自分の家には母はいるだろうか。会いたいとは思わなかったが、博美はゆっくりと、周囲を見ながら、歩き出した。

 

 公園にも人がいない。

 

 夢の中だからと言って、誰もいないなんて…。

 

 鳥も飛んでいない。空が白い。

  

 砂漠みたい。砂漠でも虫はいるはず。地面をみても、蟻の一匹も見当たらない。

 

 ここには命がないみたいだ。

 

 自分の声だけが響いている。

 

「誰もいないのーっ」

 

 静寂すぎる静寂だ。経験はないが宇宙の中にいるみたいに思えた。

 

 怖い…。

 

 どうしよう。このまま、誰もいなかったら、私はどうすればいいんだろう。

 

 

 どれくらいの時間が経ったのか…。長く感じる。

 

 どうしよう。

 

 また、動悸と、汗…。

 

 人ごみどころか、誰もいないのに、辛くなるなんて。

 

 誰か、誰か…。

 

 何でこんなところに来たんだろ…。来なければ良かった。

 

 

 ふと、博美の前髪がなびいた。

 

 風だ。

 

 何でもない事に、命を感じる…。

 

 髪がなびきが合図のように、周りの画面が動き出した。

 

 人、動物、雲…。雨だ。

 

 あー良かった…。

 

 人がいる。ホッとした。

 

 道端で、誰かうずくまっているのが、目に入った。

 

 博美は慌てて駆け寄った。

 

 「おばあちゃん、大丈夫。」

 

 でもこちらの事が目に入らいのか、ずっとうずくまったままである。

 

 「どうして、何にも出来ない。」

 

 そのままぐったりとしてしまった。

 

 どうしよう。どうしたらいいの?夢の中と分かっていても、博美は焦っていた。

 

 ふと、母親の姿が目に入った。

 

 あ、お母さんだ。

 

 目の前を通ったのに、お母さんも、私に気がつかないの?

 

 ここにいるのに。

 

 「ねえ、お母さん。」

 

 声をかけても、知らんぷり。なんで、夢の中だから?

 

 無視するなんて…。

 

 景色が変わった。

 

 ここは…家の中だわ。

 

 えっ、自分だ。お母さんに話しかけられている。

 

 私の部屋の中だ。

 

 あ、あの時だ。覚えている。確か、事故から1年経った頃。

 

 「たまには、外に出たら。」

 

 あの時は、聴こえないふりをした。

 

 あんな悲惨な体験している私に外へ出ろなんて、ひどい母だと思った。

 

 鬱陶しくさえ思っていた。

 

 親なんだから、自分の子供ために働くのは当たり前だと思っていた。

 

 母は厳しかった。離婚してからは、おもちゃを与えられたり、どこかへ連れて行ってもらった記憶がない。

 

 母との楽しい思い出が無いのである。勝手に離婚して、貧乏を強いられる。そんな母親が嫌いだった。

 

 私は、ずっと母親の干渉をわずらわしく思っていた。

 

 気が付けば、母は何も話さなくなり、自分と母との距離は遠く、深い溝が出来ていたのだった。

 

 テレビの音も、外の車の音、雨の音も嫌だった。

 

 何もかもすべて消えてほしいと思っていた。

 

 しかし、ほんとに音が消えた世界は怖かった。そして自分の存在を認識してもらえない辛さを知った。

 

 これまでも、距離を縮め、溝を埋める機会はあったのに、事故を理由にしていた。最愛の恋人を失った悲しみを理由にしていた。悲劇のヒロインをアピールしていた。

 

 母が癌になり、初めて知った。仕事を掛け持ちでしていた事を。

 入院費などで、生活費が嵩み、働かざるを得なかったのだ。

 

 今、母の辛さを初めて知ったような気がする。

 

 距離は縮められるだろうか。溝は埋められるだろうか。

 

 

「博美、大丈夫だよ。」

 

「直哉、直哉じゃない?傷だらけじゃない。私…。」

 

「どうしたの?」

 

「どうしたのって。私、直哉を助けれなかった。ごめんなさい。」

 

 博美は夢の中で泣き出した。

 

「謝らないで。これが僕の運命だったんだよ。」

 

「でも、どうして、ここにいるの?今まで、夢にも出てきてくれなかったのに。」

 

 ここは…あの時の事故の現場だ。直哉が脱線した電車の前に立っていた。

 

「博美が、ここに来てくれなかったじゃないか。」

 

「ずっと会いたかったのに。なんで、ここなの。夢でもここは嫌。」

 

「博美がここから、離れてないからだよ。ここでしか、僕には会えないんだ。」

 

「そんなの無理だよ。」

 

「博美は生きてるんだろ?」

 

