第3話 高野広志の処方箋
「では、処方箋を処理しますね。では、高野さんから。」
高野は、赤野の元に、神代医師から手渡された処方箋を持って行った。
「処方箋番号は256番ですね。」
赤野は、運転席の隣に設置してあるボックスの赤野側にはめ込まれたケースの挿入口に、処方箋カードを差し込んだ。
「このボックスの鏡に、高野さんのお顔を映して下さい。」
高野は、箱の中を覗き込むように、自分の顔を映した。
「さっきっも見たけど、ひどい顔だな。まるで、のっぺらぼうだ。目鼻口がハッキリと見えない。」
「では今度は、腕を出してください。左右どちらでもいいので。」
高野は、のっぺらぼうの自分の顔が頭の中に余韻として残っている中、ワイシャツの袖を捲りあげ、左腕を赤野に差し出した。
「あの顔、良くなりますかね。」
「そのために、今から治療に行くのですよ。」
「治療ですか。なるほどね。」
赤野はボックスのサイドから、処方箋が差し込まれたケースを取り出した。そして、そのケースの側面から放たれたオレンジの光を、高野の前腕にかざした。
高野の腕に当てられたオレンジ色の中に、黒く何か浮かび上がってきた。
高野の腕に刻まれたマークは、百合の花だった。
「今、これ、黒いですよね。何色に変わるかは、分かりませんが、充実すればするほど、赤くなります。」
「分かりました。入れ墨みたいですね。痛みとか、痒くなるとかは大丈夫ですか?」
「それは、大丈夫です。夢の中ですから。眠っている時に、蚊に刺されたら痒くなるかもしれませんが。」
「そういう事ですか。分かりました。」
高野は笑みを浮かべた
「あのおじさん、笑うんだね。」
水口は安藤の耳元に小声で話掛けた。
「えー、バス停には、高野さん、安藤さん、水口さんの順で停まります。お気持ちの準備をお願いしますね。では、出発します。」
3人に緊張感が走った。誰も喋る余裕はなかった。
バスは静かに出発した…というか、進んでいる感覚が分からない。
バスの外は、明るく鮮やかな色の彩られた光が流れるように渦巻いていた。
きれい…タイムスリップみたい。こんなきれいな夢見たことない。
「高野さん、間もなく着きますよ。」
静かな車内に、赤野のソフトな声が響いた。
「バス停に降りたら、バスが消えます。そのあとに景色が広がりますが、その景色は、皆さんの記憶の中から先生が選んで処方していますから、思い出せない景色であっても、必ず見ている景色です。そこから、旅をスタートさせてください。」
「なんか、怖いな。」
高野の表情がこわばった。
光の渦の動きが、ゆっくりとコマ送りのようになり、停止した。
「さあ、着きました。高野様。行ってらっしゃい。良い夢を。」
赤野はそう言って、ドアを手動で開け、見送った。
高野広志は、定年間近のサラリーマン。大学失業後、1時間の電車通勤を35年間、休まず続けている。
課長から、部長に手が伸びそうなところで、定年となりそうだが、高野は全く出世欲がない。妻からは、定年退職後の退職金が入ったら、離婚と告げられていた。
ただ毎日の日課をこなし、年月が流れ、気が付いたら、こんな歳になっていた。
子供もおらず、妻は好き勝手なことをしており、夫の自分には全く興味が無い。それは感じていた。妻に浮気されても、何とも思わなかった。夫婦関係はもう終わっていたのだ。
このまま定年を迎え、妻の言われるままに、退職金をもぎ取られ、離婚する。
それでもいいと思っていた。退職後も何も計画もなく、ただ年月が流れ、人生の最期を寂しく迎える。そう思っていた。
しかし、最近、妻に対して初めて、怒りという感情が高野を襲った。
今の今まで、何を言われて、言われるまま、反抗もせず、それが、事を収束させる最善の方法だと思っていた。
しかし、ある時、自分がある女性と歩いていたところを見たという妻の言葉に憤慨してしまった。
「あんたみたいなクズには、クズがお似合いね。あの呆けたばあさんの面倒でも見てもらえばいいのよ。でも私は定年までは離婚しないわよ。」
「なんだと!自分は何を言われても良いが、母の苦労も知らない奴に、言われたくない!」
結婚して初めて、妻に声を荒げてしまった。
退職金の事も、女性の事も、自分にこんな感情があったことに驚いた。慣れない感情に高野は自分をコントロールできなくなりそうで怖かった。