「そうよ、生き残ったの。あの時、直哉と死んでも良かったのよ。」

 

「だから、博美は、ここにずっと止まったまんまなんだね。僕なら、命があったなら、することたくさんあるんだけどな。」

 

「私には無いわ。何も。」

 

「そうか、もう忘れちゃったんだね。」

 

「何をよ。」

 

「博美、医療事務しながら、何か言ってなかったっけ。」

 

「忘れたわよ。」

 

「看護師になりたいって。同じ事務の子が、看護大学受かって行ったって。自分もそうなれたらなって。あの時の博美の眼は輝いてたよ。」

 

「そんな事、もう無理よ。」

 

「君は、この惨状を見て、なんとも思わないのか。お母さんの病気の事も。」

 

「お母さんの病気の事知ってるの?」

 

「君の頭の中なんだから、分かるよ。博美が、すみっこで思っていることを、僕は言葉にして話しているだけだよ。」

 

「そんなこと、言われたって。」

 

「ケガをした人や病気の人を前に、何も出来ない自分が情けないと思わないのか。さっきの、自分の声が人に届かないのは、知識が技術を持っていないだけでない。博美が、この場所から離れないからだよ。だから、博美は生きながらにして魂を持たない抜け殻みたいなもんさ。」

 

「そうかもね…。」

 

「反論しないのか。良い子だ。」

 

「あ、それ、よく言ってたね。子供じゃないんだからって、私が、良く怒ってた…。」

 

「想い出、たくさんあるね。想い出も大事だけど、今の時間を生きないと。この場所から抜け出すことができれば、声も届くし、博美の顔の傷、消えるよ。きっと。」

 

「…。」

 

「お母さんの今一番の治療は、博美の言葉を届ける事だね。」

 

「でも、私、電車に乗れない。人込みが無理なの。」

 

「そうだね。でもね、博美は、あの事故を忘れられないから電車の乗れないんじゃない。事故と向き合ってないからなんだよ。事故の事は忘れる必要なんてない。それを受け入れる事が大事なんだ。ちょっとずつでいいから、外に出て、電車に乗って、僕をたくさん思い出して、あの惨状を思い出すんだ。」

 

「そんなこと。怖い。私にできるかしら。」

 

「誰だって怖いよ。でも、今、君はこの夢の中で、もう向き合っているよ。ここに来たことで、もう気持ちが前に向いている。事故に向き合う事で、事故に対する辛い気持ちを消化していくんだ。それで、初めて、君の声は、お母さんに届くよ。僕にもね。君は、生きているんだ。生きたくても生きられない人もたくさんいる。博美にしかできない事、たくさんあると思うよ。それを見つけて、僕に教えてくれよ。その時は僕の顔もきれいになってるかな。」

 

「直哉、私、何もしていなかった…。自分だけが、なんでって。こんなつらい思い。死んだ方がマシって。あの事故で亡くなった人たちの慰霊の会にも参加もしなかった。」

 

「そうだね。でも、もう大丈夫だね。お母さんとも、ちゃんと向き合ってね。誰よりも、博美のこと心配してるよ。自分の命が長くないっと分かってても、娘を守ろうとしている。」

 

「うん、ごめんなさい。分かってた。分かってたのよ。でも事故のせいにして、厳しかった母に反抗してたのよ。」

 

「コスモス、見てごらん。きれいに色づいてるから。」


博美は腕のマークを見た。

 

「ほんとだ、ピンクになっている。」

 

 バス停行っていいよ。

 

「嫌だよ、もう少し、直哉と話したいよ。」

 

「そんなことしてたら、おばあちゃんになってしまうよ。」

 

 電車のガラスがきれいになっていた。博美の顔が映っている。

 

「ほら、傷も消えて来ている。」

 

「ほんとだ。ありがとう。直哉。」


 直哉の姿は消えた。

 

 安藤博美は、バス停に来た。

 

 コスモスが風になびいていた。


  母が大好きな花である。派手な花より、優しい花が好きだと、言っていた事があった。

 これ、摘んで行けるかしら。

 

 博美がコスモスの花を何本が摘んだところで、目が覚めた。

 

 電車の中だった。高野広志が、すでに覚醒していた。

 

「戻ってたんですね。」

 

「ええ、少し前に目が醒めました。この季節に珍しいですね。コスモスですか?」

 

 博美はコスモスを握りしめていた。

 

「あら、ほんと。夢で摘んだんです。母にあげようと思って。」

 

「それはいいですね。」

 

「なんか、失礼ですけど、さっきより、若くなってる気がします。」

 

「そうですか、あなたも、顔色が良いですね。あと、その女性だけですね。」

 

「なんか、苦しそうですね。大丈夫かしら。」

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