ある日、新聞の片隅の記事に目が溜まった。『灯しや診療所に悩みの相談を』という内容だった。記事を切り抜いた紙片を、しばらく財布に入れておいたのだが、妻の顔を見るたびに、この記事を思い出す。
この悶々としたこのやり切れない気持ちを、誰かに聞いて欲しくて、その記事を頼って、ここへ来たのだった。
高野は、バスから降りた。そこは、上下左右、360度、白の空間だった。
目の前のバスは、魔法のランプに引き込まれるように、光の渦の中へと、あっという間に姿を消した。
そして、赤野が言った通りに、青い景色が現れた。
音も聴こえる。
波の音だ。
だんだんと、その景色は鮮明に高野の目に広がっていった。
ここは…。
あの海だ。
コンクリートの防波堤の上に座って、海を眺めていた。潮の薫りが、悲しい。
「ここにいたのか。」
「あ、親父。」
父は右隣りに座った。
「広志、久しぶりだな。そんな驚かなくても。おまえの夢の中じゃないか。」
「親父、若いなって思って。」
「そりゃそうだ。広志が高校生の頃だったな。俺が死んだのは。45歳だったからな。それにしても、なんか、生きてるのか、死んでるのかわからん顔してるな。」
「まあ、今まで、何してきたのかってね。」
「そうか。悩んでるんだな。でも広志の夢に出れて嬉しいよ。」
「これ夢の中なんだね。そうだよな。親父がいるなんて。自分も何が何だか分からないでいる。」
「そんなもんだよ。」
「親父、この海で死んだよな。苦しかった?」
「そりゃ、苦しかったさ。でも一番は家族の事が一番心配だった。母さんやお前には迷惑かけたな。」
「いいよ、そんな事。漁師として生きて後悔が無かったの?」
「それは無かったな。海の上で死ねたんだ。こんなやり切った人生はないよ。」
「でも、もっと生きて、何かしたいとか無かったの?」
「いつも、船底の板一枚下は、『死』だと思っていたから、常に思い残すことは無いような気持ちで、船に乗ってたよ。」
「そうかあ。すごいな。俺は一度も命かけたことなんてないよ。」
「短い人生だ。好きな事やらなくてどうする。」
「この歳になって、もう遅いよ。何をやっていいのか。母さんもいるし。もう、俺の事分からないよ。」
「母さんも、もう迎えに行かないとな。そろそろだよ。」
「何が、もうそろそろだって?」
「あ、母さん。」
母は、広志の左隣に座った。
「なんだかね、私も呼ばれちゃってね。」
「母さん、ちゃんと喋ってる。」
「何言ってんだい。あんたの夢の中まで喋れないんじゃ。どこまで、母さんの印象薄いんだよ。」
「そっか。夢なんだ。母さん、親父と喧嘩ばっかりしてたけど、仲は良かったよね。」
「何だい、そんな事聞きたいのかい。そうだね、言いたい事言ってたしね。人間だもの、嫌な事もいっぱいあるけどね。それ以上に、この人の一所懸命なところが好きでね。この人で良かったって思ったんだよ。」
「そうなのか。自分には、心が動くような事何にもなかったな。」
「なかったなんて、まだ、先があるじゃないか。咲子さんの事だろ?あんたもな悪いんじゃないのかい?」
「出世しなかったから?」
「そうじゃないだろ。その考え方だよ。ただ時間過ぎるのを待ってるだけの、広志なんて、誰が魅力感じるんだよ。」
「だってさ…。」
「人のせいにしないの。色々あるのが夫婦だ。お互い様だよ。でも信じ合えなくなれば、終わりだね。」
「母さん、もっとこんな話出来ればよかったよ。」
「今になって後悔かい。人はいつどうなるか分かんないのよ。一日一日が大事ってのは、この事なんだよ。」
「でもな…。」
「そこ、そこなんだよ。何でも後ろ向きなんだよ、広志は。でもさ、小さい頃は、母さんに卵焼き作ってくれたね。すごく美味しかったよ。たくさん作ってくれた。あの時は本当に、何でもやる子だったのに。」
「母さん、広志に小さい頃の事見せてやるといいんじゃないのか。」
「そうだね、それがいいね。小学生の頃のあんたは、良かったね。好奇心の塊だったよ。浩二とよく山に行っては、泥んこになって帰って来てたよ。あの日まではね…。」
「えっ、小学生の頃って。あの日って。」
景色が一瞬で変わった。
「母さん、親父…。」
高野は、周りを見渡したが、誰もいなかった。
「もう少し何かないのかよ。まだ、話したかったのに。あの医者演出下手だな。」
でも、ここはどこだ。覚えてないな…。
「広志何やってんだよ。早く来いよ。」
誰かが呼んでいる。
「あ、待って。」
走って追いかけている自分。
「兄だ。そうだ、兄がいたんだ。なんで忘れていたんだろ。浩二兄ちゃん、ごめん…。」
海と山に囲まれた、田舎町。思い出してきた。
いつも兄のあとを追っては、虫取りや川遊びをしていた。
この日もそうだった。夏休み、梅雨の終わりごろの、雨が降ったあとだった。
数日間、雨で遊びに行けずにずっと我慢していた二人は、梅雨明けと同時に飛び出していった。
雨上がりの蒸し暑い日は狙い目だと言って、早朝に二人で出かけた。
カブトムシや、クワガタが良く撮れる、自分たちが発見した秘密の場所があったのだ。
ただ、そこへ行くには、川を渡らなくてはならない。橋もあったが、ずいぶん遠回りを強いられる。
いつも、一番川幅の小さい場所を探しては、渡っていたのである。
「広志、今日はやめておこう。雨で、川の水増えているし。危ないよ。」
「えーでも、せっかくここまで来たのに。大丈夫だよ。こんなに天気良いもん。」
自分何言ってんだ。違うダメだって言わなきゃ。しかし、この時の自分は…。
「兄ちゃん、僕が先に行くよ。」
「広志、ダメだって。」
「こんなのへっちゃらだよ。」
渡り始めた小さな広志の足を、川の流れは、あざ笑うかのように軽々とさらっていった。
慌てて広志を助けに川に入った兄の浩二も一緒に流されてしまったのだ。
そうだ、あの時、膝までくらいしか水がなかったから、大丈夫だと思ったんだ。でも川の流れの力は強かった。子供の足では、全く立っていられなかったんだ。
兄が助けに入ったのは分かった。でも、自分が流されてくのに精一杯で。気が付いた時は、兄ちゃんが血だらけで…。
ぐったりと、大きな岩に引っ掛かってて…。
泣きながら母さんを呼びに行った。
でも…自分は言わなかった。言えなかった。
兄が止めたのに、自分が無理やり川を渡って、溺れた自分を兄が助けに入ったことを。
そうだった。ごめん。浩二兄ちゃん。ごめんなさい。
「広志…。広志…。何泣いてるんだ。」
兄の声だ。
「兄ちゃん、ごめんなさい。俺、ずっと浩二兄ちゃんの事忘れてた。」
「なんだ、そんな事か。広志、親父や母さんの事、ありがとうな。感謝してるよ。ただな、僕の分も生きるって言ったはずだろ。」
「そんな事言ったって。」
「ちゃんと生きてるか?やりたい事やれてるか?兄ちゃんの分も楽しんでるか?」
「ううん。全然だよ。」
「何やってんだよ。」
「兄ちゃんに、大きくなったら、美味しいもの一杯作って、家族に食べさせてあげたいって。あの時の夢はどうなったんだよ。」
「そんなもの、とっくに忘れてたよ。」
「あの時から、冒険できなくなったんだね。もう気にしなくていいから、好きな事すればいいよ。」
「兄ちゃん…。」
広志は子供に戻っていた。
「広志、墓参りしてくれよ。」
「広志、喋れなくても、聴こえてるからね。」
「広志、いいか、兄ちゃんの分も、思ったように生きるんだ。」
「親父、母ちゃん、浩二兄ちゃん。ありがとう。俺、ちゃんと生きてなかったよ。せっかく生まれたのに、病気もなく生きてるのに。遅いかもしれないけど、頑張るよ。」
あ、そうだ。腕。
百合の花は、ピンク色に変わっていた。
バス停に行いかないと…。
待てよ、もっと赤くなるまで、待ってみるか。いや、これ以上冒険しても。
ま、いいか。あれやこれや知ったところで、自分が選ぶ人生だ。
帰ろ。
目の前には川が流れていた。
広志は、川に向かって手を合わせた。
すると、川の流れが止まり、川面に自分の顔が映った。
目、鼻、口がハッキリと見えた。うん、これで治癒という事か…。
バス停には、百合の花が咲いていた。
あ、腕の百合、大丈夫かな。
赤くなってる!
これでいいんだ。
高野はすがすがしい気持ちになっていた。
夢から醒めた…。
電車の中だった。
少し離れて並んで座っていた、あとの2人の女性は、まだ夢から醒めていなかった。
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